【断章】透香伝 ──宵闇の皇女は夢幻に微睡(まどろ)む──
長い長い、夢を見ていた。
落ち着いた色合いの木製の調度品と、可愛らしい色合いの小物類。見慣れたその部屋は、祖国で彼女が長く暮らした、懐かしい殿舎の一室だった。
(どうして……。私、隣国にいたのではなかった?)
「――澄蘭様、どうなさったの?」
柔和な面差しの女性が、小首を傾げて澄蘭を見ている。澄蘭ははっと息を飲んで、その女性に向き直った。
抜けるような白い肌、年齢を経てもなお清楚で可憐なその容貌は、崔 芙澤のものだ。彼女はおっとりと首を傾げ、「お掛けになって」と澄蘭に目の前の椅子を指し示す。
(そうだわ……。ここは、礼国の後宮。翠流殿の客間じゃないの。何を戸惑っているんだろう)
澄蘭は黙って頭を下げ、勧められるままに腰を下ろした。
芙澤は澄蘭に手ずから茶を入れ、椀を差し出してくれる。澄蘭は礼を述べながら受け取り、豊かな香りを放つ茶を一口啜った。彼女はニコニコとその様を見守っている。
不意にあさっての方向から、低く穏やかな女性の声が掛かる。澄蘭は弾かれたように顔を上げた。
「――また、夜更かしして書物を読んでいたの? 駄目だよ、睡眠はきちんと取らなくちゃ」
「……貴女様がそれをおっしゃいますの?」
半眼になって呟いた芙澤だったが、そのあとすぐに、コロコロと喉を鳴らして笑う。
澄蘭は呆然と、そのやり取りを見守っていた。
(この方は、誰……?)
澄蘭の知る芙澤は、芯の強い可憐な女性だが、拭い切れない暗く重い蔭を纏っているひとでもあった。こんな風に朗らかに笑うこの人を、澄蘭は知らない。
そして、いつの間にか芙澤の対面に座っていた女性。顔立ちは靄がかかったようにはっきりとせず、澄蘭には彼女が誰なのか分からない。
それでも、夏の夕闇に湖面をそっと渡るような、女性にしては低い落ち着いた声音には、確かに聞き覚えがあった。
言葉を発せずにいる澄蘭に、その女性はしばらく首を傾げている。伺い知れないその表情が、なぜか澄蘭を案じる色を帯びているように感じられ、澄蘭はひたすらに戸惑っていた。
空気を変えるように、芙澤が後方に控えていた女性に声を掛ける。相手は澄蘭にも馴染みの深い、養母の侍女頭だ。
「悪いけれど、厨房から甜点心を持って来てくれる? 昨夜作ったものが、戸棚にあると思うの」
「かしこまりました、崔媛儀様」
侍女は穏やかに微笑み、優美な所作で部屋を出て行く。その背中を見送り、顔の見えない女性は芙澤に向き直った。
「何を作ったの?」
「麻花ですわ。一晩寝かせて油を抜いたものの方が、お好きでしょう?」
「さすがだね」
親しげに言葉を交わし合いながら、芙澤と、澄蘭の見知らぬ女性は楽しげに笑っている。二人の間で視線を往復させる澄蘭の視線の先で、その時、不意に扉が開いた。
「――ここに居たか」
パッと振り返った芙澤が、慌てて頭を下げる。
目を見開く澄蘭に軽く会釈をして見せ、芙澤に顔を上げるように言ったのは、壮年の男性だった。この国でただ一人、禁色を身に着けることを許された人物。
父の冽然は、全てを見通したような威圧的な瞳に憤慨の色を浮かべ、同じく完璧な礼をしてみせた女性に、不機嫌そうに告げた。
「面を上げよ。――昨晩、碁に付き合えと文を送っておいただろう。何故無視する」
「……ああ、あれ。竈の焚き付けに回しましたので、読んでません」
よく燃えましたよ、と涼しい声で言ってのけた女性に、芙澤が同情の眼差しを父帝に向けていた。
父は思わずといった様子で、「……張り倒すぞ」と物騒な言葉をその女性に投げつける。だが女性は堪えた様子もなく、平然と聞き流していた。
父が盛大に溜め息を零し、そしておもむろに、柔らかな口調で芙澤に問うた。
「皇子の感冒はどうだ? 崔妃」
芙澤がにこりと微笑み、「おかげさまで、すっかり良くなりました」と返す。父は安堵したように小さく頷き、今度は輪郭のぼやけた女性に威嚇の笑みを向けた。
「新しい打ち筋を思いついた。今から一戦付き合え、沈貞花」
父の発したその名に、澄蘭は目を見開いた。
(――母妃様)
有り得ない。
母、沈 蕙蘭は十一年前に亡くなった。そして、崔 芙澤が養母となり、澄蘭を育ててくれた。
それゆえに、澄蘭は悟る。
(ああ、――私は、夢を見ている)
霞がかった視界の先で、沈妃と呼ばれた女性が穏やかに微笑んでいた。
緑の生い茂る美しい庭園を、澄蘭は一人歩いていた。
吹き渡る風はしっとりとしていて、新緑の瑞々しい香りを運んでくる。腕に抱えた書物がずっしりと重く、澄蘭はそれらを丁寧に抱え直した。
(私は、どこに向かっているんだろう……)
ぼんやりと考えるが、足はまるで何かに動かされるように、ひとりでに進んでいく。しばらくそのまま歩を進め、やがて澄蘭は石造りの東屋に腰を落ち着けた。
膝の上に置いた書物を、ゆっくりと開いた時だった。華やかに通る二つの声が、背後から彼女に呼び掛けてきた。
「……ここにいたの、澄蘭! 何を読んでいるの?」
「集中しているんだ、邪魔は良くない。……すまないね、澄蘭」
パッと視界に飛び込んできたのは、三月早く生まれた澄蘭の義姉、琴華だった。
そして――
(……穏翊義兄様)
息を詰める澄蘭に、琴華とよく似た整った面差しの青年――穏翊が微笑みを向ける。
なぜこれほど、義兄を目にすると心がざわめくのか。澄蘭には分からない。
干上がりそうな喉を鳴らし、澄蘭は恐る恐る二人の名を呼んだ。
「穏翊様、琴華様、どうして……」
「もう。だから、『様』はやめてって言ったじゃない。私たち、きょうだいなんだから」
プッと頬を膨らませる琴華がいつもの決まり文句を言い、穏翊も優しく微笑んで頷いてくる。澄蘭は内心の警戒を解き、ぎこちない笑みを返した。
嬉しそうに目を細めた琴華が、軽い足取りで澄蘭の隣に腰掛ける。穏やかな風が吹き抜け、彼女の髻に飾られた生花の甘い香りで、三人を包み込んだ。
琴華は楽しげに口を開く。
「色々あって延び延びになっていたけど、兄様がいよいよ来月、祝言でしょう? 良かったらきょうだい水入らずで、食事をしましょうよ! みんなも、兄様の奥様になるご令嬢も一緒に」
(祝言……?)
目を瞬かせる澄蘭に首を傾げ、穏翊が照れくさそうに答える。
「そんなに大事にしないでくれ、と何度も言っているんだけど、聞いてくれなくてね。――澄蘭も付き合ってくれるかい? 雪麗も、君に会いたがっていた」
雪麗。
聞き覚えのある名前に、澄蘭は目を見開く。
行 雪麗は、七年前に亡くなったと聞いている。父親の罪に連座させられ、奴婢に落とされた人生に絶望し、自ら命を絶ったと。
(聞いた。誰から? ――そう、穏翊お義兄様から)
狭く寒い部屋の中で、二人きり。悪鬼のごとく顔を歪めた義兄が、何かを叫んでいる。
『私から雪麗を奪っておいて、温家の息子は自分だけ幸せになろうとしていた! お前との面会後、いつも周囲に嬉しげに惚気けて……! お前も戸惑っている振りをしながら、その実、満更でもない雰囲気を漂わせていた。
それを私がどんな思いで見ていたか、お前らに分かるか!?』
(義兄様は私たちを、殺したいほどに憎んでいた。――だから、これも、夢)
澄蘭の視界の中、優しく微笑む義兄の姿が、ぼんやりと歪んでいった。
「――何を読んでいるんだい?」
「……ッ!?」
不意に背後から伸びてきた手に目元を隠され、澄蘭は文字通り飛び上がった。声の主は慌てて手を離し、彼女の顔を覗き込んでくる。
「申し訳ない! あんまり熱心に読み込んでいるから……つい……」
焦った様子で釈明するのは、温忠良――先日、最下位の忠業から昇進したばかりの遠珂だ。澄蘭は目を瞬かせて、彼を見上げる。遠珂は眉尻を下げ、春の陽光のような笑顔を浮かべてこちらを見下ろしていた。
澄蘭はそろそろと口を開く。
「錚雲の……、鉱物についての図解書を……」
「澄蘭は勉強熱心だなぁ。何が書いてありますか?」
彼は驚いたように目を見開き、弾む声でそう告げた。
時折敬語が抜け切らない、遠珂の奇妙に砕けた口調に、澄蘭は未だ慣れることが出来ない。更に言えば、彼から名前で呼ばれることもだ。
自分自身がそう望み、敬称もやめてほしいと願ったのも彼女なのに、いざ名を直接呼ばれると、心臓が跳ねるのを止められない。
頬を赤らめる澄蘭を、遠珂は目尻を下げて見つめてくる。感情を隠さないその態度に、澄蘭は戸惑いながらも、何とも言えない幸福を感じていた。
遠珂に抱く思いが、恋なのか愛なのか、はたまた友情なのか、今もってはっきりとは分からない。ただ、彼と夫婦として過ごす日々は、今はもう手放しがたいものになっている。
(幸福とは……、こういうことを言うのね)
噛み締めるように、澄蘭は微笑む。
「……澄蘭?」
首を傾げる自分の夫に、澄蘭は笑顔で首を振った。
しばし、お互いに書物を持ち込み、思い思いに読書に耽っていた。夫婦二人とわずかな使用人で暮らす邸は質素だが、落ち着いた色目の木材が多用され、心を鎮めてくれる。部屋の中には、二人がそれぞれの書物の頁を繰る音だけが響いていた。
いつの間に入室していたのか、侍女の姷明が二人の間に茶碗を差し出した。何気なく顔を上げた澄蘭に、彼女はそっと耳打ちをする。
「……そろそろ、目を覚まされてください」
(――え?)
目を見開いた澄蘭の視界から、姷明が、部屋の輪郭が消える。
一面真っ白な光に包まれた世界で、遠珂が静かに微笑んでいた。
二人の間を、断片的な光景が目まぐるしく駆け抜けていく。
二人きりの気まずい部屋。
届けられた一冊の稀覯本。
陽光を受けて輝く簪。
大量の本が並んだ書架。
女官の蔑みの眼差し。
悲しげな養母の背中。
必死の形相で叫ぶ義姉。
もどかしげにこちらを見る婚約者。
牢の檻越しに眺めた夜空。
泣き叫ぶ少女のぼろぼろに傷ついた顔。
正面から初めて見つめた、父帝の冷徹な眼差し。
几帳面な筆跡で綴られた手紙。
涙を流す侍女の、迷子のような表情。
そして長い旅路の末、辿り着いた異国の地。異質の空気。
探るような官僚たちの目つき。
様々な思惑を抱えた女性たち。
月光の下、彼女たちが浮かべる悲しみの涙。ぶつかり合う怒り、諦め、焦燥。
視線の先、遠く俯く、銀髪の偉丈夫。
「えん……か、さま……?」
先程まで彼が纏っていた、質素だか仕立ての良い衣服は、いつの間にか見慣れた官服に変わっている。ただし、その服もあちこちが破れ、所々出血の痕と思われる汚れも見て取れた。
遠珂は彼の父と共に冤罪で引っ立てられ、拷問の末に息絶えた。それは、他ならぬ澄蘭の父と義兄による策略だった。
聡明な遠珂が、途中で罠の存在に気付かなかったとは思えない。けれども彼はそんなことは一言も口にせず、ただ自らと澄蘭の潔白だけを訴え続けたと聞いた。
今も遠珂は、澄蘭の目の前で透き通った笑顔を浮かべている。
震える声を懸命に騙し、澄蘭は言葉を紡いだ。
「温忠業……。こんなことに巻き込んでしまって……。お救いすることも叶わず……、本当に、申し訳ありません」
罵倒も覚悟の上で頭を下げた澄蘭だったが、しかし、目前の遠珂は頭を振って答える。
「私こそ……。公主様を苦しめ、お辛い思いをさせてしまい、詫びの言葉もございません。お守り出来ず、申し訳ありませんでした」
爪の剥がされた傷跡が痛々しい指先を伸ばし、遠珂はそっと澄蘭の頬に触れる。この世に居ない彼は、もはやその傷跡の痛みを感じることすら出来ない。
羽根のように微かに触れる温もりに、澄蘭はそっと目を閉じた。
「澄蘭と、名で呼んでくださって……。嬉しかった」
「……私もです、公主。貴女様とこうして過ごす日々を、ずっと、心待ちにしていました」
遠珂の声はどこまでも深く穏やかで、澄蘭の瞼は知らず熱くなる。請われるままに澄蘭がそっと彼を見上げると、灯火のような暖かな色を帯びた遠珂の眼差しに出会った。
涙に揺らぐ視界の中、遠珂は心底嬉しそうに微笑んでいる。澄蘭は、嗚咽を必死に堪えながら続けた。
「遠珂様。――私、錚雲に、シャグンに嫁ぎました。側妃の一人として、両国の関係構築に全力を注ぎます」
遠珂が一瞬、どこか複雑な笑顔を浮かべるのを、澄蘭は何とも言えない思いで見ていた。これほどの思いを寄せてくれる相手と添い遂げられたら、どんなにか幸福だっただろうか。
彼と生きてみたかった。
胸に湧き上がるこの思いを、何と呼ぶべきなのか、今もまだ分からないけれど。
もう二度と叶わない願いに幾筋も涙を零しながら、澄蘭は決然と口を開く。
「いつか、いつか。――両国の市場を、両国の民が当たり前に行き交う光景を、きっと作ってみせます。……貴方様ともいつか、彼の地を共に歩きたいと思っています」
澄蘭の言葉に、遠珂は驚いたように目を見開く。そして、深く頷いた。
「――皇女?」
薄暗がりにも眩い銀髪の合間から、こちらを案じるような視線が注がれている。澄蘭ははっと目を開いた。
そこは流星宮、シャグン後宮の真北の宮の寝室だった。その宮の正式な主となった澄蘭は、今夜も側妃の義務として、夫であるシャグン王・カルティクを部屋に迎えている。
鍛え上げられた体躯の美丈夫は、その見た目から想像も出来ない繊細な眼差しで、こちらを見下ろしていた。彼が愛するのは正妃ただ一人だが、様々な事件を経て、側妃たちにも情を掛けてくれるようになった。澄蘭もその恩寵を、複雑な思いで受けている。
なんでもありません、と微笑んで首を振る澄蘭をしばし見つめ、やがてシャグン王は静かな足取りで寝台を抜け出した。
王が側妃の宮で夜を明かしてはならないのは、祖国である礼も、シャグンも共通の規則だ。澄蘭は今後死ぬまで、一人で朝日を見上げることになる。
シャグン王が身なりを整えるのを無言で手伝い、澄蘭は彼を見送った。その足音が完全に離れたあとで、一人には広い寝台にゆっくりと横たわる。
澄蘭は深く静かに息を吐いた。そして、月明かりにぼんやりと浮かぶ、一冊の書物を取り上げる。
それは祖国である礼で書かれた、シャグン語の訳語集だった。あちこちに書き込みが加えられ、裏表紙には伸びやかな筆致で蘭の花が描かれている。
婚約者であった遠珂が遺してくれた、その訳語集を胸に抱き締め、澄蘭はそっと瞼を閉じた。




