11
じっと、視線が私に突き刺さる。
じーっと、そうもうずっと。
私がシグの顔をまともに見れなくなってから、ずっと。
あんな事があった後平然とした態度を取れるほど器用ではなく。案の定私は不自然な態度のまま白い夢に挑んでいた。
ソファーの隅に体を押し付けるようにして座って、シグのほうに少し背を向けるように本を読む。
私の心を現したかのように、ソファーはいつかのように長く、長く伸びていた。
そしてやっぱりいつかのように、シグはすぐ隣にいて、私のほうをじっと見ていた。そちらを見なくても気配でわかる。
彼はもう、手に本をもっていない。
ただ座って、私を見ている。話しかけたりもしない。
視線だけがただ私に突き刺さる。
はっきりいって致命傷なくらい、ぐさぐさと、そりゃもう遠慮なく。できればもっている本でガードしたいが、それをしてしまえばシグの視線に対応せざるを得なくなる。
じーっと。
もうどのくらい時間が過ぎているのかわからない。
こういう時に限って、夢は早く終わらないのだ。
私はいつまでも、白い夢の中のまま。
突き刺さってくる視線に耐え切れず視線を少しだけシグに向けると、陽炎のように揺ら揺ら揺れる黄色い二つの光とがっつり目があってしまった。
慌てて目をそらそうとしたけれど、時すでに遅く。
彼はそれをまっていたかのように口を開いた。
「セツ」
「……何?」
無視するわけにもいかず、恐る恐る呼びかけに答える。
すっかりと定着してしまった日本語の会話。
言葉をどんどん覚えていった彼は、しまいには辞書の単語を片っ端から私に説明させ始めた。絵や写真を使って説明するのは本当に大変だった。
今じゃ私より日本語に詳しそうで怖い。
「聞いていい?」
「……何を?」
これ以上逃げられないと悟って、諦めて本を閉じた。
シグが近くにいることに、いまさらながらに耳に熱が集まる。必死に意識しないようにしていたというのにこれでは台無しだ。
シグはずっと真剣な表情のまま、また続けて口を開く。
「セツは、私をどう思ってる?」
「…え?」
背筋がひやりとした。
今一番聞かれたくない問いだった。
怯む私を気にすることなく、シグはどんどん言葉を続ける。
「知り合い? 友達? それとも」
その先を言わせてはいけないような気がして、反射的に私は叫んだ。
「と、友達、というか、親友、というか…!」
喉から搾り出したのは悲鳴みたいな答えだった。必死に、何かを守るような。
では、守りたいのは何だろう? 私自身だろうか、それともこの白い夢だろうか。それとも――。
シグはちょっと目を細めて私の答えを繰り返した。
「友達? 本当に?」
その本当に、は何に対する問いだったのか。考えるの怖くて私はただ頷いた。
「めめ、迷惑、だった?」
「別に、迷惑ではない、よ。でも」
シグは何気なく私の手をとった。あまりにもさりげなさ過ぎて、私は握られた自分の手をぽかんと見つめる。
「友達なら、こうして手をつなぐ事はできるよね?」
「え、あ、うん」
そうかな?と、頷いたあとで疑問に思っても後の祭り。既に肯定の返事は口から外に飛び出した後。
同性の友達なら多分それは間違いではないはずだ。だから頷いてしまったのだ。馬鹿すぎだ私。
友達、という言葉を強調しながら、彼の手の握り方は、微妙にこう、あれだ。
指の絡め方というか、手つきというかなんかこう、うん、御免はっきり言う、これって俗に恋人つなぎと呼ばれる何かではないですか?
「でもこうやって」
「……うん?」
彼は絡めた指を解いて、私の手をひょいと持ち上げた。
どこまで持ち上げるのかと見ていれば、それは彼の口元でぴたりと止まる。
うわぁ、と思うまもなく指にキスされた。
あまりにも一瞬だったから、もしかしたら幻かもしれない。幻希望、切に希望。
でもシグは、何だかいつもと違う凄みのある笑みで言った。
「キスは手か頬ぐらいにしかできない。それが友達の限界」
笑いながら目は笑っていなかった。さっきから彼の目の中で、理解できない、理解したくない何かが揺ら揺ら揺れている。
さっさとソファーから立ち上がって、逃げればよかった間抜けな私は、その視線にがっちり捕まって、目をそらせない。
って言うかまってください。私の国では友達は頬にも手にもキスしない、しないから!
「私は君が好きなんだ」
彼の投げてきた球はストレートにデッドボールだった。
…痛すぎる。
正直私としては三振空振りを希望する。
「だから友達じゃ、嫌だな」
「……嫌って、言わ、れ、てもっ」
言葉が途切れ途切れにしか出てこない。
どうしてこの人は、人がわざわざ深く沈めたものをサルベージしようとするんだろうか。このままでいいと思ったのに。それを許してくれないのか。
心臓がどくどくと煩い。
何とか沈めなおした心の一部が、浮き上がってくるようで苦しい。
「ねえセツ、君が怖がってるのは何?」
「っ」
これはまたもやデッドボール。一体いつ気づかれたのだろう?
普段ぼやぼやなのに鋭いなんて卑怯にも程がある。
「君が私を好きな事は知ってる。でもそれ以上に私がセツを好きな事を、君は知らない。君が好きになってくれる前から、私は君が好きだったよ。君が私の傍にいてくれたあの日から」
あの日。
私の後悔の元になった日の白い夢。
やっぱりあれが全ての元凶、そして原因だった。
均衡を崩したのは私だ。この白い世界を壊したのも、彼の心に手を伸ばしたのも。
全ての原因が私だから、今こんなに苦しいんだろうか。
「私たちはこの白い世界で、ただ互いに存在してるだけだったね。互いはそこにいるという気配以外はまるで空気のようで、幻に近かった。君の体温を傍で感じた日に、初めて互いが幻じゃない事に気がついた。それはまったく悪い事じゃない。寧ろ、私にとっては幸運だった」
シグが私に手を伸ばす。
今度こそ逃げよう、そう思うのに体はちっとも動かない。まるでその腕を待ち望んでるかのように高鳴る胸が心底憎い。
「セツ、私は君みたいに、諦めるなんてできない。諦めたくもない。世界が違うから、夢でしか会えないから、そんなのは理由にもならない」
ねえセツ、と、シグは私を抱きしめた。優しくて温かくて涙が出る。どうしてこの夢はこんなにもリアルなんだろう。
彼は随分無茶苦茶な事をいってるような気がする。世界が違うから、夢でしか会えないからというのは、諦めるには立派な理由だと思う。少なくとも私には、それを覆す力も術もない。
何の力もない臆病な私が諦めた事を、彼は正面から否定する。
諦めるなんて許さないと、まるで責めるように。じゃあどうすればいいのだ。ここは夢の世界だ。シグは私の現実から見れば幻の人だ。この感触も温かさもなにもかも、起きれば夢が覚めるように霧散する。
何も残らない。残せない。だから触れないで欲しかった。こうして抱きしめられてしまえば、私の弱い心はあっという間に瓦解する。元に戻る術も忘れて、粉々に崩れる。
涙がじわりとにじみでて、あっけなく頬を伝った。
嗚咽をこらえきれずに泣き出した私の背中を、シグは慰めるように、労わるように撫でた。
「だから私を頼って、私に、縋ってほしい。世界が違うなら一緒にしてしまえばいい。そうすればこの曖昧な夢の終わりに、怯えずにすむ」
シグの言葉はまるで甘い蜜のようだ。とろりとろりと、私の心までとかしてしまうような。
唯一残った理性が、そんな無茶苦茶なと呟いたが実際には声にならなかった。ただ無意識に彼の服を、すがりつくように握り締めていた。
ああ、何だか今の自分がひどく乙女に見えて嫌だ。嫌だけど嬉しい。嬉しくて死にそうだ。それがまた嫌で、嬉しくて、エンドレス。
「シグ」
助けて、と。
喘ぐようなささやきに、答えたのは甘い口付け。それは、この先の未来への不安も何もかも、考える事すら放棄させる。
何も考えられなくなった私の思考は真っ白で。ただひたすら与えられる甘さに溺れた。