反復飛行
今回の一時帰宅で、どうにか妻との関係が修復できた。
これからは別居ではなく、単身赴任だ。
「なるべく早く帰ってくるよ」
「そうね、そうして」
「えー行かなくていーじゃん」
玄関先で妻(35)と息子(9)に見送られ、僕は羽田空港に向かった。
妻とのすれ違いがいつお互いの憎悪に変わったのかはわからないけど、子供が成長するにつれて2次関数的に関係が悪化していったのは確かだった。仕事優先の夫と、育児に奔走する妻。口を開けば些細な事で言い争い、その後の数カ月は口もきかない。家庭内別居は策定していたものの、子供の事で会話をしないわけにもいかず、アプリのメッセージでやり取りをする。家という場所は、どうしようもなく居心地の悪い空間だった。
そんな矢先に、勤務先で大阪支社への赴任者が募集された。僕はいの一番に志願した。ちょうど2年前のことだ。妻からは「離婚前提。慰謝料を貯金しとけ」という条件で快諾を得て家を飛び出した。
今となっては、妻との間で何をそんなに拗らせていたのかが不思議で仕方がない。今回の一時帰宅にあたって事前に反省の意を表し、いざ帰宅した際にしっかり歩み寄って面直で謝罪をしたら、妻はあっけなく許してくれた。
この「許してくれた」というのがミソだ。以前の僕なら、許すだと?お前も謝るべきだろ!という感情が芽生えたはずだ。
何が僕を変えたのか…。ありきたりだけど、一人暮らしで増幅した孤独感と、子供への愛情だろうと思う。
定刻8:30羽田空港発、大阪伊丹空港行きの飛行機に搭乗する。
仕事でしっかりと成果を出して、バシッと東京に戻らせてもらおう。僕はやる気と希望に満たされて、久しぶりにとても気分が良かった。
「当機はまもなく着陸態勢に入ります。ご着席のうえ…」
機内アナウンスで目が覚めた。今朝は早起きだったからか、眠ってしまっていた。
「…あと15分ほどで羽田空港に到着します」
え?羽田に到着?なんで?
羽田発、大阪行きに乗ったはず…。前方にある機内モニターのトラッカーを見ると、飛行機は千葉県上空を迂回中で、間違いなく羽田空港に向かっていた。
飛行機が引き返した?
まさか、今日は全国的にすこぶる天気が良いし風もない予報だった。機体のトラブル?それにしては他の乗客が落ち着き過ぎているように思う。
隣の乗客はスーツを着た40代後半くらいのメガネ紳士だった。思い切って訊いてみる。
「すみません。なんで羽田に戻ったんですか?」
「え、何?戻ったってどういう意味なんです?」ネイティブな関西弁で訊き返される。お笑い芸人風紳士。
はっとした。そういえば飛行機が飛び立った時、隣の席にいたのは老淑女だった。
飛行機が変わってる…?
時計を見ると11時を回ったところだった。いやいや、定刻で9時半には大阪に着いていたはずだ。飛行機で寝過ごすなんて事がありえるのだろうか。
「どういうことだよ…」僕はつぶやいた。
「は?いやあんたがどういうことやねんて」
空港のカウンターで訊いてみると、記録上、僕はちゃんと朝の便で大阪空港に向けて飛び立っていて、その便は予定通り大阪に到着していた。その後、僕は大阪10:15発、羽田行きの便に乗ったらしい。…アクティブな類の夢遊病なのだろうか?
13:00発大阪行きの便に空きがあったので、とにかくチケットを購入した。明日は仕事で大事な会議があるから、今日のうちに大阪へ戻らないといけない。
この不思議な体験をすぐに誰かに話したいけど、妻は今日パートに出ている。
『よくわからないけど羽田に戻っちゃった。怖ぇ』とだけメッセージを送る。
考えを巡らせてもわからない。夢遊病?多重人格?すぐに病院に行くべきか。
とにかく機内で寝たのがマズかったのかもしれない。
ターミナル内のコンビニでコーヒーを買い、飲み干してから搭乗ゲートに向かった。
飛行機は定刻で羽田を出発。
富士山を超えたくらいで、体中が柔らかい何かに包まれる感覚がした。ポカポカして心地が良い。1日の終わりにソファでウトウトする感覚。
なんだこれは…。一瞬でも気を抜くと意識が落ちそうになるところを、必死で正気を保とうとする。
何が起きているのかはわからないけど、さっき羽田に戻ってしまったのは僕自身の問題ではなくて、外からの何らかの作用によるものだった、という事だけは確信した。その何かに抗うには、絶対に寝てはいけないはずだ。
「まただ!」薄れゆく意識の中で、かすかに自分の声が聞こえた。
夢を見ているような感覚だった。自分の意志では体を動かせなくなっている。
携帯には13:51という表示。もう大阪だーと思う僕とは相反する言葉が口から出る。
「なんでまた大阪なんだよ…」
滑走路に着陸してすぐ、スマホに文字を打つ。画面上部には妻の名前が見える。
『よくわからないんだけど、また大阪に戻ってしまった』
すぐに返信が来る。
『もういいって。無理やりパート休ませといて何だっていうのよ』
目を覚ますと、羽田に着陸するところだった。
また羽田に戻ったのか…まったくなんなんだよ…。
すぐにスマホを確認した。時刻は17:42。妻とのメッセージ画面を開く。
そこには僕が羽田を出る前に入れたメッセージへの返信があった。
『乗り遅れたの?それとも行きたくなくなった?笑』
「もういいって―」というメッセージはなかった。夢だったのだろうか。けれど時間は進んでいるし、何が何だか訳がわからない。
ここで逆に、寝てみるか…。寝ると何か変わるかもしれないと思ったけど、寝れそうにはなかった。
カウンターで再度空席を探してもらうと、19:20発の関西空港行きが見つかった。今朝からかれこれ東京~大阪間を2往復していて、3度目の出発になる。
「もしかして、YouTubeとかですか?」女性職員が優しい笑顔で訊いてくる。
「いえ、違うんです…」説明しようにもできないので、言葉に詰まった。
「あ、失礼しました」職員の表情に怪訝さが追加される。「ここまで行き来される方はおられませんから、何かの企画なのかなと。えーとそれで、代金なんですがー」
チケットの支払いをしようと財布を取り出すと、そこに小さな紙が挟んであった。
『大阪には戻るな』
雑だが意志のこもったその字は、まぎれもなく僕の字だった。
やっぱりか…。
おぼろげに覚えている大阪行きの機内で見たあの光景。どうやら僕は、もう一人の僕と上空で入れ替わっているようだった。何が起こっているのかは分からないけど、このメモは少なくとも僕らの入れ替わりを証明するには十分だ。
そして、もう一人の僕は東京に行きたがっていて、僕が大阪に着くたびに東京行きの便に乗るのだろう。
多分、家族に会うために。
もう一人の妻とのやり取りの内容から、少し前の僕と同じ境遇かも、と想像する。拗らせ続けた関係の修復を目指しているのかもしれない。
『やばい、また羽田に戻っちゃった』
セキュリティを通過した後、妻にメッセージを送ると、すぐに返信が来た。
『いい加減にしてよね。また頭がおかしくなったの? 随分前に大阪に着いてるんでしょ』
また、ってなんだよ。と思うけど、「頭がおかしい」は数日前までの僕に対する妻からの評価そのものだった。
もう一人の僕には悪いけど、こちらはもう家族関係の修復ができていて、明るいであろう未来がすぐそこに待っている。
それに明日は大事な会議もある。まだまだ仕事を頑張って、家族を養っていかなきゃいけない。
幸せを取り戻したばかりの、こちらが正義だ。
僕はペンを取り出して、メモの文字をシャシャッと線でつぶし、書き直す。
『東京へは行かなくていい 明日は大事な仕事だろ』
関西空港行きの飛行機に乗る前に、眠気覚ましの類の栄養ドリンクを一気飲みした。
時刻は20時ちょうど。関西空港が近づくにつれて、また体が温かい何かに包まれだした。意識が遠のいて行く感覚。ここで踏ん張らないといけない。
意識はさっきよりも耐えられる感じがした。ポケットから先ほどのメモを取り出し、握りしめる。だがその瞬間から、体がいう事を聞かなくなった。
「ダメだったか…しかも関空かよ」と自分の声が聞こえる。諦めのトーンだった。
携帯に目を落とし、妻とのメッセージ画面を開く。
『なんでもいいけど、羽田に着いたら連絡して』
メッセージの受信時間は16:33。数時間前なので、羽田に向かう前に受信したものだろう。新規メッセージの受信を試みるもネットワークには繋がらない。
「ここで逆に寝てみるか…」もう一人の僕はそう呟いて、目を閉じた。
僕の意識は耐えられてはいたものの、かなり朦朧としてきていた。ただ関空へは着陸間近。もう一人の僕が諦めてくれれば、このまま大阪に居れるはずだ―。
そこで僕はある可能性に気づく。
もう一人の僕が次に東京に向かわなかったら、今の「僕」の意識はどうなってしまうんだろう。無くしてしまうと、そのまま消えてなくなるんだろうか…。
急に不安と恐怖でいっぱいになった。
東京に戻らないと、今の僕は消えてしまうかもしれない。あのまま東京にいた方が良かったのか? くそ、とにかく気をしっかり持って、耐えないと。そして僕を東京に向かわせないといけない。
関西空港の滑走路に着陸後、携帯に新着メッセージを受信する。
『社畜さん?どこにいるんですか? 離婚届はちゃんと準備してますけど取りに来なくてもいいですよ。送りますから送り先だけ教えてください』
僕は携帯の画面を閉じた。
ダメだ諦めるな、まだ間に合う。君が、というか僕らが悪いわけじゃない。単なるボタンの掛け違いなんだ。東京へ向かうんだ!
僕はどうにか自分の意志を伝えようと必死に試みる。けれど体は動かないし声も出ない。せめて心の声が通じてくれれば…。
僕はメモを眺めている。『東京へは行かなくていい 明日は大事な仕事だろ』
違うんだ。誤解するな…どうか通じてくれ…。
「どっちにしろダメだったって事なのかな…」
飛行機を降りた僕は出発ロビーではなく、出口へと向かって歩いていく。
違うんだ!あきらめるな!東京へ向かえー!!
意識が途絶えるまでの数分間、僕は心の中で叫び続けた。
初作品、書いてみました。お読みいただきありがとうございます。




