プロローグ
夜。
彼女――北山 芽依の部屋には、まるで世界から切り離されたような静寂が満ちていた。
机のモニターには、複数の論文データがタイル状に並んでいる。
言語はバラバラ、法則性も規則性もない論文たちだが、芽依はそのどれもを“読む”ことはしない。
ただ、視線を滑らせながらスクロールしていくだけ。
ページの端を掠めただけの情報が、
自分の中にあったかのように次々と『理解』に変換されていく。
流し見しただけで、中身が分かってしまう。
努力でも訓練でもない、説明できない直感の処理。
だがその理解を、言語にしようとすると——
「……ダメだ。言えない」
誰に伝えるでもなく芽依は呟いた。
スクロールする指が止まり、眉間に皺が寄る。
浮かんだ構造が、言葉として形を持たない。
いつもの癖で、耳の後ろにそっと触れる。
そのわずかな手つきが、自分でも気づかない不安を露わにしていた。
明かりは机の上だけを照らし、外側のほとんどは影に沈んでいる。
その狭い光の範囲が、まるで彼女の孤独を表しているかのようであった。
翌日、教室。
数学の授業で当てられた芽依は、黒板に書かれた数学の問題を一瞥すると『=』と答えだけを淡々と黒板に刻んだ。
踵を返し席に戻ろうとすると、
「あのね、北山さん?確かに正解なんだけど……途中式も書いてくれないかい?」
困惑した教師が口を開く。
芽依は戻りかけた状態から再び黒板に向き直る。
言われた通り途中式を書こうとするが……手が止まる。
――説明ができない。
答えを理解しているくせに、言葉に、形にできない。
そのギャップが教室の空気をじわりと変える。
軽いざわめき。
なんだまたか、と言う笑いとも嘲りともつかない息づかいも聞こえてくる。
その時——
「先生、僕が書きます。」
後方から凛とした声が響き、北山 灰が立ち上がった。
芽依の兄であり、彼女を唯一“理解”できる人物。
灰は黒板の前まで歩くと、芽依の式に説明を加えながら途中式を付け足していく。
芽依自身ができない“翻訳”を当然のような顔で。
ひとしきり説明が終わると、教室の空気は元に戻る。
芽依は席に戻り、前を向いたまま無言。
灰はただ、その横顔を見て小さくため息をつく。
放課後。
帰宅した芽依は、鞄を置くとすぐにベッドへ倒れ込んだ。
(今日も理解されなかった。)
慣れているはずなのに、胸の奥が重い。
部屋の天井を眺めながら、自分の理解と世界の言語の距離について考える。
理解できる。
でも言葉にして伝えられない。
その繰り返しがどれだけ苦しいか。
(ダメだ……泣いてしまいそう…)
ふと、枕元に置いていたスマートフォンが震える。
小さなバイブ音が鳴り、画面に《未読1件》の通知が灯る。
件名は《──To: me》
芽依は身体を起こし、目を細めた。
自分宛て?
不審に思いながらも、メールを開こうとした時、
「あ……れ……?」
急な眠気に襲われた。
ぐるりと世界が回る。
起こした体が再びベッドに沈む。
芽依の意識はそこで途切れてしまった。
明かりが自動で消え、暗がりとなった部屋に芽依のスマートフォンだけが淡く光り続けていた。




