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屋敷の地下室は、術式の実験にも頻繁に使っていた分、強固な結界がはられている。
もともとこの屋敷全体に、外からの干渉を防ぐ結界がはられてはいるが、地下室のそれはさらに輪をかけて厳重にかけられている。
そこは彼が引き取られるまでただの物置で、あくなき探究心で術式の組み合わせを試す彼のために養父が術部屋にしてくれた場所だった。だから魔法士の塔にあるそれと同じ結界がはってあり、ちょっとやそっとの暴発では外に影響が及ばないようになっている。
同時に、外からの詮索も全て完全に遮断する。
これほど、彼女を呼び出すのに最適な場所はない。何せ彼は彼女の存在を、特定の知り合い以外には紹介する気もないのだから。
召喚術が成功したと騒がれるのもご免だ。
望むのは今までどおり、好きな研究をのらりくらりと続ける生活と、彼女の存在。ただそれだけ。
薄暗い地下室の床に、魔石を砕いて作った特殊な染料で陣を描いていく。丸いそれは幾重にも重なり、彼の手が離れた端から淡い白い光を放ち、薄暗い地下室を照らしはじめた。
中心には、呼び出す彼女の情報を。
その周りには界と界を隔てる障壁に干渉する術式、続けてその境界を越えるための術式と、この場所に呼び寄せるための術式を。
さらに召喚中に万が一にも事故が起こらないよう予防策を。移動の際に衝撃を抑えるための術式もここに。間違っても相手に悪い影響がでないように、特に念入りに組んだ術式は、綻びもない。
次に呼び出した者をこの世界に安定させる術を。そうして最後に必要なだけの魔力を受け止める受け皿を。
召喚陣は転移陣に少し似ている。距離を無にして空間を越える。あくまで同じ世界の中しか移動できないのが転移陣。それを、世界を覆う障壁の外郭まで広げ、異世界にまで干渉するのが召喚陣。
似ているが、使用する際に消費される魔力は段違いだ。
この時ほど、自分の人外と揶揄された魔力が役に立つのを嬉しいと思ったことはない。普通ならばこの規模の召喚陣は最低でも五人の魔法士がいないと動かない。
術が動くための魔力が、受け皿一杯にたまらないのだ。
だからこそ彼は自分の魔力に感謝する。
術式を突き詰めていけば、内容はもっと短く、魔力の消費も更に抑えられるものに書き換えられるだろうが、今はこれで充分だ。使用する魔力は大体全体の半分に少し足りぬ程度か。幾日か休めば消費した魔力はまた元通りになる。だから使う事に躊躇などない。
召喚陣が完成すれば、応用の送還陣はすぐに組みあがった。書き換える場所は一つ。こちらに呼び寄せる部分を、元の場所に送るようにすればいい。
元の場所に戻るための情報は、彼女が指にはめる指輪が召喚陣に反応した時点で記憶するようになっている。
送り返すための手段を用意したのは、彼女の心に影を落とさないためだ。
本当は一度呼び出したら二度と返したくはないのだけど。元の世界から引き離されて二度と戻れないというのは、たやすく不安の種となる。
彼女が自分を拒絶する要素はあってはならない。元に戻れないのが不安なら戻れるようにすればいい。そうしてゆっくりと慣れればいいのだ。
召喚が成れば時間は以前よりも多く用意される。少なくとも、あの白い夢だけに縋る現状ではなくなる。
彼女が彼を拒絶した要素もこれでようやく完全につぶれる。
全ての準備は整った。
手回しも終わった。
思い浮かぶのは彼女の姿。彼を信じると、笑った顔。
それを脳裏に思い浮かべながら、彼は徐に召喚陣の上に手をかざした。
* * *
指輪が、熱をもっているような感じがする。
それに気がついたのは、無意識に触れていたせいだろうか。
時計を見れば九時をまわったところで、シグはもうあちらの世界で起きたのだろうかと思った。
朝から何だか落ち着かない。いつ「それ」が起こるのか予測がつかないせいもある。起きた時、既に心臓はどきどきと煩かった。それから着替えて顔を洗って、部屋の掃除も終わったけれど食欲がなくて、起きてから三時間たつのにまだ何も食べていない。お腹もちっともすいてこない。
私は今日から一週間の有給休暇だ。特に忙しい時期でもなく、有給がたまっていたためそれはあっさりと受理された。
彼氏と旅行にでも行くの、と職場の人間には揶揄されたけど、曖昧に笑って誤魔化しておいた。
出かけることに間違いはないけど、場所は異世界だ。
外国に旅行に行くのと大差ないのかもしれないけど、魔法という不可思議に頼らなくても帰ってこれる点において気軽さが違う。
それにどちらかといえば、ずっと会えないでいた恋人に会いに行くような感じか。いや、ほぼ毎日、あの白い空間で会っていたけど。話していたけど。くっついていたけど。
けれど本当の意味で「会う」のはこれが初めてになる。
しかし、恋人……恋しい人、か。
間違ってはないけど、あらためて言うとなんというか気恥ずかしい。私に似合わないんじゃないかっていうくらい、くすぐったい。けれど嬉しい。
シグと一緒にいるようになって、何度も感じるようになったそれらは、心に温かい光をそっとともすようだ。そのたった二文字をかみ締めて繰り返して、私は一人馬鹿みたいににやけてしまう。
そんな時に指輪が徐々に熱くなったから、慌てて顔を引き締めた。
見れば指輪が全体的に淡く光りだしている。真っ白なその色は、どこかあの空間を思わせる。その光は指輪から私の指に伝染するようにするりと動き、手、腕、肩と伝って、見る間に私の全身に及んだ。
私が身じろげば光もまたぴたりとよりそい、まるで自分自身が発光しているようだった。
ふわりふわりと光の粒子が私の周りで幻想的に舞う。その粒子自体に意思があって、何かに戯れてるふうにすら見えた。
それに見とれている間に、指輪の光はどんどん強くなった。
ここはあの白い空間ではなく確かに現実で、色彩がある。目の前に広がるのは住み慣れた自分の部屋。そこでこんな不可思議な現象が起きるなんて、何だか本当に本かゲームの中に迷い込んでしまった気分だ。
蛍のような光の粒の動きはどんどん早くなって、私の視界も徐々に白に染まっていく。
不安はやっぱりあったけど、邪魔になるから無理矢理思考から追い出した。
考える事は彼の傍に行く事だけだ。
この光の先にシグがいる。
そう思ったら、まるで答えるように「セツ」と、私を呼ぶ声が聞こえた気がして。思わず「シグ」と呼び返した。
途端、返ってきたのは笑い声。今度のそれは、気のせいと言えるレベルではなくはっきりと。
けれど、それは彼の声ではなく、見知らぬ誰かのもの。
何だろうと思った思考ごと全ては完全に真っ白にそまり、私はそれ以上何も考えられなくなった。
* * *
神々とはどこの世界でも長い時を生きる。
彼らは退屈が嫌いで、気まぐれだ。
この時も特に退屈を嫌う二つの世界の神が、顔を突き合わせて退屈しのぎに特殊な空間を作って遊んでいた。
それは何もかも白い空間。
色彩は一切なく、自然に関わるものもなにもない。時が止まってしまったかのような錯覚に陥る場所は、常から考えれば不安を感じる程度には充分異質で、異常だ。
その中にあるのはただ一つ、中に入れられた魂の感情で大きさが変わるソファー。唯一これだけが色をもっている。白い空間の中、それはまるで一点の滲みのよう。
どこまでが現実で夢かわからないようにするため、己の持ち物で望んだものはその空間に呼び込めるようにもした。
呼び込んだそれは幻ではなく間違いなく本物。その白い空間で損なわれれば現実からも姿を消す。
それに付随して、空間に呼び込む魂の感覚も、現実と殆ど同じものにする。何らかの傷を負えば、それは体にも影響するだろう。
さて用意は整った。後は魂を入れるだけ。
一ついれたのではつまらない。どうせなら二ついれてみよう。
それぞれの世界から一つずつ。無作為に選んだ魂は男と女。ずっと閉じ込めておいてすぐに壊れてしまっても興が醒めるだけから、その空間に呼び寄せるのは彼らが眠る時にした。
さて、男が最初に壊れるか、それとも女が最初に壊れるか。
はじまった賭けはすぐに終わらず、予想外に長く続いた。といっても、神々の余りある時間からしてみればまばたく程度。けれどほんの僅かでも、確かに暇はつぶれるのだ。
常と違う異様な空間は、正常な魂ならすぐに支障をきたしていただろうに、選ばれた魂はどちらも図太く周りに無関心だった。
そうまったく、どこまでも己のペースを崩さず、場にたいする不安も自分以外の誰かの存在も、どうでもいいと。
計ったわけではないのに、鏡合わせのように同じ態度を取る男と女。どうしてそんな平然としていられるのか、これはこれで興味深くて彼らの観察と賭けは続いた。
しばらくは何の変化もなかったのに、ある日男の様子が変わって、女も変わった。
今までの無関心振りが嘘のように距離はみるみる縮んでいき、ソファーの大きさも狭くなる。
これはますます面白い事になってきたと、さらに様子を見ていれば――。
「ふむ、これは両方賭けに負けたということか」
「どちらも壊れなかったからなあ。両方負けだなあ」
「女が壊れると思ったのだがな。男のせいで持ち直した」
「男は意外と冷静だったなあ。あれだけ魔力を抱えていれば、精神がもう少しイカレていてもいいはずなのに」
「稀な魂というのはどこの世界でもあるもんだが。我々の作った空間に干渉するなんて相当なもんだ。あの男、よくもまあ仕込んだ要素に気がついたもんだ」
「勘が鋭いというべきか、目端が利くというべきか」
「まあ、それがまた予想外で面白いんだが」
「違いない。それにしても我らの思惑を綺麗に飛び越えたなあ。なかなかない事だ。うむ、面白かった」
「そうなると賭けていたものが宙に浮くな」
「ちょうどいいさあ。我ら両方が敗者ならば勝者はあの男と女だ。我らの暇つぶしに付き合わせた彼らに、加護と祝福として押し付けてやろう」
「それはいい、そうしよう」
「では、我は女に加護と祝福を授けよう」
「では、我は男に加護と祝福を与えよう」
予想したどの結末とも違う結末を、つかみとった二つの魂は充分彼らを楽しませてくれた。褒美はあってしかるべきだ。それがなくてもきっと彼らはたいして困らないだろうが、あればあっただけいいはずだ。
異なる世界の二神の加護と祝福に、彼らが気がつくのはいつの事か。
その時の反応も、できれば予想を超えるものであればいい。あの二人ならきっと、期待にこたえてくれるだろう。
これだから、人にちょっかいを出すのはやめられない。
退屈が嫌いな二柱の神は、示し合わせたようにそう言って笑った。