03
また次の日の夢。
いつものように本を読む私がいて、おかしい事態になっていると気がついたのは情けない事に大分内容を読み進めてからだった。
均衡は、修復されたはずだった。
綺麗に、跡形もなく。
ソファーも元通りの距離で。
そう、昨日は確かにそうだった。
しかし今日はどうだろう。
気がついたらすぐ隣にもう一人が座っていた。いつもの端っこではなく、私側のすぐ傍に。ソファーの大きさは元通りのまま。相手との距離だけが一気にゼロになった。そんな感じ。
しかもさっきから視線が突き刺さる。ぐっさぐさと、そりゃもう容赦ない攻めようだ。正直全身に穴が開きそうで困る。
しばらく無視をし続けて、いい加減精神的にも限界になって本を閉じた。
相手の本はずっと閉じられていて、その上に無造作にのせた指は男性らしく骨ばって、でもすらりと長い、綺麗な手だった。
手元を見たのは、やっぱり相手の顔を見上げたくなかったからで。
このまま視線が刺さり続けると私いずれ殺されるんじゃなかろうかと思ったから、観念して顔を上げた。
たまに視界の隅に映るだけで、まともに見た事もなかった相手の髪は、黒だと思ってたら実は黒じゃなかった。こげ茶色に見えて、まったく違う色かもしれない。何だか濃い色だなとは思う。
適当に切ったのだろう、髪の長さは不ぞろいで、やけに長い前髪の間から、ぼんやりとした黄色が二つ、私を見ていた。
すぐに顔をそらそうと思っていたのに、思いがけない色に思わず凝視してしまう。
――黄色。何度見ても黄色だ。
ぼんやりした暖かい黄色。橙。そんな目の色の人間に遭遇した事があるかと言えば答えは否だ。青い目にだって遭遇した事がないのに黄色。
何だその目は、あれか、君ゲームのキャラ? それともカラコン?
目線ががっちりあった途端、今まで黙って視線を突き刺してきた相手は口を開いた。
「―――?」
紡がれた言葉は、聴きなれた日本語ではなくて、英語でもない。授業で一年だけとったドイツ語にも似ていない。
まあとにかく知らない、外国の言葉だった。
夢の中だからなんとなく言葉も分かるような気がしていたので、少し驚いて瞬いた。
そういえば顔立ちも日本人とは違う。鼻が高い。私の低くて丸い鼻をあざ笑うかのような高さだ。しかも肌は、白い。そしてシミもなく綺麗。
「―――?」
相手がまた何か言った。さっきとは違う言葉だったのはわかった。けれどやっぱり意味はわからない。
目線は変わらず私の顔をがっちり捉えて、離さない。
気まずいとかはないのだろうか。生憎私は目一杯気まずい。ここはもう少し奥ゆかしくしてほしい。切実に。
「何を言ってるのか、わからない」
私が口を開くと、今度は相手が瞬いた。
自分と同じ反応に思わず笑う。多分、相手も言葉は当然同じものだと思ったのだ。
私が笑うと相手はますます目を瞬かせた。
彼の長い前髪が、睫に触れてかすかに揺れる。
「―――…」
少し目を細めて、相手は何か呟いた。なんとなく呆然と、心で呟いたはずが声に出してたと言う感じだった。
「―――……、―――シグ――――――。―――――?」
彼は何かを考えるように目を伏せた後、ややして自分を指差してまた何かを言った。そして間をおかず、今度は私を指差して首をかしげた。
残念ながら英語すらまともに聞き取れない私の耳では彼の言葉を完璧にヒアリングするのは難しく、分かったのはシグ、という一部の音だけ。
「シグ―――」
私が首をひねると、彼はまた自分を指差して何か言った。さっきも出てきた言葉だった。無意識に「シグ?」と繰り返すと、彼は急に破願して何度も頷いて、また言った。
「――、シグ――――――。――――?」
そこでぽん、と何かが閃いた。彼が一体何を言って、何を私に問いかけていたのかが本当に急に理解できたのだ。
「私の名前は、セツ、雪よ」
「セツ?」
予想は大当たり。彼は私の名前を何度か呟いて、また笑った。
よく、笑う人だ。
多分それが、今初めて相手に抱いた印象。
自己紹介をしていたと言う事は、多分シグ、と言うのが彼の名だ。その先は私には聞き取れなかったから仕方ない。
彼は何が楽しいのか、また私の名前を繰り返して、今度は自分の持っていた分厚い本を指差した。
「オーヴィル」
その単語がはっきりと聞こえたのは、きっと彼が……シグ、が、ゆっくりと言ってくれたからだろう。
オーヴィル、多分本の事をそう言うのだろう。
精一杯聞いたとおりに発音すると、彼は大きく頷いた。
シグは今度は私の持っている本を指差す。彼の呼んでいる専門書のような装丁の本とは違い、私が読んでいたのはただのハードカバーの小説だった。
「本」
「ホン?」
「そう、本」
頷いてもう一度繰り返すと、彼も頷いた。そして次は自分の髪に触れて、「カルァブレオ」と言った。
何だか難しそうな発音に、私は四苦八苦しながらそれを復唱する。結局中途半端な発音になって、シグに笑われた。
今度は私の番だ。
いつの間にかそう思ってしまっている事にびっくりして、でも悪い気分じゃなかった。