09
次の日も、次の日も。
私は何事もなくシグと白い夢をすごした。
距離を保ったまま、これまでどおりに。恋心など、最初からなかったように。
私の状態が元通りになる一方で、今度はシグの様子がおかしくなった。
急に黙り込んで、私をじっと見る事が多くなった。本を読んでいるときも、会話をしている時もだ。
いつものぼんやりした柔らかい黄色の目が、その時だけ僅かにゆらりと陽炎のように揺れるのが少し怖かった。
まるでシグじゃないようで。でも私が知っている彼の姿など、きっと数ある面の、たった一面に違いない。
声をかければ、彼は何事もなかったかのように笑う。笑ってなんでもないと言う。
そんな状態が数日続いたある日の白い夢。
彼はまた、本を読むのをやめて私をじっと見た。
なんだろう。こうまで続くと本当に気になる。
私は本から顔を上げて、ちらりと横を見る。目があってもひるむ事のない視線に、根負けした私が目をそらす。
じっと見らるのは落ち着かなく、原因が分からないから更に困惑するばかり。何か変な所でもあるのだろうか。それとも、知らないうちに彼に何かやってしまったのか。
「シグ?」
いつものように、問いかけるように声をかけるとようやく視線が揺らいだ。
今の今までゆらりと炎のように揺れていた正体不明の影が瞳から消えて、いつものぼんやりとした光に戻る。
「ネイヴィス……なんでもない」
シグはやっぱりそう言って、私に向かってにっこりと笑う。
ネイヴィスというのは、シグの国の言葉で問題ないとか、何でもないとかいう意味の言葉だ。本来はネイヴィとイス、の二つの単語からなる言葉だけど、続けて言うと私にはどうしてもネイヴィスに聞こえる。
我ながらヒアリングに弱い耳である。
シグがすぐに日本語で同じ意味の言葉を言ってくれるから、私のヒアリング能力は上達する気配がない。
この場での会話もすっかりと日本語で定着してしまった。
「セツ」
今度はシグが私を呼んだ。
何、と問いかけると彼は膝の上に置かれてるだけだった本を閉じて私に向き直った。
「そばにいっても?」
「いいよ」
「グラーサ。ありがとう」
シグは律儀にお礼を言って、間に一人分だけあったスペースをゼロにした。
すぐ隣に座りなおした彼は、読書を再会するでもなくまた私を見てきた。といっても今度は私自身ではなく、読んでいる本を覗き込んでいる。
読む?と本を差し出すと、彼は少し躊躇した後受け取って、すぐに返してきた。やっぱりまだ本を読むのは無理だと笑って。
彼から本を受け取って、私はそういえばと彼の顔を見た。よくこの前髪で、本が読める事。目が悪くなったりしないのだろうか。
「シグ、前髪邪魔じゃない?」
「見えてる。大丈夫」
彼は長い前髪の奥でにこりと笑う。何がそんなに嬉しいのだろうと思うほど、柔らかく。本当に?ともう一度問えば、大丈夫と同じ答えが返る。
前髪がなかったらこの笑顔も、もっとはっきり見えるんじゃないかと思うと少し残念だ。不満がうっかり顔に出てたのか、シグはきょとんとした顔で私を見る。「セツ?」不思議そうな、どこか不安そうな声に、何故だか悪戯心を刺激される。
彼を見上げて、今度は私がにっこりと笑った。
夢の中とは本当に便利なものだ。少し考えただけですぐに手元に現れたヘアピン数本を、私は無言で彼の前に差し出した。
「…?」
首をかしげたシグに、私は一本を自分の前髪にとめてみせる。
それだけでこちらの意図を理解したのか、彼は少し逃げ腰になった。
「シグ」
じりじりと、後退する彼を追い詰めるように名前を呼ぶ。
うん、何か異様に楽しい。思えばこうしてふざけるのは初めてのことじゃなかろうか。
「セ、セツ?」
「じっとしてて、すぐ終わるから」
「セツ、だ、大丈夫だから」
「うん。そうだけどね」
「―――!」
シグが何か叫ぶ。オーレセなんとかとかきこえたけど、生憎教えてもらった言葉じゃないので私には分からない。
じりじり。じりじり。
ついにシグの背中はソファーの端にあたる。
「シグの顔、ちゃんとはっきり見てみたいから」
「え?」
彼の動きが止まった、一瞬だった。その一瞬で勝負をつけた私は、彼の前髪を見事ヘアピンで留めることに成功した。
赤い花飾りのついたヘアピンは、予想外に似合っていた。
ぎゅっと目をつぶったシグが、恐る恐る目を開けて私を見る。
一方の私は、私は…。
自分がとんでもない事をしてしまった事に、今更ながらに気がついた。
邪魔な前髪がとめられて、半分だけはっきりしたシグの顔。
いつもぼんやりと見えていた黄色い光が、今ははっきりと見えた。ついでに長い睫も。更についでに、予想外に端正なその顔の造詣も。
ドクンと、心臓がありえないほど大きく高鳴った。
いや、いや、いや、まってまって私の心臓。
別に顔で好きになったわけじゃないんだけど、何でこんなに高鳴るの、何でこんなに顔に熱が、熱が、熱がっ!
馬鹿か私。本当に馬鹿だ。馬鹿すぎて涙が出る。本当に馬鹿だ馬鹿大馬鹿。
せっかくおさまった熱を、状態を、蒸し返してどうする。本当どうする。
高鳴る心臓、顔に集まる熱。シグに触れた手まで震えてきそうで、私はあせった。心底あせった。呼吸まで苦しくなったような気がして、思わず胸元の服をぎゅっと握った。
本当にここは夢の中なんだろうか。
この胸の高鳴りも、熱も、息苦しさも、何もかもがリアルで叫びだしてしまいそうだと言うのに。
状態変化に対応できなず、うろたえる私を見てシグが瞬く。なんでもないとすぐに言えばよかったのに、言葉はちっとも出てこない。
急激に挙動不審になったまま、夢の時間は一秒、二秒と過ぎていく。
シグは何も言わないまま、不自然な私をじっと見つめる。まるで何かを探るように思えたのは、気のせいなのか。
「ご、ごめんなさい」
ようやく搾り出した言葉はそれだった。
「ちょっと、シグに悪戯、してみたくて」
自分の今の状態を誤魔化すためなら何だって素直に言えた。
「ごめんなさい」
そうまた言うと、シグは一瞬だけ目を伏せて、そして笑った。でもそれは、いつのも柔らかい微笑じゃない。
私が恐れた、あの陽炎のような影を含んだ、微笑み。
「―――――。――――…」
「え?」
彼が何かを話す。いつもと違って長い言葉は、やっぱりうまく聞き取れない。それに聞き取れた単語も意味の分からないものばかり。
いつものシグなら、その後に必ず日本語で意味の近い言葉を繰り返してくれた。
でも今の彼はどうしてかそれをしてくれない。代わりに自分の前髪につけられたヘアピンを引き抜いて、私の前髪にそっとつけなおした。
再びシグの顔は前髪で隠れて、その瞳に浮かんだ陽炎も消える。
ほっと安心したのも束の間、彼は私の空いてるほうの手をそっと握ると、
「っ?!」
私の額にキスをした。
* * *
気がつけば飛びおきていて、部屋の中は薄明るかった。
見慣れた壁と慣れ親しんだ家具。脱ぎっぱなしの洋服。
窓の外から聞こえる鳥の声は、お伽噺のようにはっきりとしていた。
朝だ。止めていた息をようやくふっと吐き出した。
やっぱりいつもの夢だった。
ほっとしたような残念だったような、複雑な心境のままどっと噴出した汗をぬぐう。
顔が熱い。
額に触れた唇の感触が、まるでまだ残っているような気さえする。
あれは現実じゃない。そうわかってるのに。
悪戯のお返し、そうシグが言った所で目が覚めた。
倍返しされた気分だった。今の私には大ダメージを受けたにも等しい。
はたして次の夢でも、何事もなかったように普通にふるまえるのか私。
このままだと近づいただけで赤面してしまいそうだ。
未だ治まる気配を見せない心臓の音と熱。
ああ、なんて心臓に悪い夢。