17
ソファーの上に座って向かい合う私とシグ。
まるであの白い空間にいる時のように。ある意味安定した位置だが、視界に入ってくる部屋の中に色彩は溢れている。壁一面の本棚にぎっちり詰まっている本や、用途がわからない器具、カーテンに絨毯、それに家具。
何よりソファーは全く別のものだ。私達の感情で大きさが変わることもない。
どこまでも普通のそれは二人がけ。
今は、足が床に触れないように膝を折って座る私の両手を、シグが握っている状態だ。
先ほど地下室で言っていた「悪い影響がでていないか調べる」という作業をするらしい。
【あまねく光よ、其は千眼、其は道標、数多を照らし巡りて回帰せよ】
シグがそう呟いた後、私達の手の間から淡い青い光がふわりと広がって、私の全身を通りぬけた。特に熱いという事もなければ冷たいという事もない。目を瞑っていればわからない、そんなあっという間の出来事。
作業はそれで終わりらしく、確かに彼が言うとおりすぐに終わった。
そういえば、魔法って日本語でも発動するのか。
少し古めかしい響きだけど、聞こえたそれは確かに馴染んだものだ。以前見た魔法らしきものは、シグの世界の言葉だったのに。
これで何がわかるのか私にはさっぱりわからないけど、シグにはわかっているのだろう。光が消えた後も私の手を離さず、何かをじっと考えている。
「……な、何か悪いところ、あったの?」
「……いや、悪い影響は何もないよ。大丈夫」
言葉とは裏腹に、とても何もなかったふうに見えないのだけど。
眉間によった皺は、思わず伸ばしてあげたくなるほど深い。
「本当に、どこもおかしなところはない?」
もう一度、確認するようにシグが言った。
「うん、どこも……」
「……」
どちらかといえば、私よりシグの様子の方がおかしいように思える。
「どうかしたの? 何か、心配事?」
「……君が現れる直前、笑い声が聞こえたんだ」
「え?」
笑い声。
勿論私は笑ってないし、彼の口ぶりから考えてもそれは私の声ではないだろう。
そのキーワードで引っかかる記憶が、私の中にもある。シグの姿を見た途端、あっさりどこかへ吹っ飛んでしまっていたけど。
知らない誰かの笑い声。何だか酷く楽しそうな。
確かにあれは直前だった。光が満ちる直前。
「……私も、それ、聞いたかも」
「セツも?」
「一人の声じゃなかった、よね?」
「ああ、多分二人」
私とシグの両方が聞いてる時点で、いや、あの声が聞こえたと思った時点で気のせいではない事はわかっている。
でも、あれは本当にただの笑い声だった。楽しそうな、それ以上の思惑なんて何もない。楽しかったから、笑った。それだけの声だ。
シグが言う事が正しければ、それは神様とやらの声か。
何でそんなものが、よりにもよって召喚される時に聞こえたのかは知らないけど。
しばらく私の手を握ったまま、眉間の皺を消すこともなくシグは黙り込んだ。そして今度はまた違った言葉の魔法を使った。
先程と似たような光が私を通りぬける。
結果は、多分何もなかったのだろう。彼はまた考え込んだ。
きっと自分の事なら、こんなに考え込んでいないのだろう。私がすぐに不安がるから、シグは少しの不安の種も見逃さないようにしてるのだろう。嬉しいけど申し訳ない。
これに関していえば不思議なほど不安は感じていないが、ううん、どうすればいいだろう。
何か彼の心配事を振り払える事を言えればいいのだけど。
悩んでも、出てきたのは先ほどの魔法を見た時に思った取るに足らないこと。
この際だから何でも言ってしまおう。
それで彼の気が少しでも笑い声からそれればいい。
「……そういえば、シグ。何でさっきの魔法は、日本語だったの?」
「……え?」
「え?」
きょとりとシグが瞬いて、釣られたように私も瞬く。
あ、眉間の皺、消えた。
「セツには、詠唱が日本語に聞こえた?」
「う、うん。ま、前はシグの世界の言葉だったよね」
「詠唱は術式と同じ力ある古語だから、厳密に言うと私が普段話している言葉ではないよ」
「え」
じゃあさっき聞こえた言葉は何だったんだ。
【集約せよ、其は歓喜、其は祝福、暁に焦がれる乙女の名の下にその姿を現せ】
戸惑う私の前で、またシグが詠唱をした。
今度のそれもやっぱり私には日本語に聞こえる。響きはちょっと古めかしいけど。
目の前にふと現れた小さな光の粒は、言葉の通り空中で一箇所に集約すると、ぽんとはじけて花になった。
花弁の端は白、中心は淡いピンク。花弁がいくつも綺麗に重なる可愛らしい花は、千重咲きの椿のようだ。大きさは少し小さい。
その花はふわふわとゆっくり私の膝の上に落ちた。シグの手を離して手に取ると、まるで綿のように軽い。感触は、普通の生花と一緒だ。
『今の言葉は?』
「ええと、集約せよ、其は歓喜、其は祝福、暁に……う、ごめん、そこまでしか覚えてない」
花の可愛らしさに気をとられて、すっかり意識が詠唱からそれていた。
「いや。充分だ」
気まずい私に反して、シグはまた何か魔法を使った。
加護の名を現せ、という言葉で私の周りにふわりと浮き上がったのは、いつか見た線と点と丸。青白く光るそれは日本語ではないのに、何故かそれが誰かの名前だということがわかった。
シグにもそれがわかったのか、ようやく安堵したように微笑んだ。強張っていた顔も元に戻って、いつも通り穏やかになる。
「そうか、異世界の神か」
ようやく腑に落ちた、そんな顔だが私だけがさっぱりわからない。
とりあえず、シグの心配事は消えたようだけど。
「どういうこと?」
「多分神々の気まぐれだ。良い意味で」
悪い意味もあるのか。
いや、それよりも神々っていうのはそんな簡単にほいほい気まぐれを起こすものなのか。
「君は、君の世界の神から加護と祝福を受けたのだと思う」
「……私の世界の、神さま?」
「界の狭間に影響する術式に直接干渉できるのは神々しかいない。あの笑い声はそういうことだ。君が何事もなく現れてほっとしたけど、どんな影響がを受けたのか気が気じゃなかった。あの瞬間をわざわざ狙ったところから考えても、あまり良いものとは思えなかったから」
そうか、その不安もあってあんなに何度も触って確かめたのか。
「君が受けた影響が悪いものではないのはわかったけど、良いものかもわからない。本当、心配だった。でも異なる世界の神なら、わからなくてもおかしくはない。どうやら言語に関する祝福みたいだ。……古語にまで及んでいるのは些か作為を感じるけれど」
最後の方は小さくてよく聞こえなかった。首を傾げて聞き返すと、シグは何でもないと首を振った。何だか誤魔化すように抱き寄せられたけど、私もそれ以上聞き返さなかった。
「ようやく安心した。神々の気まぐれが、私達を引き離すものでなくて、よかった」
その心情を表すように、強く強く抱きしめられる。温もりは、何より心を安心させるものだと思う。私のそれが彼の役に立てばいい。
でもシグ、花が潰れちゃうからもう少し力を抜いてくれると嬉しいのだけど。
身じろいだ私の意図を正確に読み取ったのか、シグの腕の力が少しだけ弱まった。両手の中におさまる可愛らしい花は、ちゃんと無事だ。
「その花、気に入った?」
じっと眺めているとシグは苦笑したように言った。
「うん、色は可愛いし綺麗。でも、軽いんだね」
「成人の儀式の最後に、魔法士が祝福として降らせる魔法の花だ。本物みたいだけど、一時もすれば魔力の粒子に戻って消える」
「え、じゃあこれも、消えちゃうんだ」
「見たかったらまた出してあげるよ」
だから花より私を見て。私を気にして。
囁かれた言葉はとんでもなく甘いものだった。
――それは卑怯だ。
トクトクと、急に煩くなる私の心臓。それに引きずられるように、意識はあっという間に花からシグへうつった。
顔の距離が思いのほか近い。いや、抱きしめられているのだからあたりまえかもしれないけど、それにしたって近いような。
吐息が肌に当たるのが、どことなく居たたまれない。
「もう充分水をさされたから、これ以上邪魔されたくはないな」
「……花は、邪魔しないと思うけど」
「君の意識を私からそらしてしまうなら、充分邪魔してると言えるよ」
「でも、花を出したのはシグだよ」
「うん、だからちょっと失敗したなって思ってる」
「失敗って」
「セツ」
有無を言わさぬように名前を呼ばれて、瞼に一つキスが落ちた。
「私を見て」
今度は頬にキスが落ちる。
気を引こうとする子供みたいに軽く可愛いキスなのに、ドキドキと一層心臓が騒ぎ出す。
私を見下ろす黄色い瞳には、いつかみた陽炎。艶やかで妙に熱っぽい。ゆらゆらと揺れて不安定なのに消えない。
かっと顔に熱が集まる。きっと私の顔は真っ赤だ。
見ないでほしいのにシグの瞳は私の顔を捉えたまま。気恥ずかしく背中がそわそわする。ここから今すぐ逃げ出してしまいたい。
けれど、逃げられない事を私は知っている。
逃げたくないとも思っている。
それに、きっと今度は逃がしてもらえない。
無意識に震えた体を、捉えた手がゆるりと撫でる。優しいはずなのに、まるで追い詰められるような気分になるのは何でだろう。
大事に抱えていた花は手からこぼれ落ちて、ふわりとふわりと下に落ちていく。
かわりに私の両手が握るのは、シグの黒いシャツ。
きつくきつく、縋るように、求めるように。
もうシグしか見えていないと、知らせるように。
私の気持ちを伝えるように。
「……シグ」
好きよ。
小さく呟いた私に、彼はとろけるような微笑で答えた。
わななく唇はすぐに落ちてきた熱にふさがれた。
溺れるような口付けは、私から思考もなにもかも奪い去る。次々と与えられる熱に、甘くとかされ酔う事しかできない。
「セツ、セツ」
合間に呼ばれる名前が、ますます私の心を蕩かした。
呼び返したいのに声はうまく言葉にならない。
もうシグの事だけで私の中は一杯で。
床に落ちた花がいつの間にか霧散した事にすら、気がつくことはなかった。