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空色のワンピース

作者: 景雪

 美夏子に肩を揺すられて、鈍行が雀宮駅に着いたことを知った。上野から二時間弱の車内は小刻みな振動が心地良く、揺りかごで眠る赤子はこんな気分なんだろうかと想像させる。美夏子が言うには、僕は全く起きようとしなかったそうだ。昨日仕事から帰ったら十一時を過ぎていたから、睡眠時間が足りなかったのだろう。年度末の三月は新年度の契約締結事務がいくつも重なって、僕の職場は殺気立った繁忙期になる。実施伺、業者選定委員会諮問伺、執行伺、契約登録伺、支出命令……複雑な契約事務の段取りとうんざりするほど名前が連なった決済ルートは吐き気がする。だからお役所仕事と罵倒されるんだと、面と向かって知事に言ってやりたかった。

 「うわ。なんだこりゃ」

 雀宮駅のホームに降りて僕は思わず声に出してしまった。そこは自分の知っている実家の最寄駅とは大きく姿を変えていた。道路からそのまま駅舎があって、ホームが二つと汚い便所があるだけの小さな駅だったのに、駅舎が二階部分に移動していて東西自由通路までできている。

 「平成二十三年三月下旬に完成したって書いてあるよ」

 美夏子が、新しい駅に生まれ変わったばかりだと教えてくれて、僕は鉄柱を探した。明治時代に造られた鉄柱がホームに残されていて、それと同じものは僕が一人暮らしをしている大森駅にもあり、僕が生まれた栃木の宇都宮と今住んでいる東京の大森に、不思議な親近感を抱いていたから。でも、いくら探しても鉄柱は見つからなかった。自分が良く知っている故郷がいつの間にか変わってしまったやるせない気分になったけど、駅前の夜九時までしか営業していないコンビニが今でもあることに少しはほっとした。

 「へー。宇都宮工業高校が移転するのか」

 僕は独り言を言った。移転先が、昔、蛍を見た場所だと知って、やはり確実に故郷が遠ざかった事実をかみしめながら。


 「実家まではどのくらい?」

 並んで歩きながら美夏子が聞いた。彼女は僕と同じくらいの背丈なので吐く息が顔にかかった。北関東の春はまだ遠く、彼女の息は白かった。

 「歩いて十五分くらいかな」

 そう答えながら、駅の前に伸びる道は僕の記憶とそう変わっていないことに安堵した。「やきとり大ちゃん」という黄色い看板が目に入ってきて、ああ、ここの焼鳥はでかくてうまいんだよな、などと懐かしんだ。

 「お口に合うかな。お母様は甘いものお好き?」

 美夏子は「DALLOYAU」と書かれた赤い紙袋を少し持ち上げた。それを何て読むのか全く分からなかったけど、わざわざ彼女に読み方を聞くことはしなかった。

 「何それ?」

 「マカロン」

 「あー、お袋は多分好きだと思うよ。親父は酒飲みだから甘いものは食べないけど」

 マカロンという物体が一体どんな形をしているのか、何色なのか、そもそも食べ物であるかさえ知らなかったけど、美夏子が選んだのなら大丈夫だろう、と思った。彼女は、婚約者として躊躇なく両親に紹介できる良くできた女性だった。少なくとも、あの時までは。

 三ヶ月前のその日、僕はアパートで美夏子とゆっくりしていた。疲れていたのか僕は昼寝してしまって、一時間ばかりして目を開けると彼女が僕の携帯電話を見ていた。僕はまた目を閉じて、眠っているふりをしたけど、彼女が僕の携帯をいじるかすかな音が気になって気になって仕方なかった。

 駅からまっすぐ続く道が国道四号線にぶつかる手前で、向かいから二十歳にまだなっていないくらいの女の子が歩いてくるのが見えた。その子が僕らのすぐ目の前まで来たところで、厚手のコートの前がはだけて下に着ているワンピースが覗いた。薄い青、空に近い色のワンピースだった。

 「やだあ、シン。じろじろ見て。ああいう子が好みなの?」

 美夏子にそう言われて、ワンピースの女の子を凝視してしまったことに気付かされた。

 「いや、知っている人に、似ていたんだよ」

 慌てて言い訳をして、少しだけ後ろを振り返ったけど、その子はどこにもいなかった。曲がり角を曲がってしまったのだろう。

 ―空色のワンピース……

 目の前に十四年前、中学二年生の風景が広がっていった。


   * * *


 十四年前、正確には十三年半前、僕は実家から徒歩五分ほどの市立中学二年生だった。剣道部に在籍して、ほぼ毎日稽古に励んでいた。蒸し暑い梅雨の時期に剣道の防具は最悪だ。臭いし、暑いし、竹刀で打たれれば痛い。僕は部活の同じ学年で一番弱いと自覚していたので、稽古もあまり熱心にはやらなかった。それよりも、早く稽古を切り上げて、部活の後に神社で集まる方が楽しみだった。

 高橋健二、村田毅、山崎遼、そして僕、遠山信一郎の四人がメンバーだった。高橋は一応剣道部の副部長だったから「隊長」、村田は四人の中で一番成績が良かったから「参謀」、山崎は人脈があって豊富な情報網を持っていたから「スパイ」、僕は「二等兵」と呼び合っていた。何故僕が「二等兵」かって? 体格も中肉中背、成績も運動神経も平均的、無口で特徴がなかったからだ。せめて軍曹か伍長にしてくれと懇願したけど、下っ端がいないと軍隊にならないだろうという良く分からない理由で僕の申し出は却下された。

 僕らは夏になると近くの森に行って、カブトムシやクワガタをとった。網や虫かごなんて使わない。学校帰りだから、素手で捕まえて、通学カバンに忍ばせておいたビニール袋に入れて持ち帰る。虫かごで飼って、週末になると戦わせた。それが僕らの夏の遊びだった。大型のオスのカブトムシと、大型のオスのノコギリクワガタが最強だったから、僕らは競い合ってそいつらを探した。ミヤマクワガタやヒラタクワガタなんてのも図鑑には載っていたけど、僕らの住む町にはそんなクワガタはいなかった。

 中学の周りには大きい森、中くらいの森、小さい森があって、そのどの森にも虫はいた。特に小さい森に樹齢何十年という立派なクヌギの樹があり、これは中学生の僕らが二人でやっと抱えられる大木で、子どもの目の高さと、三メートルくらいの高さの二か所から、樹液をだらだらと出していた。昼にはスズメバチ、カナブン、蝶、夜にはカブトムシ、ノコギリクワガタ、コクワガタ、スジクワガタ、蛾がいっぱい集まった。

 大きい森はかなり広いけど樹液の出る樹はそれほどなかった。あっても小さな樹で、虫はあまり集まっていない。僕らは大きい森にはあまり行かなかったけど、ある時、スパイが大きい森でそれを見つけてから、僕らの目的は虫捕りの他にもう一つ加わった。

 スパイが見つけたのは「聖書」だった。聖書とは、主に天然色で構成され、間に白黒の部分を含むこともある、大体において衣服をまとわない女性が登場する、聖なる本、平たく言えば「エロ本」だ。僕らは親や先生などにばれないように、それを「聖書」と呼んだ。


 「よお。おめら、知ってっか?」

 夏休みが近い日の放課後、部活を終えていつもの神社に四人で集まっていると、隊長が他の三人に対して言った。

 「女の、あそこだよ。聖書だと、黒く塗られてっぺ? どうなってんだっぺな?」

 「知らね。見たことねえよ」

 「俺も知らね」

 「俺も」

 女のその部分がどうなっているか、僕らの関心はそのことに集中するようになった。

 「図書館で、医学の本、覗いたことがあって、そこにイラストだけは描いてあったんだけど、良くわかんねがった」

 女のその部分に黒塗りやモザイクがかかっていない、「裏本」や「裏ビデオ」なる物があるという噂もあったけど、そんな物が田舎の中学生の手に入るわけはなかった。


 「おい、アイゴだよ」

 学校帰りに作戦会議をする神社で僕ら四人がいつものようにたむろしていると、隊長が言った。

 「あいつ、アイゴなんけ?」

 「学校にも行ってねように見えっし、働いてもいねべ。アイゴだっぺよ」

 隊長が指をさす方向に目を向けると、薄い青、ちょうど空に近い色のワンピースを着た、十七、八歳くらいの女が見えた。神社でたまに見かけるその女は言葉をしゃべったところを見たことがない変わった子だった。僕らはそいつを「アイゴ」と呼んでいた。アイゴの語源は愛護学級からきていて、知的障害者に対する僕らの蔑称だった。

 みんなといる時は僕も合わせてアイゴと呼んでいたけど、それじゃあまりにかわいそうなので、僕はこっそり「空色」と名付けていた。いつも空色のワンピースを着ているからだ。

 「アイゴは、神社の神主が、よそで作った子どもって噂だぞ」

 「よそで作ったって、どういうことだっぺよ?」

 「かあちゃん以外の女に、産ませたってことだっぺよ」

 「え? かあちゃん以外?」

 「おめ、十四にもなって、そんなことも知んねのけ?」

 隊長がからかうので、僕はムキになってつかみかかったけど、身体の大きな隊長に簡単に組み伏せられてしまった。

 アイゴ、いや、空色は、神社でたまに見かけたけど、僕らに話しかけてくるわけでもなく、ただ遠巻きに僕らを観察しているように見えた。蝉の声に目をつぶって耳を傾けたり、神社の砂利石を蹴ったり、鳩に餌をやったり、彼女はそんなことばかりしていた。

 僕は密かに空色が気になっていて、他の三人にばれないように彼女の姿をちらちらと盗み見ていた。良く見ると空色は、そこそこ可愛い顔をしていて、僕は二人きりになったら思い切って話しかけようと思っていたけど、その機会は中々訪れなかった。


 夏休み、せっかくの長い休みなのに部活はほとんど毎日あるので憂鬱だった。朝、学校に行って稽古をして、昼過ぎに稽古が終わり、四人で神社に集まって、虫捕りに行ったり聖書を探しに行く。同じような毎日が過ぎていった。


 「なあ、じいちゃん。知ってっけ?」

 その日は父と母、祖母が出かけていて、祖父と二人きりだった。夕飯が終わり、縁側でスイカを食べながら、僕は祖父に聞いた。

 「あんだ?」

 「女のあそこって、どうなってんだっぺな?」

 祖父は口にたまったスイカの種を十個ばかり庭に吐き出してから答えた。

 「穴だよ。穴があんだよ」

 「穴? どんな穴?」

 「マラを入れる穴だんべよ。マラが入んねがったら、子どもができねべ?」

 蚊に刺された場所をかきむしりながら、更に聞いた。

 「ばあちゃんの穴、見たことあんの?」

 「あるわけねえべよ。あれは見るもんじゃねえ。入れるもんだ」

 祖父はまたスイカの種を庭に吹き飛ばした。

 「んだっけ、初めてん時は、拝んだっぺよ」

 「え?」

 「じいちゃん、最初はな、兵隊だった時に、慰安婦さんに筆おろししてもらったっぺよ。そん時は、慰安婦さんの股ぐら、思わず拝んだっぺ」

祖父はスイカの汁で口の周りをてかてか光らせながら笑った。

 「いあんふさん?」

 「兵隊の相手をしてくれる、偉いおなごだっぺよ」

 祖父の話はあまり参考にはならなかったけど、でも女のそこが、何か神々しい場所だということは分かった。僕は余計に女のそこが見たくなってしまった。


 「ねえ」

 三日後だった。突然空色から声をかけられたのは。僕は部活が休みのその日、一人で神社にいた。他の三人はまだ来ていなかった。

 「……なに?」

 空色はいつもの空色のワンピースを着ていた。手を伸ばせば届きそうな距離だった。今まで空色のそんな近くに行ったことがなかったので、僕は少しうろたえた。長い直毛はすごく艶があって、夏の直射日光を反射して輝いて見えた。

 「ねえ。いつも話してるよね」

 僕は空色が言葉を話せることにびっくりしながらも、彼女の身体から漂ってくる匂いに戸惑っていた。それは決して不快なものではなくて、気持ちが高ぶってしまうような、今まで嗅いだことがない匂いだった。

 「何を?」

 「女の股ぐら、見たいって」

 「……」

 空色が「女の股ぐら」と言うのを聞いて、何だか恥ずかしくなった。

 「見せてあげるよ。こっち、おいで」

 そう言うと空色は背中を見せて、神社の奥に向かって歩き出した。僕は何か言おうとしたけど言葉にならなくて、仕方なく彼女の後に従った。

 「何で、俺に?」

 「見たくない?」

 「そりゃ、見たい、けど」

 空色は振り返りもせずに歩いて、神社の裏手にある倉庫に僕を案内した。心臓の鼓動が聞こえてくるかと思うくらい胸が激しく打つので、僕は胸を押さえた。

 鍵のかかっていない倉庫の扉を開けて、僕らは中に入った。倉庫の中は暗くて、涼しかった。足を踏み入れると埃が舞うのが分かった。

 空色は一脚だけあった椅子に僕の方を向いて腰をかけて、下着を一気におろした。片足を抜いてもう片方の足首に縮こまった下着を引っかけた。

 暗かったけど、空色が厚い唇を少しだけ開けて、優しく笑うように僕を見たのが分かった。僕は下半身が堅くこわばってきて、さっきよりもずっと胸が苦しくて仕方なかった。

 足を大きく開いて、空色はワンピースの裾をまくりあげた。僕は顔を突き出すように彼女の股ぐらに近付けた。胸の苦しさが最高潮に達した。

 「……」

 何か、良く分からないけど、少なくともきれいじゃない。どっちかって言うと汚い。ひだひだがいっぱいあって、毛がぼうぼうに生えてる。変な臭いもする。臭い。汚い。

 「はい、おしまい」

 空色はワンピースをおろして、下着を元通りにはいた。僕は何も言えなくてただずっとうつむいて黙っていた。胸の苦しさは治まって、下半身のこわばりはすっかりなくなっていた。

 「知らない方が、良かったでしょう?」

 倉庫を出ながら空色が僕に言った。彼女の長いまつげがくるんと上向きに動いて、空気をつかんでいるように見えた。

 「何で、俺に見せたの?」

 遠ざかっていく空色の背中に問いかけた。彼女は立ち止って、しばらくは前を向いたままだったけど、ゆっくりと振り返りながら答えた。

 「君が、一番、見たそうだったから」

 心の中を見透かされているようで、僕は奥歯をギュッと噛んで下を向いた。

 空色は賽銭箱の上にある鈴を鳴らした。乾いた音が静かに響いて、でもすぐにうるさく鳴く蝉の声にかき消された。僕は顔を上げて、小さくなっていく彼女の後姿を、ただぼおっと見つめていた。


 それから二度と、空色には会わなかった。


   * * *


 「次を曲がって少し行くと実家だよ」

 美夏子はうなずいたけど、その顔には緊張が見てとれた。生まれて初めての結婚の挨拶だから仕方ない。

 曲がり角の手前、昔良く集まった神社を通った時、鈴の音が聞こえた。僕は驚いてそちらを振り向いたけど、美夏子はその音に気付かなかったようだ。

 「どうしたの?」

 「いや、何でもない、気のせいだよ」

 神社には誰もいなかった。きっと空耳だろう。

 ―知らない方が、良かったでしょう?

 空色の声がかすかに聞こえた気がしたけど、それも空耳と片付けて、僕と美夏子は実家へと向かった。

 美夏子が僕の顔を覗くように見た気がした。僕は気付かないふりをした。一瞬、強い風が正面から吹いて、僕らを襲った。僕はその風の中に確かに、もう一度鈴の音を聞いた気がした。

最後までお読みいただきありがとうございました。かなり短い作品で、今一明確なメッセージがなくはっきりしないと思いますが、ご感想などいただけると幸いです。なお、作中に差別的表現がありますが、不快に思われた方がいらっしゃいましたらお詫び申し上げます。

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