happy birthday
ピピッ、ピピッ、ピピッ。
朝のアラームと同時にスマホの画面に目を落とすと、スケジュールアプリがポップアップ通知を弾き出していた。
画面の明かりが、まだ眠い目に鋭く刺さる。私はのそりとベッドから起き上がり、洗面台に向かった。冷たい水で顔を洗い、鏡に映る冴えない顔に、薄くメイクを施す。パフを叩きながら、ふっと昔のことを思い出した。
あれは、幼稚園のトウシューズもまだ持たせてもらえないような、小さな子供向けのバレエ教室の帰り道だった。
レッスンが終わって、みんなで駅へと向かう夕暮れの道。女の子たちがワチャワチャと騒いでいた。
「今度、〇〇ちゃんの家でお泊まり会するんだよー」
「お菓子いっぱい買うんだって!」
「ゆらちゃんも来てよ!一緒に遊ぼう?」
「そうだよ、ゆらちゃんいつもすぐ帰っちゃうもんね」
みんなに誘われたことが、胸が痛くなるほど嬉しかった。私はスキップするような足取りで、一歩後ろを歩いていたお母さんのもとへ駆け寄った。
「お泊まり会に行ってもいい?」
けれど、お母さんの顔は一瞬で強張った。
「外は危ないから。ママと一緒じゃないと、まだ駄目」
……また、だ。
視界がうるむのを必死で堪え、喉の奥をぎゅっと閉めながら、「……分かった」と私は笑ってみせた。
するとお母さんは、今にも泣き出しそうな、本当に申し訳なさそうな顔で私の頭を撫でた。
「ごめんね、ゆら。いつも我慢できて、本当に偉いね……」
「……よし」
回想を振り切るように、私は鏡に向かって口角をきゅっと上げた。
学校用の、誰からも嫌われないための、完璧に「愛想のいい可愛い女の子」の笑顔。それを仮面のように顔に張り付けて、洗面所を出た。
中学の時の三者面談だってそうだった。
お母さんは、約束の時間を少し過ぎて教室にやってきた。息を切らせていて、髪は少し乱れている。
「すみません、遅れました」
隣に座った瞬間、ツンと鼻を突く匂いがした。……お母さん、お酒の匂いがする。昼間なのに。私は手汗をスカートで握りしめた。
幸い、先生はそんなことに気づかない様子で、私を褒めちぎった。
「羽澄さんは本当に凄くいい子ですよ。目立つタイプではないですが、クラスメイトの皆さん全員に好かれています」
するとお母さんは自慢げに、でもどこか困ったように笑ってこう言ったのだ。
「この子、本当はもの凄く引っ込み思案なんです。家では友達と遊びたいなんて全然言わなくて。ねえ、ゆら?」
「……うん。お母さんと一緒にいるのが楽しいから」
私は、お母さんの言葉に自分の心を無理やり合わせた。ここで否定して、お母さんの機嫌を損ねたくなかった。先生の前で変な空気になるのも嫌だった。学校だけが、私の外の世界のすべてだったから。
回想から引き戻され、私はリビングへと足を進める。
床に転がっている空き缶を、踏まないように、音を立てないように避けて歩く。ソファには、だらしなく横たわって眠るお母さんの姿があった。昔の、あの綺麗だった頃の面影は、酒と煙草の匂いに塗りつぶされている。
朝ごはんは、食べる気もしない。
机の上に置きっぱなしになっていた袋パンを一つ、お昼用にとカバンに放り込んだ。
昔は、違った。
まだ私たちが、あのタワーマンションの上層階に住んでいた頃。
部屋の中はいつも、夜景の光と、お母さんのつけている高い香水のいい匂いで満たされていた。
「ゆら、見てごらん。綺麗だね」
お母さんは私を優しく抱き上げて、大きな窓の向こうに広がる、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景を見せてくれた。
「ゆらも大きくなったら、絶対に綺麗になるよ。ママに似て、すっごく可愛くなる」
ピンポーン。
不意に鳴り響いたインターホンの音が、広いリビングに冷たく木霊した。
お母さんは私をそっと床に下ろすと、視線を玄関の方角に向けたまま、私の肩に両手を回した。
「ゆら、絶対に玄関へ来ちゃ駄目」
小さな、けれど拒絶を許さない声だった。
「え?」
「絶対」
あの頃のお母さんは、世界の誰よりも美しくて、優しかった。
「……今日、ゴミの日か」
現実の、少し古びて薄暗いマンションのLDで、私はゴミ袋をまとめる。カサカサと音が響いた瞬間、ソファのお母さんが寝返りを打った。
「……んぅ……しゅーくん……」
少し甘ったるい、聞いたことのない男の名前。
私は小さくため息をつく。知らない名前。そもそも、私は自分の父親の名前すら知らない。この家にはいつも、私の知らない男の気配が、空気のように、泥のように漂っている。
「……いってきます」
小さくそれだけ呟いて、私は家を出た。
重いドアを押してマンションの外へ出る。しゃがんでローファーを履き直していると、背後からカバンをポンッと叩かれた。
「ゆらー、おはよっ!」
「おはよー、ゆら」
振り返ると、みうとひなが立っていた。ひなは少し目が腫れていて、元気がない。先週、他校の彼氏にフラれたばかりなのだ。
「あ、おはよ、二人とも」
「ねえ聞いてよ、ひな、まだ引きずっててさー」
みうがケラケラと笑う。私はちょっと気まずくて、声を落とした。
「……大丈夫? ひな」
「大丈夫なわけないじゃん……。あーあ、ゆらはいいよね。いつも可愛くて、悩みとかなさそうでさ」
ひなが自嘲気味に呟く。私は慌てて首を振った。
「そんなことないよ! 私だって毎日必死だし……」
「はいはい、謙遜はお腹いっぱい!」
みうが二人の間に割って入る。私はそれ以上何も言えなくなって、あいまいに笑うしかなかった。
昼休み。
「ゆら、ご飯食べよ!」
みうとひなが私の席に机をくっつけてくる。3人で食べようと、購買のパンを取り出したその時。
「ねえねえ、私たちも入れてー!」
周りの女子たちが、次々と机を寄せてきた。あっという間に私の席の周りは、7人ほどの女子の輪ができる。
「いーよー! 混ざりなよ!」とみうがいつもの軽いノリで輪を広げる。
私はその勢いから一歩遅れないように、あわてて「あ、うん! 食べよ!」と精一杯の笑顔を作った。
「ゆら、いっつもパンじゃない? お弁当持ってこないの?」
女子の一人が私の手元を見て言った。胸の奥がキュッと縮む。
「うん。私、このパン好きなんだよね。手軽だし!」
何でもない風を装って、菓子パンを口に運んだ。
「てかさー」
みうがニヤニヤしながら、私に顔を近づけてくる。
「ゆら、さっき一ノ瀬くんに話しかけられてたじゃん? あれ絶対、気があるって。間違いない」
「はぁ!? また!?」
ひなが声を尖らせて叫んだ。
「ひな、ちょっと声大きいって……!」
「いや、だってずるいじゃん! うちがフラれてボロボロの時に、こういうの、ゆらばっかり。羨ましー!」
「あのトナカイの事件とかねー」
みうがにやけた顔のまま、追い打ちをかける。周りの女子たちが「なにそれ!」「教えて!」と身を乗り出した。
「もう、みう、本当にやめてってば……!」
私は慌ててひなの顔色を窺った。
「いや、これ見てよ。マジで傑作だから」
みうがスマホの画面をみんなに見せる。
そこに写っていたのは、トナカイの着ぐるみを着て、角付きのカチューシャをつけた私だった。その周りを、サンタ帽をかぶった、見知らぬ大学生数人が半円状に囲んでいる。
去年のクリスマス、断れずに引き受けた短期のケーキ売りのバイトでの一コマだった。
「なにこれやばい! ww」
「しかもこの時、ゆら半泣きだったからね」
「だって、知らない男の人たちが来て、怖かったし……」
私がそう抗議すると、ひなは呆れたように言った。
「最終的にサンタ同士でさ、『いや、俺が先に見つけたんで』みたいに揉め始めてんの。クリスマスに何やってんのって感じでマジでウケるよね」
「笑い事じゃないってば、もう……」
放課後。駅のホームは、部活帰りの高校生や会社員で混み合っていた。
「カラオケ、先予約した?」
「今日こそターキー出すわ」
「てか、またひなが変な踊りするじゃん」
「しないし! 失礼な! 今日はいっぱい歌って忘れるの!」
みうやひな、いつものメンバーが騒ぎながら、同じ改札の方へ歩いていく。
私は、その輪から一歩遅れて、反対側のホームへと足を向けた。
「ゆら、後で動画送るねー!」
みうが振り返って手を振る。
「うん、ありがと。みんな、楽しんできてね」
私は手を振り返した。
「今度はゆらも一緒ね!」
ひなが両手で大きくハートマークを作ってみせ、みうがそれを見て笑っている。
みんなが遠ざかっていく。
……高校になって、お母さんからの外出制限はなくなった。
なのに、私は自分から、みんなと遊ぶのを断るようになっていた。理由は、分かっている。お母さんを、一人で家に放っておけなかったからだ。
最近のお母さんは、ずっと「壊れかけ」のまま、グラグラと揺れていた。
ソファに座ったまま、テレビもつけず、煙草だけを灰にしていたり。
話しかけても返事がなくて、寝ているのかと思ったら、ぼんやりと天井を見つめていたり。
急に泣き崩れて、私に「ごめんね、ゆら、ごめんね……」と、何度も何度も謝ってきたり。
そんなことが、中学に上がる少し前から、だんだんと増えていった。私が支えなきゃ。私がいい子でいなきゃ。お母さんが、完全に壊れてしまわないように。
私は電車に乗り、お母さんへの誕生日プレゼントを受け取りに、少し離れた街の百貨店へと向かった。
プレゼントは、香水だ。
お母さんが昔つけていた、あの優しくて、綺麗で、大好きだった匂い。今の、お酒と煙草の匂いにまみれたお母さんじゃなくて、あの頃のお母さんに戻ってほしくて、人気のそれを何日も前から予約していたのだ。
けれど、お店に行くと、店員さんが申し訳なさそうに頭を下げた。
「大変申し訳ありません……入荷が少し遅れておりまして。あと一時間ほどで、こちらに届く予定なのですが……」
「あ、大丈夫です。待ちます」
私は無理に笑顔を作って、お店の近くにある広場のベンチに座った。
スマホを開き、お母さんにLINEを送る。
『プレゼント買うのに、ちょっと帰り遅くなるね』
直接「おめでとう」と言うのは帰ってからの楽しみにしたくて、言葉の代わりに、お祝いの気持ちを込めた風船のスタンプを一つ、おまけのように添えた。
……なかなか、既読がつかない。
画面を見つめながら、まだ寝てるのかな、と思う。
チカッ、と通知が光った。お母さんからではなく、みうからだった。
テーブルの上に散らばった、カラオケのポテトやピザの写真。大きすぎる笑い声が響く、ブレブレの短い動画。
私の知らない、楽しそうな世界の断片が、何個も、何個も送られてくる。
……羨ましい。
今度誘われたら、一回くらい行ってみようかな。
香水をようやく受け取った頃には、すっかり外は暗くなっていた。
急いで電車に飛び乗り、地元の駅のケーキ屋で、ショートケーキを2つ買った。お母さんと私の分。
夜道を早足で歩き、マンションのエレベーターを上がる。
家の玄関を開けた瞬間。
……あった。
私のものではない、お母さんのものでもない、見知らぬ男の靴。
「今日も、来てるんだ……」
リビングのテーブルに、買ってきたケーキの箱と、香水の袋を置く。
「ママ? 帰ったよー」
声をかけるが、返事はない。
ただ、浴室の方から、ザーッという激しいシャワーの音が聞こえてきた。なんだ、お風呂に入ってるのか。
私はリビングの椅子に座り、お母さんが出てくるのを待った。
けれど、10分経っても、20分経っても、シャワーの音は鳴り止まない。それどころか、人が動くような物音ひとつ、響いてこないのだ。
何か、おかしい。
胸がざわつき、私は浴室のドアの前に立った。
「ママ? 入ってるの? ママー?」
声を張り上げても、返事はない。ただ、激しい水の音だけ。
心臓の鼓動が、ドクドクと速くなる。恐怖に急き立てられるようにして、私は浴室のドアをガラッと開け、一歩中に入った。
「……?」
足の裏に、ねっとりとした、ぬるい感触が触れた。違和感に視線を下に落とす。
換気扇のライトに照らされた床一面に、どす黒い赤が広がっている。容赦なく降り注ぐシャワーの水と混ざり合い、ピンク色の濁流となって、排水溝へと吸い込まれていく。
排水溝のフタに引っかかるようにして、何かが転がっていた。
赤黒く、原型を失ったもの。
「そんなわけがない」と頭の中で必死に言い訳を探すより早く、私の視線は勝手にその先へと泳いでいく。
シャワーの霧の向こう、湯気の中で、裸の男がうつ伏せに倒れていた。身体のあちこちに深い傷が走り、目を背けたくなるほど無残な状態だった。塊の正体を理解した瞬間、肺の空気がすべて凍りつく。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
喉が裂けるかと思うほどの悲鳴が、私の口から飛び出した。恐怖で全身の毛穴が開く。
すると、私の悲鳴に反応するように、浴槽の陰から、お母さんがぬっと姿を現した。
「ゆら?」
着古したグレーのスウェットは、胸元から袖口までどす黒く濡れそぼり、皮膚にじっとりと張り付いている。その右手には、べっとりと赤黒い液体が付着した包丁を握りしめている。
その顔は、少し笑っていた。
「パパ、帰ってきたよ」
「……お、お母さん……?」
私はガタガタと全身を震わせながら、一歩、後ろに下がった。
「な、なにこれ……。え、なに、してるの……?」
お母さんは、まるで子供がいたずらを見つかった時のような顔で、くすくすと笑った。
「あは、あはは……っ」
「これ、お母さんがやったの!? ねぇ!! 人、死んでる!!」
笑い声は、だんだんと大きくなっていく。狂気を孕んで、浴室の壁に反響する。
「あはははははははっっっ!!!!」
怖い。狂ってる。でも……私が止めないと。お母さんには私しかいないんだから。
「お母さんっっ!!!!」
私は我を忘れて叫び、掴みかかった。狂ったように笑うお母さんの手から、必死で包丁をもぎ取る。お母さんは、何の抵抗もしなかった。ただ、おもちゃを奪われた子供のように、ぽかんとした顔をしている。
そして、何かを思いついたように、ペタペタと、血のついた足跡を床に残しながら、玄関へとふらふらと歩き出した。
私は呆然とその背中を見ていたが、ハッと我に返って追いかけた。
「どこ行くの!? 待って!」
お母さんが玄関のドアを勢いよく押し開けると、夜の冷たい風が、一気に室内に流れ込んできた。
「お母さん、駄目っ!」
私はその手を握りしめ、止めようとした。
その瞬間、お母さんが振り返る。
はしゃぐような、見たこともない無邪気な笑顔。
お母さんは裸足のままで、夜の外廊下へと駆け出していった。私の手を、信じられない力で振り払って。
「待って! お母さん!!」
私も靴を履く暇もなく、夜風の吹き荒れる外廊下へと飛び出した。
ここは、17階。
外廊下の向こうには、息をのむほど美しい、都会の夜景が広がっている。
大人の胸からみぞおちほどの高さの、白いコンクリートの外壁。
お母さんは、迷いもなくその柵へと足をかけ、乗り越えた。
身体が、夜空へ傾く。
「やめてぇぇぇぇっ!!」
叫びながら、私は地面を蹴った。
柵の上から限界まで両腕を伸ばして、今まさに落ちていくお母さんの手を、死に物狂いで掴み取った。
けれど次の瞬間、大人の全体重が容赦なく私の両腕を引っ張る。壁に押し付けられていたお腹がずるりと滑り、身体ごと外廊下の外へと引きずり出された。
「っ……!」
落ちる、と思った瞬間、私はがむしゃらに片腕を壁の縁へと引っ掛けた。
下へと伸ばしたもう片方の手で、お母さんの手を握りしめる。腕が引き抜かれそうなほどの激痛が走った。
突風が私たちの髪を激しく揺らす。
その時、お母さんの目が、正気を取り戻した。
その目から、涙が溢れ出る。
「ゆら……っ!」
指先が、私の手を剥がそうとする。
私は泣きながら、お母さんの手を、ちぎれんばかりの力で握り直す。
けれど、大人の全体重を支えきれるはずもなかった。壁に引っかけていた腕が、容赦なくずり落ちていく。
お母さんの顔から血の気が引いた。
「いや……」
震える唇がそう漏らした。
「いやぁぁぁっ!! ゆらぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
重力に引かれ、私たちは、あの綺麗な夜景の中へと、吸い込まれるように墜ちていった。
凄まじい風の音が、耳元を轟々と吹き抜けていく。
遠ざかる夜空。
地面に叩きつけられた衝撃。
静寂。
血の海の真ん中で、液晶が粉々に割れたスマホが、チカチカと虚しく光っている。
未読の画面の中で、お祝いの色とりどりのデジタル風船が、ゆっとりと舞い上がっていった。




