13
次の次の日の、夢。
いつもの白い部屋に、ソファーの大きさは二人分。
私の手には最近買った推理ものの文庫が一冊。
左手の指には、不似合いな銀の指輪。赤黒い石は、何故かあの後随分と透明度が高い、薄い綺麗な赤になった。
窓の外に相変わらず景色はなく、隣にシグはいない。
久しぶりに、私一人きり。
今日はいつまで待ってもシグは来ないだろう。あらかじめ昨日そう言われているから。用事があって徹夜をするから、きっと私には会えないと。
指輪とヘアピンの実験結果は昨日この場で伝え済みだ。
成功した事とピンが一本無くなっていた事を告げて指輪の事を話すと、シグは「これで全てうまくいく」と嬉しそうに笑った。どうやら色が変わるのは彼の想定内らしい。石の様子が変わって、私は死ぬほど慌てて気が気ではなかったのに。
だったら最初に話しておいてほしかったと、ちょっぴり浮かんだ恨み言は彼の満面の笑みにあっさりと消し飛んだ。
無邪気な子供みたいな笑顔は可愛いと評してもいいはずなのに何故か胸がときめいた。恋心とは全く、進行していく病のようだと思う。
さて、あらかじめ会えないとわかっているからと言って、寂しくないかといわれれば答えは勿論ノー。
寂しい。
一度間にあった距離をゼロにしてしまったからなのか、この空間に自分以外の気配がないというのは寂しい。触れてくれる体温がないという事実はもっと寂しい。
おかげでシグの事ばかり気になって、手元の本は一度も開かれていない。内容は以前に半分まで読んである。続きは読みたいような気もするけれど、きっと集中できないだろう。
こうなると、さっさと目を覚ましたい。早く朝になって目がさめればいい。そう思うのに、この空間はやっぱり意地悪だ。私の意識は薄れることもなく、ずっとシグの事を考えている。
徹夜なんかして体を壊したりしないだろうか、とか。
用事って、なんだろうとか。
彼がもしこの空間に一人で放り出されたら、私と同じように寂しいと、会いたいと思ってくれるだろうか、とか。
思ってくれたら嬉しいけれど、そんなふうに考えるのは鬱陶しがられやしないか、とか。
呆れるほど彼の事ばかり。
さすがに苦笑してしまいたくなるけど、困ったことにそんな自分は嫌いじゃない。
好きな人の事を考えていられるって、きっと幸せなことだと思う。会えない今は寂しいけれど。だからこそ次に会えたとき、嬉しさは掛け算される。
今会えない時間は、きっとシグをもっと好きになるための時間だ。臆病で全部なかったことにしようとしていた私を好きだと言ってくれた彼の気持ちに、胸を張って答えられるぐらい。
だからと言って、寂しいのはやっぱりどうにも覆せない事実で。
一人分ぽっかりと空いたソファーはバランスがとれない。これは二人で座るべきものだ。
だから早くシグに会えます様に。彼が私の隣に座って、いつものように「セツ」と。名前を読んでくれる幸せが訪れますように。
少しでも朝が早く来るように、私はそっと目を閉じた。
* * *
最近の友人の変貌ぶりは、見ていて不安になるほどである。
「屋敷が片付いてる、だと?!」
「何しにきた」
いまだかつて、研究書類と術具、薬草と魔法書にあふれた友人の屋敷が片付いていたことがあっただろうか。いや、ない。ここに来る前に訪ねた塔の一室も、これでもかというほど散らかっていたのだ。もっと酷かったこの屋敷が片付いているはずがない。
だというのに今見てきた光景はどうだ。埃を被っていただろうエントランスは綺麗に掃除されていて、階段の手すりも磨いてあった。廊下はもちろんの事、古ぼけて色が薄くなっていた絨毯やカーテンは新しくなっている。
ほぼ使っていない食堂はくもの巣がはって酷い有様だったのが、これまた綺麗になっていた。
そして極めつけは友人の部屋だ。どう見ても書類の類はまとめられて机においてあるし、本は本棚に、術具は部屋の一角にまとめられている。
普通に考えると当たり前の事だが、だからこそおかしい。
養父だった彼の師が亡くなってからこのかた、屋敷に帰らずずっと塔で引きこもっていたというのに、急に帰る気になるとは何があったのか。
塔の人間に聞いた話によれば、突然短期の休暇申請を出したそうだ。日数はおよそ十日ほど。年がら年中何かしらの研究や調べ物をしていて、倒れるように眠る以外、あまり休むという行為をしない彼にしては極めて珍しい行動だ。
一体休みをとってどうするのか。
骨休みに旅行にでも? いやいや、それは全く想像がつかない。あれに旅行をするという思考は多分ない。友人の頭にあるのは研究と、それに付随する何かだけだ。
なんとも珍しい事もあるものだと、仕事を終えて屋敷を訪ねてみれば、中にいるはずの友人は扉も開けず、邪魔だから帰れとにべもない。
いや、思えば昔から自分に対する扱いはこんな感じだから、いつも通りと言えばいつも通りか。
仕方なしに老師から預かった鍵を使って中に入れば、そこは記憶の中にある光景から一気に様変わりしていた。
文字通りヨウンは呆気に取られてた。
馬鹿みたいに口をあけて、目をこれでもかと見開いて。次々と判明する情報に唖然とする。
見れば、屋敷内だけでなく友人自身も非常にまともな姿になっていた。
よれよれだったシャツやローブは新しいものになっているし、ざんばらの髪は少し短くなり比較的綺麗に整えられている。無精ひげはないし、最近まともな睡眠と食事をとっているせいか、肌艶は正常だ。少し目の下に隈があるのはまた徹夜かなにかしたためだろう。それだって、昔に比べれば随分薄い。以前はもっと濃く酷い隈が、まるで刺青か何かのように常に彼の顔にあった。
仏頂面と眉間の皺はかわらないが、それさえなければ充分好青年である。
元々顔の造作は整っているのだ。その上力も地位もある。性格の難に目を瞑れば、結婚相手などよりどりみどりだろう。この状態なら今度こそ老師の心配事を解消できるかもしれない。
が、しかし。だからこそおかしいというか。
これはいよいよ何かあったか。
――と、そこまで考えた所で顔面に分厚い本が飛んできた。
本は凶器ではない。読むものだ。しかし鈍器としての性能は厚ければ厚いほど優秀で、そこに勢いという付加価値が加われば、殺傷能力が上がる。
咄嗟に右に避けたが、避けた方にも同じだけ分厚い本が飛んできていて、さらに避けるには遅すぎた。
「ごばッ!」
ゴッ、というなんとも鈍い音。顔面に激突する本。暗闇に舞い散る幻の星。
衝撃が先にきて、痛みは後にきた。
この間ぶつけられた本よりは軽く、意識を失うには至らなかったが立っているのは無理だった。 ドタンッ、と大きな音をどこか遠くに聞きながら、しばらく痛みに悶絶して辺りを転げまわっていると――上から容赦なく踏みつけられた。
「不法侵入者に情けはいらん。とっとと、養父さんが渡した鍵を置いて帰れ」
「ゲホッ、てめ、お前が素直に出てくれば、っていてえ! おま、やめ、ちょっ、蹴るなッ!」
「邪魔だから帰れと、扉で伝えた」
「邪魔って、引き篭もる場所が塔から屋敷にかわっただけだろ!」
「馬鹿か。引き篭もるだけなら塔で充分だ。だいたい、そんなことでわざわざ休暇を取るか」
「……そういやあ、そうだな。いつも通り研究に明け暮れるなら休暇なんて取らないよな。じゃあ、一体どうしたんだよお前。老師が亡くなってから、あんなにここに帰るの嫌がってたのに」
「……養父さんの部屋は、そのままだ。あそこは多分、一生片付けない」
養父が亡くなって、一時期この友人は本当にどん底まで落ちていた。
あの時は誰の声も彼の耳には届かず、部屋に結界まで張って全てを遮断していた。それぐらい友人にとって養父だった老師は大事な人だった。
心配だったがどうにもできなかった。何も出来ない事が歯がゆいと思ってるうちに友人は一人で持ち直して、元の通りに戻った、けれど。
やはり養父の事はまだ心のどこかでひっかかっているのだろう。
足蹴にされた状態で、そんな事をしんみり思っていたら、また容赦なく踏まれた。
「いてぇって!」
「せっかく片付けた部屋でいつまで転がってる。さっさと起きて出て行け」
「転がったのはお前のせいだろ!」
「門前払いしたのに入ってくるお前が悪い」
「うるせえ! お前の様子が最近おかしいから気になったんだよ! 悪いか!」
「悪い」
「この野郎っ」
「いたってまともになっただけだ」
「まともだからおかしいんじゃねえか!」
力いっぱい言ったらまた踏まれた。
本を投げられるよりましとはいえ、地味に痛い。
「……くだらん事を言ってないでとっとと起きろ。これから客を迎えるのに、お前がいたんじゃ話しにならん」
「……客? 老師の知り合いか?」
「いや。私の客だ」
「……お前の? お前、俺とラズロとセネカ以外、招くような知り合いいたか?」
「いたら悪いか」
「……いや、悪くは、ない、が」
「だったらとっとと出ていけ」
「相手は? どんな奴だ?」
素直に聞けば、友人の眉間にぐっと皺が増えた。
この偏屈引き篭もりが、他人を自分の領域に入れたくないと使用人すら雇わないでいる気難しい男が、屋敷に招くほど気にいったと聞けば見知らぬ相手にたいし興味がわくのは仕方ない。
いそいそと体を起こして、鋭い睨みにも負けずに辛抱強く待つ。ずっと待つ。いつまでも待つ。体力はあるから持久戦には自信がある。
ややして諦めたように友人がため息をついた。
相変わらずの仏頂面で「一度しか言わない」と前置きして、彼は続けた。
「お前の言葉を借りるなら、これから迎える客は、嫁だ」
「……は?」
え?
今なんて言ったと、聞き返そうと思ったら景色はぐるりと反転し。
気がついて瞬けば、そこはもう室内ではなく屋外で。
目の前には固く閉ざされた鉄の門。
強制的に締め出されたことに気がついた、さらに後に、預かっていた鍵も取り上げられていることが判明して。
実に情けない悲鳴が彼の口から上がったのは、まあ仕方ないことだったかもしれない。