魔力なし令嬢は狂犬の飼い主と呼ばれた。なった覚えはありませんが。
公爵家の娘アネッテはしばしば、狂犬の飼い主と呼ばれた。
同時に、名門家のお荷物とも。
「アネッテ、おれは何も悪いことはしていないだろう? 褒められることこそあれ」
いつもの場所。学院の隅にあるベンチに座り顔を覆うアネッテに、エーミルはにこにこと距離を詰めてくる。昔からそばにいる彼——幼馴染と言っても良いだろうか——の頬にある傷跡を、軽く指で弾いた。 溜息と共に。
「エーミル、あなた、またご令嬢に暴言を吐いたのですって?」
「暴言? 吐いたのはあっちだ」
おれのは正論、とアネッテの指を取り、弾いた傷跡を撫でるように自分の頬へと押し付ける。より近くなった顔に少しどぎまぎしたものの、彼に悪びれる様子はない。
簡単に吐き捨てたエーミルだが、伝わってくる体温はアネッテの指先をじんわりと温めた。
「きみができないことは何もないのに」
真っ直ぐに見つめてくる群青の瞳が有無を言わさない。 本気でそう思っているだろうことに、眩暈がした。
魔法こそ至高。その考えが根付いたこの国では、魔力の多い家系が高位貴族として名を馳せた。特に、王家に次ぐと言われる公爵家は、名門家とも呼ばれ、王都にある魔法学院では常にトップの成績を収めてきた。
リリエンヴェール公爵家に生まれたアネッテもまた高い魔力の持ち主であるはずだったが。
「何言ってるの、私にはできないことばかりよ。——だって魔力がないもの」
正確には、貴族の末端にすら及ばないほどの魔力量だ。
だからアネッテは、名門家のお荷物と呼ばれる。そう陰口を叩かれていることも知っていた。
「何を言ってる? きみが望めば、おれがすべて叶えてやるよ。できないことなんか何にもない。それなのにやつら、いつまでも理解できないみたいだからさ」
昔は、アネッテにも魔力がそれなりにあったらしいのだ。エーミルの右頬の傷痕は、アネッテが幼い頃に魔法の暴走で付けてしまったものだという。
ただ、今はもう、身体の中で魔力はほとんど感じられない。
そんなアネッテの元へ、近づいてくるのはエーミルだけだ。
「……ちょっと反省してる? 私が一人なのはあなたのせいでもあるんだから!」
「え、おれが何かした?」
エーミルは公爵家が雇ったアネッテの護衛だった。
といっても昔から付き合いのある家の子で——公爵である父の護衛をしていたという家臣の子だ。年齢はアネッテの二つ上だが、学院への入学には大まかな年齢制限があるだけ。同時に入学試験を受けて無事同級生である。
強大な魔力にて他を制した彼はトップの成績で入学し、その後も独走している。
鼻筋は高く、整いすぎた顔立ちはもちろんのこと、後ろで軽く縛った長い黒髪さえも艶やかで。
見目麗しい姿に圧倒的な魔術、それに加え一見柔和に見える眼差しは、誰の目から見ても好印象で、第一印象はいつも良い。
だからこそ余計に、右頬が目についた。そこにある指三本分ほどの古い傷が、彼を印象付ける。
そんなエーミルは、護衛の仕事以上に過剰にアネッテを構う。
「そんな、何にも知りませんみたいな顔やめてったら! あなたがすぐ、私の機嫌を損ねるなんてよくわからない理由で周りに魔法を使いまくるから!」
「それが何か悪い?」
遠くで、見知らぬ生徒が「へぶしっ」と何もないところに顔をぶつけ、蹲った。エーミルの結界である。
「もちろん、私の魔力不足にも原因かあるとは思うわ。お荷物には関わりたくない人だっているでしょうし。でも、絶対怖がられてるのよ! だから誰も私に近づいてきてくれないの!」
「おかしなやつらなんか寄ってこなくていいだろう。おれがいるんだし」
見知らぬ生徒は、蹲ったまま、ふわりと浮いて遠くへ飛ばされた。行く先は決まって学院の裏にある山の中。結界にぶつかったが最後、乱暴に投げ飛ばされるその場所は、狂犬のゴミ箱と呼ばれている。が、友達のいないアネッテには知らないことだった。
「う、まあ、エーミルもいなくなったら、話す相手もいなくなっちゃうんだけど」
「だろう?」
機嫌が良くなったエーミルによって、今回の犠牲者は運よく——本当に運よく、ゴミ箱の中でふわりと着地した。
「でも、お父様も、エーミルのことをやけに気に入っているのよね。天才だからかしら」
「……ほう」
もしこの場に誰かがいれば、エーミルのお尻に揺れる尻尾が見えていた。
無表情だと評される冷たい表情も、綻んでいた。そんな顔も、本人の結界によって誰にも見られることはない。
「やっぱり、心配しているのかしらね。魔力のない私のことを」
一瞬で項垂れる尻尾が見えるようだった。
誰にもわかりやすいそれに、アネッテだけが気づかない。
「なあ、その魔力の話、そんなに気になるか? アネッテだって、天才だろうに」
「魔力がなければどんなに座学ができたって、お荷物には変わりないもの」
アネッテの描く魔法陣は完璧で美しい。だからこそ学院に入学できた。
その魔法陣はある程度の魔力持ちであれば使えるけれども——アネッテ自身が使うには、アネッテの持つ魔力が少なすぎた。平民とそう変わらない魔力量ではいかに魔法陣が優秀だろうと発動できない。
アネッテが欠落しているというのは、誰もが認める事実だ。
「これでも、あなたのことも心配しているんだから。いつまでもこんな私のそばで、私のために怒らなくたって」
最近の出来事を思い返した。
いつもの通りに、指を折る。
「えっと。この前はあれでしょう。すれ違う時に目が合ったのが不快だったとか」
「ああ、おれの目にはアネッテしか入れたくないんだ」
「……狭い通路で、人を突き飛ばしたりだとか!」
「ん、アネッテの行手を阻むなんて許せないな」
腕を組んだまま、エーミルは涼しげな顔で頷いた。
「……その前にも、私とエーミルの噂をしていた生徒をどこかへ飛ばしたとか」
「魔力の有無で人を評価するのがいかにも低俗だと思ってな。何のための魔力石だと思ってる」
「…………あとは、このベンチの周りに、見えない結界を張って通路を妨害している、って噂もあるみたいなのよ!?」
「ああ、おれとアネッテの時間を邪魔されたくないからな。ハハッ今後近づいてくる気も起きないように容赦なく飛ばすようにしてある。駄目だったか?」
通りすがりにかろうじて聞き取れた噂話を口にしてみれば、あっさりと頷いてくれる。
大事にされていると錯覚してしまいそうな——実際大事にはされているのだろうが——まるで自分が特別だとでもいうようなエーミルの態度に、アネッテの鼓動はいつも掻き乱される。
アネッテは落ち着かせるべく、長い長い溜息を吐いた。
まさか本当に、本当だとは思わなかった。
こんなことまで、私のためにしないでほしいのに。返してあげられるかわからないほど、私に与えないでほしいのに。
「…………告白も、いくつもあったでしょう。女の子から」
エーミルが片眉を上げてニヤリと笑う。何とも嬉しそうに頬を緩めた。
「なんだ嫉妬か? 安心しろ、アネッテしか興味ないし。覚えてもない」
「っだからあなたは! 人の心がないって言われるのよ! もう少し、私のことだけじゃなくて、他の人のことも考えられるようになりなさいったら!」
記念告白、なんてものもあるらしいが、本気の告白だってあったはずだ。
その中には、ちゃんと魔力もあって優秀で、由緒ある家柄の女性だっていただろう。
例えば、その女性と結婚、なんてことになれば、エーミルにとっても良いのではなないだろうか。
ただ、時折、浮かぶそんな考えはエーミルが毎回打ち砕いてくる。
「知ってる? あなた狂犬って言われてるのよ」
「知ってるさ。その手綱を握れるのはアネッテだけだ、とも」
いつだってどんな時だって自信満々なエーミルに、アネッテは頬を膨らませた。
「無理しなくていいのに」
「無理なんかしてない。何回言えばわかってくれるんだ? おれはアネッテと話してる時しか楽しくないし、アネッテといる時しかおれじゃないわけ。アネッテのためならどこにいたってすぐに駆けつけるし、アネッテを脅かす奴がいれば速攻排除する。アネッテといる時間を大切にしたいし、なんならアネッテといる時間をもっと増やしたいとも思ってる。アネッテのためならどんな無茶だってするし、どんなこともやるさ。おれのために」
そこまで言われてしまうから、アネッテはいつも押し黙る。
まるで自分が想われているように思えて、勘違いしそうになって困るからだ。
彼はただ、護衛としての義務感でそばにいてくれるだけ。アネッテが頬を傷つけてしまったから、公爵令嬢の護衛という形で、父が責任を取ったのだ。
そう、彼は職務を全うしているだけだ。
ただ、権利があるだけでいつ辞めても構わないはずなのに、いまだエーミルはアネッテのそばにいる。いてくれる。
そっぽを向いたアネッテの横で、エーミルが愛おしそうに目を細めた。
もしここに誰か人がいれば、全てエーミルの手の内だと教えてくれたかもしれないが、やはりアネッテは一人なのだった。
***
「——その傷。いつまで経っても治らないな?」
「ああ」
アネッテを公爵家に送り届けた後、エーミルは学院の研究室に戻っていた。
いつもの日課。欠かせない、魔法の研究だ。
同室のフリューだけがその努力を知っていた。
「アネッテ嬢はご存知ないのかな? 魔力が高ければ高いほど、傷なんてすぐ治ってしまうものなんだが」
「ん、言ってない」
あっさりと答えるエーミルにフリューは呆れた顔をする。
「で? その頬、大した傷じゃあないだろう。なんで治らない?」
「保存魔法をかけてる。大事だからな」
フリューは片眉をぐいっと上げて、責めるような目を向けた。
「はああああ〜〜。こんなやつに好かれるなんて可哀想なアネッテ嬢……」
「結婚したら、傷は消すさ。傷持ちの男と結婚したなんて言わせない」
「これだよ。可哀想なアネッテ嬢……」
撫でた傷はすでに痕になっている。
随分と前、物心がつく頃。アネッテにもらったプレゼントだ。
あのときの魔力の輝きを、ずっと忘れられない。
本人は忘れてしまったが、アネッテはもともと強大な魔力持ちだ。
エーミルの真似をして使った魔法が、制御できずに暴走した。当時、公爵家では大きな事件として扱われ、敷かれた箝口令は今なお現存だ。
公爵がエーミルを気にしている、というのもそれが理由だろう。
エーミルの綺麗な顔についた古い怪我の痕はその時のもの。思わずアネッテを庇った自分の判断を、エーミルは今も誇っている。
そして、エーミルの頬から流れた血を見て泣いたアネッテを、そのこぼれ落ちる真珠を、この時、エーミルは目に焼き付けてしまった。強烈に。
これほど美しいと思ったものも、可愛いと思ったものも……誰にも見せたくないと、大事にしたいと思ったこともこれが最初。そして最後になる。
「いいや。世界で一番幸せなアネッテになるのさ。おれがそう決めたからな」
アネッテから傷とともに譲り受けた魔力は、事故のようなもの。だからこそ、本来の持ち主アネッテのために使うのだ。
アネッテを馬鹿にする人間を排除して、あらゆる危険からも守って匿って。
——ずっと、自分がつけた傷を気にして、後ろめたさでおれに縛られて。
唖然と眉を顰めたまま凍りつく親友の顔を一瞥しつつ、エーミルは頬の傷を、まるでガラス細工を愛でるように、そっと撫でる。
その顔がうっとりとして見えるのはフリューの気のせいではない。
「……その傷、消えた方が、アネッテ嬢は幸せになるんじゃないのかねえ。もしかしたら魔力も戻るかもだろう?」
「おい。言葉には気をつけろ。箝口令は解かれていない。消されるぞ、おれにな」
「おいおい、教えてくれたのはお前なのにか?」
「そりゃあもちろん。教えたのはその方が都合が良かったからだ、そのための研究だからな。だが、もし、おれの立場が悪くなるようなら、すぐにでも? できないと思うか?」
冷え切った視線は本気の目。
やれやれといった様子で、フリューは両手を上げた。
「……今、この学院にお前に敵うやつはいないだろ。はあぁぁ、本当に可哀想なアネッテ嬢」
「違う。幸せなアネッテだよ」
真っ黒な夜空に星が煌めいて、こうして夜が更けていく。
今晩もまた、部屋の明かりが消えたのは、随分と空が明るくなった頃だった。
***
エーミルは間違いなく天才だ。
魔力の使い方を習い始める七歳よりも早く、独学で力を使い始めては周囲を驚かせ。
正式に教えられれば、あっという間に先生を追い抜いた。
元々教えられてきた魔力の流れ、使い方を否定して、誰でも使えるようにと魔力の代わりになる魔力石を開発したのは、エーミルの功績だった。
今は、込められる魔力量をもっと増やすべく、研究に勤しんでいるらしい。
もちろん彼自身、持っている魔力量が桁違いなのも、人目を引く要因だ。
そんなエーミルは、ずっとアネッテのそばにいる。
例えば授業中、さらには学院と屋敷の移動中、そして授業の合間のお昼休憩も。
食堂で提供される本日の日替わりメニュー、仔羊背肉のハーブ包み焼き黒トリュフのソース添えを味わいながら、アネッテはちらりと遠くに目をやった。
——嫌な魔力の流れを感じ取った。
「……止めた方がいいんじゃない?」
「大丈夫だ。何があろうとアネッテに被害はないさ。おれのそばなら」
アネッテは魔力が少ない代わりに危機察知が得意で、自分を守ろうとするのか、悪意のある魔法には敏感に反応した。
エーミルはどこ吹く風だ。
「じゃなくて! 何か揉め事があっても、先生たちは休み時間に手は出さないでしょ!?」
「最近の流行りだそうだな。公私はきっちり、休み時間は自分たちも休むと言い張ってるんだって? 何に触発されたか働き方がどうのと言ってるらしいが、別にいいだろ、どうだって」
「そうじゃないの! だから代わりに止める人が必要なんじゃないのってこと!」
「アネッテにもおれにも関係ないのに?」
心底わからない様子で首を捻るエーミルを、説得するのは諦めることにする。
少し先で生徒同士が言い争う声がした。魔力が練られる——互いに攻撃するための魔法。
「もう! 発動はしてよね」
ポケットからメモ帳とペンを取り出して、走り描く。
少し震えたような線で描かれた二重の丸。その上にこれまた波打つ線の三角が大きく載せられた。
「これで、たぶん使えると思うから」
アネッテはそのページを破ってエーミルに押し付けた。
受け取ったエーミルは目を輝かせた。空に掲げて魔法陣を、その凄さを堪能する。
「ハッ、やっぱアネッテ天才! こんな虫が這ったような線を魔法文字の代わりにして、魔法陣を簡略化するんだから。防護壁に威力縮小、発動者への精神攻撃? ああ、冷静にするためにか? なんでこれで発動できるんだ。これだからアネッテのそばから離れられない」
「早く!」
はいはい、とエーミルは魔法陣に魔力を流す。
正確なコントロールで放たれた魔法は、真っ直ぐに揉めている生徒の元へ飛んでいく。
光が届いたその瞬間、小さな破裂音がした。ただそれだけ。
他に被害は一切ない。
落ち着いた生徒はしでかそうとした事態に焦り、周囲で止めようとしていた生徒たちもまた安堵の吐息を吐いた。
その後には、エーミルとアネッテを見る。
尊敬と畏怖が混ざる目で、さすがだと遠巻きに褒め囃す人だかりを、一切無視して、エーミルの瞳はアネッテだけを映していた。
「アネッテ! どうだ?」
「相変わらずさすがねえ。あんな魔法陣を発動できるなんて」
「アネッテの魔法陣が完璧で美しいからな」
「……知ってるでしょ、あんな簡易的なの、発動するのは難しいのよ。先生だってできる人の方が少数で」
「おれがアネッテの魔法陣を使えないわけないだろう? 褒めてもいいぞ」
絶大な力を誇る狂犬と、手綱を握る令嬢のタッグをこの場にいた生徒たちは目に焼き付けた。
狂犬の飼い主は伊達じゃないのね、と使用後の消えかけた魔法陣の紙切れを大事そうに仕舞うエーミルの姿とともに、また一つ噂を広めることになる。
「時折流れてくるけど、嘘だと思ってた。……アネッテ嬢が天才だって噂、本当なのかも」
視線がアネッテにも注がれていることを知ると、エーミルはちぃっと舌打ちをして、すかさずローブを翻した。
視界から隠れるようにアネッテを覆うと、エーミルの腕輪の上で、彫られた魔法陣が光っていた。
次の瞬間、その場から二人の姿が消える。
転移先は、馴染み深い強力な結界を張ったベンチだった。
「何、急にどうしたの」
「いや別に、あの場所が気に入らなくて。あ、そうそう、もう少しで、魔力石の蓄積魔力量を上げられそうなんだ。その話もしたくて」
突然の移動のことも忘れて、アネッテは手を叩いた。凄いじゃない、と喜ぶ顔は、エーミルが見たかったものだ。
「そうなの!? 遅くまで研究してるものね。でも無茶はしないでね?」
「無茶はしてないが……そうしたらアネッテにおれの魔力を分け与えられる。もし、魔力が自在に使えるようになったら、アネッテ、おれをお払い箱にするか? 護衛がいらなくなるか?」
エーミルを護衛にしたのは、傷の償いをするためと、魔力のないアネッテを父が心配したからだ。
強大な魔力はアネッテを守ってくれると思ったのだろう。
「魔力石だって、使えば使うだけ、蓄積量が減るんでしょう。エーミルがいてくれないと困る場面はあると思うわ」
少し考えて首を横に振れば、エーミルは頬を綻ばせた。
そんな顔を、自分だけが見られる。アネッテはドキッとした胸をそっと押さえた。まだ、この気持ちは知られるわけにはいかないけれど。
「じゃあ、魔力があったら、一番に何をしたいんだ」
そう聞かれて、即答した。決まっていた。
「もちろん、その傷を治すわ」
過去のアネッテがつけた傷。綺麗な顔の右頬に目立つその痕。
アネッテの罪悪感の証で、エーミルを縛るその傷痕を。
もし、綺麗に消えたなら、ようやく隣に立てる。何のわだかまりもなく、一人の令嬢として。
そうすればようやく——。
エーミルは慌てた顔で、右頬を両手で押さえた。
「させないぞ、絶対に! これはおれの大事な、おれのもので」
「私のせいでついた傷痕だもの、絶対に消すわ!」
「な……! きみには治せない。治させない。何のために、努力していると思ってるんだ。全部、アネッテのため……いや、おれのために!」
意固地なエーミルにアネッテはイラッとした。
私のためだと言うのなら、黙って傷を治させてほしい。
「嫌よ。それがあったら、ただ責任を取るだけみたいじゃない」
「は?」
アネッテの手はエーミルの右頬に伸びる。
ああ、だめ。止まらない。まだ言っては駄目なのに。
「真剣で本気なのに、信じてもらえないかもしれないでしょ。好きよ。結婚するなら、あなただと思ってる。……私を顔に傷がある男と結婚させるつもり?」
「え、え?」
エーミルは目を丸くして、みっともなく口を開く。
ぼんやりと無意識のまま、押さえていた右頬の傷に、爪を立てた。
「……こんな傷……」
それは、傷痕を宝物のように扱うエーミルにとって、初めてのことだった。
「ちょっと何してるの! まだ私には治せないんだからやめてったら」
「ああ、うん。……アネッテが……アネッテと? 結婚……? おれと」
「やめてって! まだ言うつもりなんてなかったの! 傷が治せるようになったらの話で、もしもの話! ええと、あなたに他に好きな人がいなかったらの話で!」
真っ赤になったアネッテを、目に焼き付けることは忘れない。が、エーミルの顔も似たようなものだった。
幸運か、アネッテはパタパタと手で仰ぎながらそっぽを向いたから、エーミルの動揺は知られることはなかったが。
「結婚……アネッテがおれとの結婚を考えてくれていたなんて。アネッテが良ければ今すぐにでも」
格好悪いところは見せたくない、と余裕綽々を取り繕ったエーミルは。
指ですくったアネッテの髪に口付けるも、手が震えていた。
「……もしもの話だったら!」
アネッテはそっぽを向いたまま、そう繰り返した。
***
その夜。
明かりがついた研究室にて、フリューが不思議そうに言った。
「……なんか、傷痕薄くなってないか?」
「少しずつわからないように治癒していく予定に変更した。徐々に、かつ早急に!」
「いや、どっちだよ」
急な方向転換に、フリューはアネッテ関連だと結論づけた。
「アネッテ嬢に傷が醜いとでも言われたか?」
「ふざけるなよ。アネッテがそんなこと言うわけないだろうが。魔力が戻ればこの傷を治しておれと結婚するらしい」
「お、おお!? やったな!?」
ただ、長年の片想いが実ったにしては反応が鈍い。
「徐々に自分で治していくのが早いが……いややはりアネッテに治してもらいたい……こうなれば一刻も早く魔力石を完璧なものにして、」
「お、おい……まさか……」
「フリュー! 今日から睡眠時間はないと思え!」
ひぃいい…、と夜の研究室にフリューの情けない声が響き渡った。
その後、噂がどんどん広がり、アネッテが名実ともに狂犬の飼い主として認知される頃、アネッテを悪く言う人間はいなくなった。
エーミルはその噂をいたく気に入り、それが聞こえてくると吹き飛ばす代わりに山ほどの花びらを頭上に降らせた。
「ちょ……! やりすぎよ!」
「やりすぎなものか。おれとアネッテの幸せを広めてくれてるんだぞ。この程度の花」
急にこんもりと頭に載せられる大量の花びらは、「狂犬の惚気」として、しばらく周囲を怖がらせたという。
なお、のちに挙げられた二人の結婚式では、傷痕ひとつない綺麗な顔で愛を誓ったそうだ。




