10
「…アデル」
深刻な顔をして、邪魔者がまた部屋にやってきた。
彼はそちらをチラリと一瞥しただけで、すぐに目の前の作業に戻る。
毎度毎度よく来る事だ。騎士とはそんなに暇な職業だっただろうかと疑問に思ってしまうほどだ。
邪魔者は、彼にとっては数少ない友人の一人だった。何かと煩く面倒を見てくれたり小言を言ってくる、まあ鬱陶しいがかけがえのない友人だ。
だからこそ、今ものすごく邪魔者なのだ。
彼は早くこの研究を完成させたかった。
それはもちろん、王国の権威のためでも、今後の魔法の発展のためでも、偉人達の悲願のためでもない。
ただ彼の目的のためだけに完成させなければならなかった。大雑把なものではなく、より繊細に、精密に。そして最高の完成度を彼は求めた。そうでなくてはならない理由があった。万が一にもほころびがあってはならない。そんな事は許されない。
時間は無限ではなく、時は常に流れ続ける。だからこそ迅速に、そして完璧に。
「お前、本っ当に大丈夫か?」
「用がないなら帰れ」
顔を上げないままずばりとそう言いはなてば、友人は憤慨したように雄たけびを上げた。凄く煩い。
「おまっ、人が心配してやってんのにその態度ってどうよ?!」
「生憎食事も睡眠もとってる。以前より体調がいいぐらいだ」
「いやいやいや、だからだっつうの」
「訳が分からない」
あれほど人に生活態度を改めろと言っておいて、いざその通りにしたら「大丈夫か」とは何事か。
「…この十数年、何べん言っても生活態度を改めなかったお前が、この間から別人みたいな有様だ! 正直悪いモンでも食べたか脳みそがいかれたとしか考えられグブォッ?!」
無造作に投げた分厚い魔法書はうまい具合に友人にぶつかったらしい。内容は大して役に立たないものだったが物理的に役に立った。
耳障りな悲鳴と共に巨体が倒れる音が部屋に響いた。長年掃除していない部屋だけに、その衝撃で埃とくずかごに入り損ねた紙が宙を舞う。
まったくいるだけで邪魔なのに更に邪魔になるとは、友人でなかったら塔の外に捨ててやりたい所業である。
とりあえず後でこの部屋の片づけを手伝わせよう。
思えば部屋の片付けなんて、養父が生きていた頃以来だなと思うと何だか懐かしい。
養父も片づけが得意な方ではなかったから、研究室も屋敷の自室も、いつも様々な本と器具で埋め尽くされていた。
その中に埋もれるように、よく徹夜で魔法理論を教わった。
その養父が亡くなってからは、彼の中にぽっかりと穴があいたような気分だった。
あるはずの大事なものがない。そんな消失感。
実の親の顔など覚えていない。
彼にとって世界は養父と魔法だけで形成されていたし、それで不満も何もなかった。
いつまでもそのまま変わらないと思っていた。けれど時は流れて、彼の世界の半分は輪廻の輪へと旅立った。
失われて変わった彼の世界。亡くなった養父の代わりなど存在しない。それは彼にもよくわかっていた。
養父が好きだった。いなくなって初めてそう思った。生きてる頃は彼を「父」とは呼ばなかったのに、死んで初めて「父」と呼んだ。叫んだ。無性に会いたくて仕方なかった。
自分の中にぽっかりと開いた穴が、消失感が。悲しみなんだと気がついた時には、生まれて初めて涙を流した。もう会えない養父を思った。誰にも会いたくなくて、心配して様子を見に来てくれていた友人を無下に追い払った。部屋に閉じこもって一歩も外に出なかった。
それなのに矛盾したように誰かに傍にいて欲しいと思った。
慰めの言葉も気休めの言葉も何もかも要らなかった。ただ傍にいてくれるだけの誰かが、欲しかった。
「彼女」の存在を強く認識したのは、そんな時だった。
自分が時より見る夢の中に、誰かがいるのは知っていた。
いつも同じ人間で、それが女性である事も知っていた。知っていたがそれだけだった。
彼はその存在に興味がなく、どうしてそんな夢を見るのかさえどうでもよかった。彼女も彼には興味がなかった。
ただ互いに同じ夢の中に存在する、それだけの事。違和感などまるで感じない。
不思議だったのは、現実では不精な自分が夢の中では身奇麗な恰好をしていた、たったそれだけ。
彼女は長椅子のすみで本を読み、彼もまた同じだった。
白い部屋に長椅子、そして彼と彼女、本。
幾度繰り返しても夢は同じ。
しかし彼が「誰か」の存在を求めた時に、夢は変わった。
あの時傍にあった体温の暖かさを、彼は今も忘れない。彼の世界に、新たな存在が飛び込んできた瞬間でもあったからだ。
彼女の存在を認識する事で、彼にとって白い夢の価値は変わった。夢の中でしか会えないだけに、それ以降自分が徹夜をする回数もぐんと減った。
夢の時間はかけがえのないものになり、現実に戻りたくないと思った事すらあった。
自分の変わりようは、傍から見れば滑稽なだけだろう。彼だって今更、養父を思う以上に大事な存在が出来るなんて思っても見なかった。
夢の中で会話を繰り返せば繰り返すほど、彼女の存在は自分の中で大きくなっていった。
もう彼女の存在をまったく気にしていなかった以前の様には戻れないし、戻りたくもない。
夢の中という、曖昧な彼女の存在。自分。そして彼らの関係。
それを確かなものにするためにも、この魔法を完成させなければならない。綻びもなく完璧に。
「…だああああっ、てめっ、アデルこの野郎!! 人に向かって凶器投げんじゃねぇ!! お前の細腕のどこにこんな重い本ぶん投げる力があるんだよ!!」
「ヨウン、煩い。邪魔だからとっとと仕事にもどれ」
復活した友人の叫びに、また場が騒がしくなる。
せっかく「彼女」の事を思い出していたというのに、むさくるしい友人の怒鳴り声で台無しだ。
ああ邪魔だ。本当に邪魔だ。心底邪魔だ。
文句をまくし立てる友人をさらりと無視して傍にあった別の魔法書を手に取った。厚さは先ほど投げたものよりややページ数が多く、ずりりと重い。内容には既に用がないので、手元から離れてしまっても問題ない。
よし、これで今度こそ静かになるか。
期待をもって放り投げたそれは、寸分たがわず目的に激突し、彼の願いを短い時間だが確かに叶えてくれたのだった。