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【断章】透香伝 ──宵闇の皇女は夢幻に微睡(まどろ)む──

作者: 冬生 恵
掲載日:2026/03/22

 


 長い長い、夢を見ていた。








 落ち着いた色合いの木製の調度品と、可愛らしい色合いの小物類。見慣れたその部屋は、祖国で彼女が長く暮らした、懐かしい殿舎の一室だった。



(どうして……。私、隣国にいたのではなかった?)



「――澄蘭(ちょうらん)様、どうなさったの?」


 柔和な面差しの女性が、小首を傾げて澄蘭を見ている。澄蘭ははっと息を飲んで、その女性に向き直った。

 抜けるような白い肌、年齢を経てもなお清楚で可憐なその容貌(ようぼう)は、(さい) 芙澤(ふたく)のものだ。彼女はおっとりと首を傾げ、「お掛けになって」と澄蘭に目の前の椅子を指し示す。


(そうだわ……。ここは、礼国(れいこく)の後宮。翠流殿(すいりゅうでん)の客間じゃないの。何を戸惑っているんだろう)


 澄蘭は黙って頭を下げ、勧められるままに腰を下ろした。

 芙澤は澄蘭に手ずから茶を入れ、椀を差し出してくれる。澄蘭は礼を述べながら受け取り、豊かな香りを放つ茶を一口啜った。彼女はニコニコとその様を見守っている。


 不意にあさっての方向から、低く穏やかな女性の声が掛かる。澄蘭は弾かれたように顔を上げた。


「――また、夜更かしして書物を読んでいたの? 駄目だよ、睡眠はきちんと取らなくちゃ」

「……貴女(あなた)様がそれをおっしゃいますの?」


 半眼になって呟いた芙澤だったが、そのあとすぐに、コロコロと喉を鳴らして笑う。

 澄蘭は呆然と、そのやり取りを見守っていた。


(この方は、誰……?)


 澄蘭の知る芙澤は、芯の強い可憐な女性だが、(ぬぐ)い切れない暗く重い(かげ)(まと)っているひとでもあった。こんな風に朗らかに笑うこの人を、澄蘭は知らない。

 そして、いつの間にか芙澤の対面に座っていた女性。顔立ちは(もや)がかかったようにはっきりとせず、澄蘭には彼女が誰なのか分からない。

 それでも、夏の夕闇に湖面をそっと渡るような、女性にしては低い落ち着いた声音には、確かに聞き覚えがあった。


 言葉を発せずにいる澄蘭に、その女性はしばらく首を傾げている。伺い知れないその表情が、なぜか澄蘭を案じる色を帯びているように感じられ、澄蘭はひたすらに戸惑っていた。


 空気を変えるように、芙澤が後方に控えていた女性に声を掛ける。相手は澄蘭にも馴染みの深い、養母の侍女頭だ。


「悪いけれど、厨房から甜点心(おかし)を持って来てくれる? 昨夜作ったものが、戸棚にあると思うの」

「かしこまりました、(さい)媛儀(えんぎ)様」


 侍女は穏やかに微笑み、優美な所作で部屋を出て行く。その背中を見送り、顔の見えない女性は芙澤に向き直った。


「何を作ったの?」

麻花(まーふぁ)ですわ。一晩寝かせて油を抜いたものの方が、お好きでしょう?」

「さすがだね」


 親しげに言葉を交わし合いながら、芙澤と、澄蘭の見知らぬ女性は楽しげに笑っている。二人の間で視線を往復させる澄蘭の視線の先で、その時、不意に扉が開いた。



「――ここに居たか」


 パッと振り返った芙澤(ふたく)が、慌てて頭を下げる。

 目を見開く澄蘭(ちょうらん)に軽く会釈(えしゃく)をして見せ、芙澤に顔を上げるように言ったのは、壮年の男性だった。この国でただ一人、禁色を身に着けることを許された人物。

 父の冽然(れつぜん)は、全てを見通したような威圧的な瞳に憤慨(ふんがい)の色を浮かべ、同じく完璧な礼をしてみせた女性に、不機嫌そうに告げた。


「面を上げよ。――昨晩、碁に付き合えと文を送っておいただろう。何故無視する」

「……ああ、あれ。(かまど)()き付けに回しましたので、読んでません」


 よく燃えましたよ、と涼しい声で言ってのけた女性に、芙澤が同情の眼差しを父帝に向けていた。

 父は思わずといった様子で、「……張り倒すぞ」と物騒な言葉をその女性に投げつける。だが女性は堪えた様子もなく、平然と聞き流していた。

 父が盛大に溜め息を零し、そしておもむろに、柔らかな口調で芙澤に問うた。


皇子(おうじ)の感冒はどうだ? 崔妃」


 芙澤がにこりと微笑み、「おかげさまで、すっかり良くなりました」と返す。父は安堵したように小さく頷き、今度は輪郭(りんかく)のぼやけた女性に威嚇(いかく)の笑みを向けた。


「新しい打ち筋を思いついた。今から一戦付き合え、(しん)貞花(ていか)


 父の発したその名に、澄蘭は目を見開いた。




(――母妃(ははうえ)様)




 有り得ない。

 母、沈 蕙蘭(けいらん)は十一年前に亡くなった。そして、崔 芙澤が養母となり、澄蘭を育ててくれた。


 それゆえに、澄蘭は悟る。



(ああ、――私は、夢を見ている)



 霞がかった視界の先で、沈妃と呼ばれた女性が穏やかに微笑んでいた。










 緑の生い茂る美しい庭園を、澄蘭(ちょうらん)は一人歩いていた。

 吹き渡る風はしっとりとしていて、新緑の瑞々しい香りを運んでくる。腕に抱えた書物がずっしりと重く、澄蘭はそれらを丁寧に抱え直した。


(私は、どこに向かっているんだろう……)


 ぼんやりと考えるが、足はまるで何かに動かされるように、ひとりでに進んでいく。しばらくそのまま歩を進め、やがて澄蘭は石造りの東屋に腰を落ち着けた。

 膝の上に置いた書物を、ゆっくりと開いた時だった。華やかに通る二つの声が、背後から彼女に呼び掛けてきた。


「……ここにいたの、澄蘭! 何を読んでいるの?」

「集中しているんだ、邪魔は良くない。……すまないね、澄蘭」


 パッと視界に飛び込んできたのは、三月早く生まれた澄蘭の義姉(あね)琴華(きんか)だった。

 そして――


(……穏翊(おんよく)義兄(にい)様)


 息を詰める澄蘭に、琴華とよく似た整った面差しの青年――穏翊が微笑みを向ける。

 なぜこれほど、義兄を目にすると心がざわめくのか。澄蘭には分からない。

 干上がりそうな喉を鳴らし、澄蘭は恐る恐る二人の名を呼んだ。


「穏翊様、琴華様、どうして……」

「もう。だから、『様』はやめてって言ったじゃない。私たち、きょうだいなんだから」


 プッと頬を膨らませる琴華がいつもの決まり文句を言い、穏翊も優しく微笑んで頷いてくる。澄蘭は内心の警戒を解き、ぎこちない笑みを返した。

 嬉しそうに目を細めた琴華が、軽い足取りで澄蘭の隣に腰掛ける。穏やかな風が吹き抜け、彼女の(もとどり)に飾られた生花の甘い香りで、三人を包み込んだ。

 琴華は楽しげに口を開く。


「色々あって延び延びになっていたけど、兄様がいよいよ来月、祝言(しゅうげん)でしょう? 良かったらきょうだい水入らずで、食事をしましょうよ! みんなも、兄様の奥様になるご令嬢も一緒に」


(祝言……?)


 目を瞬かせる澄蘭に首を傾げ、穏翊が照れくさそうに答える。


「そんなに大事にしないでくれ、と何度も言っているんだけど、聞いてくれなくてね。――澄蘭も付き合ってくれるかい? 雪麗(せつれい)も、君に会いたがっていた」


 雪麗。


 聞き覚えのある名前に、澄蘭は目を見開く。


 (ぎょう) 雪麗は、七年前に亡くなったと聞いている。父親の罪に連座させられ、奴婢(ぬひ)に落とされた人生に絶望し、自ら命を絶ったと。



(聞いた。誰から? ――そう、穏翊お義兄様から)



 狭く寒い部屋の中で、二人きり。悪鬼のごとく顔を歪めた義兄が、何かを叫んでいる。





『私から雪麗を奪っておいて、(おん)家の息子は自分だけ幸せになろうとしていた! お前との面会後、いつも周囲に嬉しげに惚気(のろ)けて……! お前も戸惑っている振りをしながら、その実、満更でもない雰囲気を漂わせていた。


それを私がどんな思いで見ていたか、お前らに分かるか!?』





(義兄様は私たちを、殺したいほどに憎んでいた。――だから、これも、夢)



 澄蘭の視界の中、優しく微笑む義兄の姿が、ぼんやりと歪んでいった。











「――何を読んでいるんだい?」

「……ッ!?」


 不意に背後から伸びてきた手に目元を隠され、澄蘭(ちょうらん)は文字通り飛び上がった。声の主は慌てて手を離し、彼女の顔を覗き込んでくる。


「申し訳ない! あんまり熱心に読み込んでいるから……つい……」


 焦った様子で釈明するのは、(おん)忠良(ちゅうりょう)――先日、最下位の忠業(ちゅうぎょう)から昇進したばかりの遠珂(えんか)だ。澄蘭は目を(しばたた)かせて、彼を見上げる。遠珂は眉尻を下げ、春の陽光のような笑顔を浮かべてこちらを見下ろしていた。

 澄蘭はそろそろと口を開く。


錚雲(しょううん)の……、鉱物についての図解書を……」

「澄蘭は勉強熱心だなぁ。何が書いてありますか?」


 彼は驚いたように目を見開き、弾む声でそう告げた。


 時折敬語が抜け切らない、遠珂の奇妙に砕けた口調に、澄蘭は未だ慣れることが出来ない。更に言えば、彼から名前で呼ばれることもだ。

 自分自身がそう望み、敬称もやめてほしいと願ったのも彼女なのに、いざ名を直接呼ばれると、心臓が跳ねるのを止められない。

 頬を赤らめる澄蘭を、遠珂は目尻を下げて見つめてくる。感情を隠さないその態度に、澄蘭は戸惑いながらも、何とも言えない幸福を感じていた。

 遠珂に抱く思いが、恋なのか愛なのか、はたまた友情なのか、今もってはっきりとは分からない。ただ、彼と夫婦として過ごす日々は、今はもう手放しがたいものになっている。


(幸福とは……、こういうことを言うのね)


 噛み締めるように、澄蘭は微笑む。


「……澄蘭?」


 首を傾げる自分の夫に、澄蘭は笑顔で首を振った。






 しばし、お互いに書物を持ち込み、思い思いに読書に(ふけ)っていた。夫婦二人とわずかな使用人で暮らす(やしき)は質素だが、落ち着いた色目の木材が多用され、心を(しず)めてくれる。部屋の中には、二人がそれぞれの書物の頁を()る音だけが響いていた。


 いつの間に入室していたのか、侍女の姷明(ゆうめい)が二人の間に茶碗を差し出した。何気なく顔を上げた澄蘭に、彼女はそっと耳打ちをする。


「……そろそろ、目を覚まされてください」



(――え?)



 目を見開いた澄蘭の視界から、姷明が、部屋の輪郭が消える。

 一面真っ白な光に包まれた世界で、遠珂が静かに微笑んでいた。

 二人の間を、断片的な光景が目まぐるしく駆け抜けていく。






 二人きりの気まずい部屋。

 届けられた一冊の稀覯本(きこうぼん)

 陽光を受けて輝く(かんざし)

 大量の本が並んだ書架。

 女官の蔑みの眼差し。

 悲しげな養母の背中。

 必死の形相で叫ぶ義姉。

 もどかしげにこちらを見る婚約者。

 牢の檻越しに眺めた夜空。

 泣き叫ぶ少女のぼろぼろに傷ついた顔。

 正面から初めて見つめた、父帝の冷徹な眼差し。

 几帳面な筆跡で綴られた手紙。

 涙を流す侍女の、迷子のような表情。


 そして長い旅路の末、辿り着いた異国の地。異質の空気。

 探るような官僚たちの目つき。

 様々な思惑を抱えた女性たち。

 月光の下、彼女たちが浮かべる悲しみの涙。ぶつかり合う怒り、諦め、焦燥。

 視線の先、遠く俯く、銀髪の偉丈夫(いじょうふ)






「えん……か、さま……?」


 先程まで彼が(まと)っていた、質素だか仕立ての良い衣服は、いつの間にか見慣れた官服に変わっている。ただし、その服もあちこちが破れ、所々出血の痕と思われる汚れも見て取れた。

 遠珂(えんか)は彼の父と共に冤罪で引っ立てられ、拷問の末に息絶えた。それは、他ならぬ澄蘭(ちょうらん)の父と義兄による策略だった。


 聡明な遠珂が、途中で罠の存在に気付かなかったとは思えない。けれども彼はそんなことは一言も口にせず、ただ自らと澄蘭の潔白だけを訴え続けたと聞いた。


 今も遠珂は、澄蘭の目の前で透き通った笑顔を浮かべている。

 震える声を懸命に騙し、澄蘭は言葉を紡いだ。



(おん)忠業(ちゅうぎょう)……。こんなことに巻き込んでしまって……。お救いすることも叶わず……、本当に、申し訳ありません」


 罵倒(ばとう)も覚悟の上で頭を下げた澄蘭だったが、しかし、目前の遠珂は頭を振って答える。


「私こそ……。公主様を苦しめ、お辛い思いをさせてしまい、詫びの言葉もございません。お守り出来ず、申し訳ありませんでした」


 爪の()がされた傷跡が痛々しい指先を伸ばし、遠珂はそっと澄蘭の頬に触れる。この世に居ない彼は、もはやその傷跡の痛みを感じることすら出来ない。

 羽根のように微かに触れる温もりに、澄蘭はそっと目を閉じた。


「澄蘭と、名で呼んでくださって……。嬉しかった」

「……私もです、公主。貴女様(あなたさま)とこうして過ごす日々を、ずっと、心待ちにしていました」


 遠珂の声はどこまでも深く穏やかで、澄蘭の瞼は知らず熱くなる。()われるままに澄蘭がそっと彼を見上げると、灯火のような暖かな色を帯びた遠珂の眼差しに出会った。

 涙に揺らぐ視界の中、遠珂は心底嬉しそうに微笑んでいる。澄蘭は、嗚咽(おえつ)を必死に堪えながら続けた。


「遠珂様。――私、錚雲(しょううん)に、シャグンに嫁ぎました。側妃の一人として、両国の関係構築に全力を注ぎます」


 遠珂が一瞬、どこか複雑な笑顔を浮かべるのを、澄蘭は何とも言えない思いで見ていた。これほどの思いを寄せてくれる相手と添い遂げられたら、どんなにか幸福だっただろうか。




 彼と生きてみたかった。

 胸に湧き上がるこの思いを、何と呼ぶべきなのか、今もまだ分からないけれど。




 もう二度と叶わない願いに幾筋も涙を零しながら、澄蘭は決然と口を開く。



「いつか、いつか。――両国の市場を、両国の民が当たり前に行き交う光景を、きっと作ってみせます。……貴方様ともいつか、()の地を共に歩きたいと思っています」



 澄蘭の言葉に、遠珂は驚いたように目を見開く。そして、深く頷いた。










「――皇女?」


 薄暗がりにも眩い銀髪の合間から、こちらを案じるような視線が注がれている。澄蘭(ちょうらん)ははっと目を開いた。


 そこは流星宮(りゅうせいきゅう)、シャグン後宮の真北の宮の寝室だった。その宮の正式な主となった澄蘭は、今夜も側妃の義務として、夫であるシャグン王・カルティクを部屋に迎えている。

 鍛え上げられた体躯(たいく)美丈夫(びじょうふ)は、その見た目から想像も出来ない繊細な眼差しで、こちらを見下ろしていた。彼が愛するのは正妃ただ一人だが、様々な事件を経て、側妃たちにも情を掛けてくれるようになった。澄蘭もその恩寵(おんちょう)を、複雑な思いで受けている。


 なんでもありません、と微笑んで首を振る澄蘭をしばし見つめ、やがてシャグン王は静かな足取りで寝台を抜け出した。


 王が側妃の宮で夜を明かしてはならないのは、祖国である(れい)も、シャグンも共通の規則だ。澄蘭は今後死ぬまで、一人で朝日を見上げることになる。



 シャグン王が身なりを整えるのを無言で手伝い、澄蘭は彼を見送った。その足音が完全に離れたあとで、一人には広い寝台にゆっくりと横たわる。


 澄蘭は深く静かに息を吐いた。そして、月明かりにぼんやりと浮かぶ、一冊の書物を取り上げる。

 それは祖国である礼で書かれた、シャグン語の訳語集だった。あちこちに書き込みが加えられ、裏表紙には伸びやかな筆致で蘭の花が描かれている。


 婚約者であった遠珂(えんか)が遺してくれた、その訳語集を胸に抱き締め、澄蘭はそっと瞼を閉じた。


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