14
何も変わらない白い空間の、二人がけの茶色い長椅子の上。
いつものように座っていることに気がついて、彼はすぐに隣を見た。
そこには誰もいない。
一人分ぽっかりと空いた場所。
ぬくもりも何もない。
いつもそこに座る、愛しい彼女はまだ来ていない。
二人がこの空間に存在するのは、二人同時の時もあればどちらかが先の場合もある。
そもそもずっと前は、いつの間にかいる、という認識しかしていなかった。相手がいるのかいないのか、それすらどうでもよかったのだ。
彼が先でも彼女が先でも二人同時でも、そこに何かを感じることなどなかった。
でも今は違う。
そこにもう一人がいないと、気がついてしまえば気にせずにはいられない。
セツがいない。
たとえもうしばらくすれば現れるとわかっていても、その事実は彼の心を締め付ける。
どうしようもなく切なく、寂しい。
まるで彼女が彼の存在を拒んだ時みたいだ。
この白い世界のもう一人の住人、彼の愛しい彼女は一見淡淡として見えるけれど、その実、興味をひく事柄に関しては表情がころころ変わるし、意外と負けず嫌いだ。言葉を教えあっていた時、彼があっさりと日本語を話し、自分が彼の言葉をぎこちなくしか話せないのが悔しかったらしい。うまく音が聞き取れないのか、何度も何度も彼の言葉を聞いて、なんとかつっかえずに話そうと頑張っていた。
うまくいった時の笑顔といったら、まるで小さな少女のよう。可愛いなと思ってから、自分にもそんな感情があった事にはじめて気がついた。
セツは彼から色々な感情を引っ張り出す天才だ。
一緒にいて、話せば話すほど彼女の事を好きになった。彼女が彼の心に寄り添ってくれたあの時から、その存在はどうしようもないほど特別だったけれど。好きという感情に上限などないように思えた。
この白い世界でしか会えなくても、彼女が同じ世界の人間ではなくても。好きで好きでどうにかなってしまいそうで、いつも彼女が同じように自分を好きになってくれればいいのにと、考えた。考えて、そのためにはどうすればいいだろうと、初めて魔法研究以外のことで頭を悩ませた。
結果的にセツは、彼を好きになってくれた。それに気がついた時、わかった時、とても嬉しかった。けれど彼女は臆病で。
彼と同じように、この特殊な状況も互いが同じ世界の人間ではないということも、かまわないとは思ってはくれなかった。
思ってくれなかったから、何もかもなかった事にしようとした。彼の心に触れたことすら、なかった事に。
好きだという感情も、なかった事に。
――拒絶は。
酷く悲しい。切ない。寂しい。悔しい。
それが彼自身の欠点にたいしてならまだいい。けれど彼女が諦めようとした原因は、彼らを取り巻く状況にたいしてだ。いつ終わると知れない。この先の未来など予測もつかない。限りなく不安定なこの現状。
ならばそれを粉々に砕けば、彼女はこの腕の中に落ちてくれるのか。
互いが会うのがこの白い空間ではなく、同じ世界になれば彼女は、セツは素直に彼を好きだと言ってくれるのか。
術はあった。
幸いな事に力もあった。
後は今までのらりくらりと続けてきた研究を、召喚陣を、完璧に仕上げるだけだった。
目処はたったし彼女は無事に彼の腕の中に落ちてくれた。縋ってくれた。
彼女の心をようやく手に入れた彼は、安堵し、歓喜し、そしてもっと欲張りになった。
一人でこの白い空間にいることすら、耐え難い。
以前はもう少し、平気だった。でも今はもうダメだ。もろもろの片付けや整理のために徹夜して、一日彼女に会わなかっただけで欲張りになった心は渇望する。
セツに会いたい。声が聞きたい。その肌に触れたい。穏やかな声でシグと、呼んで欲しい。
程なくその願いは叶うとわかっているのに、どうにも焦燥はおさまりそうにもなかった。
* * *
シグはくたりと背もたれに体を預けている。
初めて見る酷く疲れた様子に、声をかけるのをためらった。
けれどソファーは相変わらず狭い。二人がけのそれが、定員一杯になれば自ずと隣に存在はばれる。
私が声をかけないでいるうちに、シグの頭が持ち上がる。そのまま体も起き上がって、こちらを向いた。
あ、前髪が、短い。それだけじゃなくて全体的に以前より整えられた感じがする。
いつもは完全に目が隠れて、髪の隙間からぼんやりとのぞく程度なのに、今ははっきりと見える。
うーん、前も思ったけど、睫が本当に長い。その上肌が綺麗だ。何て羨ましい。
角度によって金色にも見える黄色い虹彩もとても綺麗。初めはこの色に慣れなかったのに、今ではすっかり普通になっている。
何も言わずにじっと見ていると、その目を細めてシグは笑った。
「セツ」
どうしたの、と問いかけるように名前を呼ばれた。
ああシグの声だ。そう思うと、嬉しくなる。
「シグ」
答えるように呼び返すと、招くように手を差し出された。
躊躇なくその腕に飛び込んで、感じるのはシグの体温。私が安心できる場所。
「ぼうっとしてた。何かあった?」
「あ、前髪、短いなって。後ろも。髪切ったの?」
「ああ、そういえば少し切った。……そうか、反映されたのか」
「え?」
「なんでもない。これでセツの顔が隠れなくなる」
「え、だからそれは隠れたままでも」
まさかそのためだけに切ったの?と問うと、彼は意味深に笑って私を見た。
間近になった顔から視線をそらしてしまうのは仕方ない。だって本当に慣れないんだ、この急接近に。というかこれ、慣れる事ってあるのかな。
というか何度も言うけど日本人には挨拶がわりに額や頬にキスする習慣はない。
だからそんないたずらっ子みたいな顔で何度もキスするのはやめて欲しい。目を閉じないでとか、口を開いてとか本当無理だから! ハードル高いから! 頼むから初心者コースでお願いします!
さっきまで疲れた様子だったのに、一転して楽しそうなシグの手の上でコロコロ転がされる私。そしてそれが何だかんだいいつつ結局嫌じゃないのだから、恋とはまったく盲目だ。
間に僅かにあった距離はとうにゼロ。
私の体はシグの両腕の中。
昨日私の中にあった寂しさなんて、とっくの昔に吹っ飛んでしまった。
「さっき疲れてたみたいだけど、大丈夫?」
そんな様子はもう微塵もないけど、念のため聞いてみる。
「大丈夫。セツに会えたから持ち直した」
「私に?」
「セツは凄いってこと」
「凄いのはシグだよ」
私には何の力もない。現状を嘆いて縋るだけだ。
「凄いよ。あれほど屋敷の片づけを億劫がってた私を、あっさり動かした」
「……部屋、片付けたの? 一人で? あ、徹夜までする用事ってまさか」
「そう。さすがに、あそこまで散らかっている家に君を招くわけにはいかないから」
そこまで言われると、一体どの程度まで散らかっていたのか気になる。
見てみたかったのにと言うと、シグは嫌われたら困る、とけっこう真剣な顔で言った。それが何だかくすぐったい。
「屋敷も片付けたし、召喚陣もほぼ仕上がった。後は、君から最後の術式をもらうだけだ」
「え? 私から?」
そんなのは初耳だ。シグと違って私はただの一般人だし、術式がどうこう言われても何の事だかさっぱりわからない。だからそんなもの、私がもっているわけない。
困惑が表情に出たのだろう、シグは安心させるように笑った。
「心配しないで。術式は、もう君の手の中にある」
言われて思わず両手を見るけど、そこに何もないのはわかりきったこと。
私は今何も手に持っていないし、左手の薬指にシグの指輪がはまってるぐらいだ。
困惑はますます大きくなる。けれどシグの表情は変わらず、笑顔のままだ。そのまま私の左手をおもむろに持ち上げると、彼は日本語ではない言葉を呟いた。
――途端。
指輪から、正確に言うとその石から、まるでホログラムのようにぶわりと浮かび上がったのは、線と点と丸、それに曲線を集めたような赤い何かの集合体。
よく見れば、文字のようにも見える。それがぐるりとまあるい円を形成し、何重にも重なっている。透明な赤だった石は、その文字列を宙に表示すると、不思議な事にまたもとの赤黒い色に戻ってた。
「最後の術式は、セツの情報」
「これが、私の情報、なの?」
「そう。君の世界の事と、その中でセツの存在を特定するために必要なもの全部。君の世界に魔法はないと言っていたけれど、この指輪はきちんと動作していた。だから君の世界にも、多分魔法はあるんだと思う」
「……そんな話、聞いたことないけど」
けれど確かに存在しないという証拠も、またない。
「これがちゃんと動いてくれて、よかった。そうじゃなければ、君を招く手段はもう少し手荒なものになっていたかもしれない」
「て、手荒って」
どんな方法だったのと。好奇心に負けて聞いてから、すぐに何でもないと言葉をひっこめた。
聞きたい?と、静かな声で目を細めた彼の黄色い色彩の中、何か理解できないような不可思議な熱がゆらゆらゆれているのが見えてしまって。穏やかな様子なのに何だか恐いと思った。
それは今までも何度か見た事がある陽炎だ。何が恐いのか自分でも良く分からない。以前はその陽炎が、自分の押し殺してなかったことにした気持ちを暴いてしまいそうで、恐かった。
では、今は?
とうに暴かれて、その腕の中に落ちてしまった今は。分からないことにたいする未知への恐怖か。
けれど恐いと思ったところで逃げ道なんてどこにもなく、何よりその腕の中の甘さに溶かされてしまった後だ。
全てはもう手遅れ。
後はもう、大人しく捕まるしかない。
けれど今はとりあえず逃がしてくれるらしい。
シグの中の陽炎は、ふわりと姿を消していつもの彼に戻る。やっぱり、彼は私に特大に優しいと思う。そしてとても大切に思ってくれているのだと、思う。
シグは私との間に浮かんだ何重もの文字式に、自分の左手を掲げた。その薬指には私にくれたものと同じような銀色の指輪がはまっていて、その赤黒い石の真上にも、全く同じように見える文字式が浮かぶ。
白い部屋の中、私達の間に浮かぶ二つの赤い文字式。それらは同時に、まるで幻のようにふっと消えた。
私の指輪の色は再び透明度が高い赤に戻り、シグの指輪も同じような色に変化していた。
どうやら中に情報を記憶すると色が変わるらしい。
「……複製、したの?」
「そう。戻ったら、これを召喚陣に書き加える。そうすれば、いよいよ君を私の世界に呼べる」
自分のものではない世界。異世界。そこに渡るというのは、本当は恐い。けれどシグと二度と会えなくなるのはもっと恐い。だから飛び込まずに後悔することだけ考えるのはもうやめた。
「不安?」
「……少し」
「私が君の世界に行ければよかったけど。異世界への転送陣を一から組むのは、さすがにもう少し時間がかかってしまうから」
「大丈夫。だってシグがいるもの」
彼は私の不安を何度だって潰してくれる。解消してくれる。だから今回も同じようにこの不安は消える。
シグは言った。私を自分の世界に招くと。ちゃんと元の世界に戻る術も用意するから、大丈夫だと。
世界を行き来できるというなら、私の不安はそのうちなくなるだろう。
そうしていつか片方の世界に落ち着いて、いつか今の私を懐かしむ時がくるのかもしれない。その時傍らにはきっとシグが変わらずにいてくれるから。
大丈夫。私は彼を信じて待つだけだ。
この白い空間ではない場所で。色彩がもっとあふれる場所で。彼が頑張って片付けたというまだ見た事がない屋敷の中で。
シグが私の名前を呼んで、抱きしめてくれるのを。その両腕の中に飛び込むのを。
ただ、願いながら待つのだ。