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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

happy birthday

作者: 灰崎一彦
掲載日:2026/07/25

ピピッ、ピピッ、ピピッ。


朝のアラームと同時にスマホの画面に目を落とすと、スケジュールアプリがポップアップ通知を弾き出していた。


画面の明かりが、まだ眠い目に鋭く刺さる。私はのそりとベッドから起き上がり、洗面台に向かった。冷たい水で顔を洗い、鏡に映る冴えない顔に、薄くメイクを施す。パフを叩きながら、ふっと昔のことを思い出した。


あれは、幼稚園のトウシューズもまだ持たせてもらえないような、小さな子供向けのバレエ教室の帰り道だった。


レッスンが終わって、みんなで駅へと向かう夕暮れの道。女の子たちがワチャワチャと騒いでいた。


「今度、〇〇ちゃんの家でお泊まり会するんだよー」


「お菓子いっぱい買うんだって!」


「ゆらちゃんも来てよ!一緒に遊ぼう?」


「そうだよ、ゆらちゃんいつもすぐ帰っちゃうもんね」


みんなに誘われたことが、胸が痛くなるほど嬉しかった。私はスキップするような足取りで、一歩後ろを歩いていたお母さんのもとへ駆け寄った。


「お泊まり会に行ってもいい?」


けれど、お母さんの顔は一瞬で強張った。


「外は危ないから。ママと一緒じゃないと、まだ駄目」


……また、だ。


視界がうるむのを必死で堪え、喉の奥をぎゅっと閉めながら、「……分かった」と私は笑ってみせた。


するとお母さんは、今にも泣き出しそうな、本当に申し訳なさそうな顔で私の頭を撫でた。


「ごめんね、ゆら。いつも我慢できて、本当に偉いね……」


「……よし」


回想を振り切るように、私は鏡に向かって口角をきゅっと上げた。


学校用の、誰からも嫌われないための、完璧に「愛想のいい可愛い女の子」の笑顔。それを仮面のように顔に張り付けて、洗面所を出た。


中学の時の三者面談だってそうだった。


お母さんは、約束の時間を少し過ぎて教室にやってきた。息を切らせていて、髪は少し乱れている。


「すみません、遅れました」


隣に座った瞬間、ツンと鼻を突く匂いがした。……お母さん、お酒の匂いがする。昼間なのに。私は手汗をスカートで握りしめた。


幸い、先生はそんなことに気づかない様子で、私を褒めちぎった。


「羽澄さんは本当に凄くいい子ですよ。目立つタイプではないですが、クラスメイトの皆さん全員に好かれています」


するとお母さんは自慢げに、でもどこか困ったように笑ってこう言ったのだ。


「この子、本当はもの凄く引っ込み思案なんです。家では友達と遊びたいなんて全然言わなくて。ねえ、ゆら?」


「……うん。お母さんと一緒にいるのが楽しいから」


私は、お母さんの言葉に自分の心を無理やり合わせた。ここで否定して、お母さんの機嫌を損ねたくなかった。先生の前で変な空気になるのも嫌だった。学校だけが、私の外の世界のすべてだったから。


回想から引き戻され、私はリビングへと足を進める。


床に転がっている空き缶を、踏まないように、音を立てないように避けて歩く。ソファには、だらしなく横たわって眠るお母さんの姿があった。昔の、あの綺麗だった頃の面影は、酒と煙草の匂いに塗りつぶされている。


朝ごはんは、食べる気もしない。


机の上に置きっぱなしになっていた袋パンを一つ、お昼用にとカバンに放り込んだ。


昔は、違った。


まだ私たちが、あのタワーマンションの上層階に住んでいた頃。


部屋の中はいつも、夜景の光と、お母さんのつけている高い香水のいい匂いで満たされていた。


「ゆら、見てごらん。綺麗だね」


お母さんは私を優しく抱き上げて、大きな窓の向こうに広がる、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景を見せてくれた。


「ゆらも大きくなったら、絶対に綺麗になるよ。ママに似て、すっごく可愛くなる」


ピンポーン。


不意に鳴り響いたインターホンの音が、広いリビングに冷たく木霊した。


お母さんは私をそっと床に下ろすと、視線を玄関の方角に向けたまま、私の肩に両手を回した。


「ゆら、絶対に玄関へ来ちゃ駄目」


小さな、けれど拒絶を許さない声だった。


「え?」


「絶対」


あの頃のお母さんは、世界の誰よりも美しくて、優しかった。


「……今日、ゴミの日か」


現実の、少し古びて薄暗いマンションのLDで、私はゴミ袋をまとめる。カサカサと音が響いた瞬間、ソファのお母さんが寝返りを打った。


「……んぅ……しゅーくん……」


少し甘ったるい、聞いたことのない男の名前。


私は小さくため息をつく。知らない名前。そもそも、私は自分の父親の名前すら知らない。この家にはいつも、私の知らない男の気配が、空気のように、泥のように漂っている。


「……いってきます」


小さくそれだけ呟いて、私は家を出た。


重いドアを押してマンションの外へ出る。しゃがんでローファーを履き直していると、背後からカバンをポンッと叩かれた。


「ゆらー、おはよっ!」


「おはよー、ゆら」


振り返ると、みうとひなが立っていた。ひなは少し目が腫れていて、元気がない。先週、他校の彼氏にフラれたばかりなのだ。


「あ、おはよ、二人とも」


「ねえ聞いてよ、ひな、まだ引きずっててさー」


みうがケラケラと笑う。私はちょっと気まずくて、声を落とした。


「……大丈夫? ひな」


「大丈夫なわけないじゃん……。あーあ、ゆらはいいよね。いつも可愛くて、悩みとかなさそうでさ」


ひなが自嘲気味に呟く。私は慌てて首を振った。


「そんなことないよ! 私だって毎日必死だし……」


「はいはい、謙遜はお腹いっぱい!」


みうが二人の間に割って入る。私はそれ以上何も言えなくなって、あいまいに笑うしかなかった。


昼休み。


「ゆら、ご飯食べよ!」


みうとひなが私の席に机をくっつけてくる。3人で食べようと、購買のパンを取り出したその時。


「ねえねえ、私たちも入れてー!」


周りの女子たちが、次々と机を寄せてきた。あっという間に私の席の周りは、7人ほどの女子の輪ができる。


「いーよー! 混ざりなよ!」とみうがいつもの軽いノリで輪を広げる。


私はその勢いから一歩遅れないように、あわてて「あ、うん! 食べよ!」と精一杯の笑顔を作った。


「ゆら、いっつもパンじゃない? お弁当持ってこないの?」


女子の一人が私の手元を見て言った。胸の奥がキュッと縮む。


「うん。私、このパン好きなんだよね。手軽だし!」


何でもない風を装って、菓子パンを口に運んだ。


「てかさー」


みうがニヤニヤしながら、私に顔を近づけてくる。


「ゆら、さっき一ノ瀬くんに話しかけられてたじゃん? あれ絶対、気があるって。間違いない」


「はぁ!? また!?」


ひなが声を尖らせて叫んだ。


「ひな、ちょっと声大きいって……!」


「いや、だってずるいじゃん! うちがフラれてボロボロの時に、こういうの、ゆらばっかり。羨ましー!」


「あのトナカイの事件とかねー」


みうがにやけた顔のまま、追い打ちをかける。周りの女子たちが「なにそれ!」「教えて!」と身を乗り出した。


「もう、みう、本当にやめてってば……!」


私は慌ててひなの顔色を窺った。


「いや、これ見てよ。マジで傑作だから」


みうがスマホの画面をみんなに見せる。


そこに写っていたのは、トナカイの着ぐるみを着て、角付きのカチューシャをつけた私だった。その周りを、サンタ帽をかぶった、見知らぬ大学生数人が半円状に囲んでいる。


去年のクリスマス、断れずに引き受けた短期のケーキ売りのバイトでの一コマだった。


「なにこれやばい! ww」


「しかもこの時、ゆら半泣きだったからね」


「だって、知らない男の人たちが来て、怖かったし……」


私がそう抗議すると、ひなは呆れたように言った。


「最終的にサンタ同士でさ、『いや、俺が先に見つけたんで』みたいに揉め始めてんの。クリスマスに何やってんのって感じでマジでウケるよね」


「笑い事じゃないってば、もう……」


放課後。駅のホームは、部活帰りの高校生や会社員で混み合っていた。


「カラオケ、先予約した?」


「今日こそターキー出すわ」


「てか、またひなが変な踊りするじゃん」


「しないし! 失礼な! 今日はいっぱい歌って忘れるの!」


みうやひな、いつものメンバーが騒ぎながら、同じ改札の方へ歩いていく。


私は、その輪から一歩遅れて、反対側のホームへと足を向けた。


「ゆら、後で動画送るねー!」


みうが振り返って手を振る。


「うん、ありがと。みんな、楽しんできてね」


私は手を振り返した。


「今度はゆらも一緒ね!」


ひなが両手で大きくハートマークを作ってみせ、みうがそれを見て笑っている。


みんなが遠ざかっていく。


……高校になって、お母さんからの外出制限はなくなった。


なのに、私は自分から、みんなと遊ぶのを断るようになっていた。理由は、分かっている。お母さんを、一人で家に放っておけなかったからだ。


最近のお母さんは、ずっと「壊れかけ」のまま、グラグラと揺れていた。


ソファに座ったまま、テレビもつけず、煙草だけを灰にしていたり。


話しかけても返事がなくて、寝ているのかと思ったら、ぼんやりと天井を見つめていたり。


急に泣き崩れて、私に「ごめんね、ゆら、ごめんね……」と、何度も何度も謝ってきたり。


そんなことが、中学に上がる少し前から、だんだんと増えていった。私が支えなきゃ。私がいい子でいなきゃ。お母さんが、完全に壊れてしまわないように。


私は電車に乗り、お母さんへの誕生日プレゼントを受け取りに、少し離れた街の百貨店へと向かった。


プレゼントは、香水だ。


お母さんが昔つけていた、あの優しくて、綺麗で、大好きだった匂い。今の、お酒と煙草の匂いにまみれたお母さんじゃなくて、あの頃のお母さんに戻ってほしくて、人気のそれを何日も前から予約していたのだ。


けれど、お店に行くと、店員さんが申し訳なさそうに頭を下げた。


「大変申し訳ありません……入荷が少し遅れておりまして。あと一時間ほどで、こちらに届く予定なのですが……」


「あ、大丈夫です。待ちます」


私は無理に笑顔を作って、お店の近くにある広場のベンチに座った。


スマホを開き、お母さんにLINEを送る。


『プレゼント買うのに、ちょっと帰り遅くなるね』


直接「おめでとう」と言うのは帰ってからの楽しみにしたくて、言葉の代わりに、お祝いの気持ちを込めた風船のスタンプを一つ、おまけのように添えた。


……なかなか、既読がつかない。


画面を見つめながら、まだ寝てるのかな、と思う。


チカッ、と通知が光った。お母さんからではなく、みうからだった。


テーブルの上に散らばった、カラオケのポテトやピザの写真。大きすぎる笑い声が響く、ブレブレの短い動画。


私の知らない、楽しそうな世界の断片が、何個も、何個も送られてくる。


……羨ましい。


今度誘われたら、一回くらい行ってみようかな。


香水をようやく受け取った頃には、すっかり外は暗くなっていた。


急いで電車に飛び乗り、地元の駅のケーキ屋で、ショートケーキを2つ買った。お母さんと私の分。


夜道を早足で歩き、マンションのエレベーターを上がる。


家の玄関を開けた瞬間。


……あった。


私のものではない、お母さんのものでもない、見知らぬ男の靴。


「今日も、来てるんだ……」


リビングのテーブルに、買ってきたケーキの箱と、香水の袋を置く。


「ママ? 帰ったよー」


声をかけるが、返事はない。


ただ、浴室の方から、ザーッという激しいシャワーの音が聞こえてきた。なんだ、お風呂に入ってるのか。


私はリビングの椅子に座り、お母さんが出てくるのを待った。


けれど、10分経っても、20分経っても、シャワーの音は鳴り止まない。それどころか、人が動くような物音ひとつ、響いてこないのだ。


何か、おかしい。


胸がざわつき、私は浴室のドアの前に立った。


「ママ? 入ってるの? ママー?」


声を張り上げても、返事はない。ただ、激しい水の音だけ。


心臓の鼓動が、ドクドクと速くなる。恐怖に急き立てられるようにして、私は浴室のドアをガラッと開け、一歩中に入った。


「……?」


足の裏に、ねっとりとした、ぬるい感触が触れた。違和感に視線を下に落とす。


換気扇のライトに照らされた床一面に、どす黒い赤が広がっている。容赦なく降り注ぐシャワーの水と混ざり合い、ピンク色の濁流となって、排水溝へと吸い込まれていく。


排水溝のフタに引っかかるようにして、何かが転がっていた。


赤黒く、原型を失ったもの。


「そんなわけがない」と頭の中で必死に言い訳を探すより早く、私の視線は勝手にその先へと泳いでいく。


シャワーの霧の向こう、湯気の中で、裸の男がうつ伏せに倒れていた。身体のあちこちに深い傷が走り、目を背けたくなるほど無残な状態だった。塊の正体を理解した瞬間、肺の空気がすべて凍りつく。


「いやあぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」


喉が裂けるかと思うほどの悲鳴が、私の口から飛び出した。恐怖で全身の毛穴が開く。


すると、私の悲鳴に反応するように、浴槽の陰から、お母さんがぬっと姿を現した。


「ゆら?」


着古したグレーのスウェットは、胸元から袖口までどす黒く濡れそぼり、皮膚にじっとりと張り付いている。その右手には、べっとりと赤黒い液体が付着した包丁を握りしめている。


その顔は、少し笑っていた。


「パパ、帰ってきたよ」


「……お、お母さん……?」


私はガタガタと全身を震わせながら、一歩、後ろに下がった。


「な、なにこれ……。え、なに、してるの……?」


お母さんは、まるで子供がいたずらを見つかった時のような顔で、くすくすと笑った。


「あは、あはは……っ」


「これ、お母さんがやったの!? ねぇ!! 人、死んでる!!」


笑い声は、だんだんと大きくなっていく。狂気を孕んで、浴室の壁に反響する。


「あはははははははっっっ!!!!」


怖い。狂ってる。でも……私が止めないと。お母さんには私しかいないんだから。


「お母さんっっ!!!!」


私は我を忘れて叫び、掴みかかった。狂ったように笑うお母さんの手から、必死で包丁をもぎ取る。お母さんは、何の抵抗もしなかった。ただ、おもちゃを奪われた子供のように、ぽかんとした顔をしている。


そして、何かを思いついたように、ペタペタと、血のついた足跡を床に残しながら、玄関へとふらふらと歩き出した。


私は呆然とその背中を見ていたが、ハッと我に返って追いかけた。


「どこ行くの!? 待って!」


お母さんが玄関のドアを勢いよく押し開けると、夜の冷たい風が、一気に室内に流れ込んできた。


「お母さん、駄目っ!」


私はその手を握りしめ、止めようとした。


その瞬間、お母さんが振り返る。


はしゃぐような、見たこともない無邪気な笑顔。


お母さんは裸足のままで、夜の外廊下へと駆け出していった。私の手を、信じられない力で振り払って。


「待って! お母さん!!」


私も靴を履く暇もなく、夜風の吹き荒れる外廊下へと飛び出した。


ここは、17階。


外廊下の向こうには、息をのむほど美しい、都会の夜景が広がっている。


大人の胸からみぞおちほどの高さの、白いコンクリートの外壁。


お母さんは、迷いもなくその柵へと足をかけ、乗り越えた。


身体が、夜空へ傾く。


「やめてぇぇぇぇっ!!」


叫びながら、私は地面を蹴った。


柵の上から限界まで両腕を伸ばして、今まさに落ちていくお母さんの手を、死に物狂いで掴み取った。


けれど次の瞬間、大人の全体重が容赦なく私の両腕を引っ張る。壁に押し付けられていたお腹がずるりと滑り、身体ごと外廊下の外へと引きずり出された。


「っ……!」


落ちる、と思った瞬間、私はがむしゃらに片腕を壁の縁へと引っ掛けた。


下へと伸ばしたもう片方の手で、お母さんの手を握りしめる。腕が引き抜かれそうなほどの激痛が走った。


突風が私たちの髪を激しく揺らす。


その時、お母さんの目が、正気を取り戻した。


その目から、涙が溢れ出る。


「ゆら……っ!」


指先が、私の手を剥がそうとする。


私は泣きながら、お母さんの手を、ちぎれんばかりの力で握り直す。


けれど、大人の全体重を支えきれるはずもなかった。壁に引っかけていた腕が、容赦なくずり落ちていく。


お母さんの顔から血の気が引いた。


「いや……」


震える唇がそう漏らした。


「いやぁぁぁっ!! ゆらぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」


重力に引かれ、私たちは、あの綺麗な夜景の中へと、吸い込まれるように墜ちていった。


凄まじい風の音が、耳元を轟々と吹き抜けていく。


遠ざかる夜空。


地面に叩きつけられた衝撃。


静寂。


血の海の真ん中で、液晶が粉々に割れたスマホが、チカチカと虚しく光っている。


未読の画面の中で、お祝いの色とりどりのデジタル風船が、ゆっとりと舞い上がっていった。

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