98.商会の深奥と、怪物たちの契約
アーノルたちが「黄金の蜜蜂亭」で酒を酌み交わしていたその夜。
商業都市国家レーマネでは、一つの歴史的な発表が行われていた。
この国の政治体制は独特だ。
頂点に立つのは、三人の代表者――『国頭』と呼ばれる合議制のリーダーたち。
その下には七人の『国衆』と呼ばれる評議員が存在し、実務と舵取りを行っている。
その夜のニュースは、街を揺るがせた。
これまで国衆の中位に位置していたハインツ商会の会長ハインツが、現職の一人を追い落とし、新たな三人の『国頭』の一画に選出されたのだ。
翌朝。
俺たちはそんな政変のことも知らずに、呑気に宿を出発しようとしていた。
「じゃあ、俺たちは好きにさせてもらうぜ。武器のメンテもしたいし、この街の酒も飲み歩きたい」
ガウスが手を振ると、モイコ、ドッタ、ヘイミーもそれぞれの目的へと散っていった。
今日から彼らは「有給休暇」だ。
「……チッ。働かねえ人間に金を払うなんざ、やっぱり気に食わねえ」
アサータクが背中を見送りながらブツブツと言っている。
「まあまあ、払ったのは俺ですから」
「それが気に入らねえんだよ。お前が変な金の使い方をするから、俺の商売人としての美学が乱される」
そんな軽口を叩きながら、俺とアサータクは街の中心部へと向かった。
目指すは、この街で最も大きな建物――ハインツ商会の本店だ。
◇
ハインツ商会の本店は、威圧感すら覚えるような石造りの巨塔だった。
俺たちは正面の重厚な扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」
すぐに下働きの少年が飛んできた。
身なりも言葉遣いも洗練されている。
「アサータクというものだが、ハインツ様はいらっしゃるかな?」
アサータクが尋ねると、少年は少し困ったような顔をした。
「アサータク様……ですか? 失礼ですが、お約束はいただいておりますでしょうか?」
「いや、していない」
「左様でございますか……。申し訳ございません。商会長様は今、大変お忙しい時期でして、紹介状やお約束のない方との面会はお断りさせていただいております」
丁重だが、断固とした拒絶。
今のハインツは国のトップの一人だ。
ただの商会長だった頃とは警備のレベルも違う。
だが、アサータクはそんなことは知らない。
「そうか、なら仕方ない」
アサータクはあっさりと引き下がると、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「なら、これを金に換えてもらいたい。ハインツ様からの直筆の証文だ」
「はぁ……承知いたしました。では、係の者が確認いたしますので、こちらへどうぞ」
少年は証文を受け取ることなく、俺たちを奥の部屋へと案内した。
通されたのは、静謐な空気が漂うロビーのような場所だった。
ふかふかの絨毯が敷かれ、壁には名画が飾られている。
非常に高価そうな空間だが、肝心の「商品」がどこにも見当たらない。
「アサータクさん、ここは店じゃないんですか? 商品がありませんけど」
俺が小声で聞くと、アサータクは「田舎者丸出しだな」と笑った。
「ここは『商談』をする場所だ。国を動かすような契約にな、商品の見本なんて邪魔なだけだ。小売りをする店舗は別にあるのさ。大商会ってのはこういうもんだ」
「なるほど……」
しばらく待っていると、質の良いスーツを着た、それなりの立場にありそうな初老の男性が現れた。
「お待たせいたしました。担当の支配人でございます。証文の換金をご希望とのことですが……」
男性は事務的な笑顔で手を差し出した。
アサータクは無言で羊皮紙を渡す。
男性は眼鏡の位置を直し、証文を開いた。
そして――凍りついた。
「…………は?」
事務的な笑顔が崩れ落ちる。
彼は眼鏡を一度外し、ハンカチで拭いてから、もう一度証文を見た。
そこに書かれている金額は、白金貨400枚。
金貨にして4万枚。
小国の国家予算に匹敵する、天文学的な金額だ。
「な、な、な……」
支配人の手が震えだした。
そして、証文の署名と、宛名の「アサータク」という文字を交互に見て、ハッと顔を上げた。
「アサータク……まさか、あの『揚水ポンプ』の!?」
彼は聞いていたのだ。
ハインツ商会に莫大な利益をもたらし、ハインツを一気に国頭の座へと押し上げた革新的な発明品。
それを持ち込んだ商人の名前を。
「し、し、失礼いたしましたァッ!!」
支配人は直角に腰を折り曲げた。
「ハインツ様より伺っております! まさかご本人様がいらっしゃるとは露知らず……! すぐに、すぐにハインツ様にお取次ぎいたします!」
「いや、忙しいならいいんだが……」
「とんでもございません! アサータク様を帰したとあっては、私の首が飛びます! ささ、こちらへ! 特別応接室へご案内いたします!」
◇
案内されたのは、王宮の一室かと思うような豪華な部屋だった。
座り心地の良すぎるソファに、湯気を立てる最高級の紅茶。
さらに見たこともないような美しい菓子まで運ばれてきた。
俺はアサータクの後ろに控え、あくまで「見習いの荷物持ち」として立っていた。
ポンプの発明者が俺だということは伏せている。
余計な注目を浴びれば、ろくなことはないからだ。
しばらくすると、バァン! と扉が開いた。
「アサータク君!! よく来てくれた!」
入ってきたのは、恰幅の良い髭の紳士――ハインツだ。
その顔は満面の笑みで、全身から「絶好調」のオーラが溢れ出ている。
「やあハインツ様。お元気そうで何よりです」
アサータクが立ち上がると、ハインツはガシッとその手を握りしめた。
「元気どころじゃないぞ! いやぁ、君のおかげだよ! 君が持ち込んだあのポンプ、あれが決め手だった!」
「決め手?」
アサータクが首をかしげると、ハインツは胸を張った。
「私は昨日、このレーマネの『国頭』の一人に選出されたんだ」
「なんと……! それは、おめでとうございます」
アサータクが目を見開く。
まさか国のトップにまで上り詰めているとは思わなかったのだろう。
「すべてはあのポンプのおかげだ」
ハインツは興奮気味に、その勝因を語りだした。
「まず、私はあのポンプの性能を確信してから、あちこちの『水没して廃坑になった鉱山』を二束三文で買い漁ったんだ。誰もがゴミを掴まされたと笑ったよ」
だが、結果は違った。
俺たちが作ったポンプは、強力な揚水能力で瞬く間に坑道を排水し、死んだはずの鉱山を次々と蘇らせたのだ。
「おかげで私は今や、国内有数の鉱山オーナーだ。さらに、ポンプ自体も同業者に高値で貸し出してね。二重の利益で、私の資産と影響力は天井知らずさ!」
ハインツは高笑いした。
なるほど、ただ売るのではなく、自分で使って実績と資産を作ってから、足元を見て貸し出す。
えげつないが、賢いやり方だ。
「特にあの『手入れ不要の防錆加工』! あれが革命的だった。水に浸かりっぱなしでも錆びないから、24時間稼働させられる。商品化してまだ日は浅いが、あれのおかげで現場の効率は劇的に変わったよ」
ハインツは上機嫌でソファに座り、俺の方をチラリと見た。
「おや、そちらの少年は?」
「ああ、こいつは俺の見習いでしてね。アーノルと言います。荷物持ち兼、雑用係です」
アサータクがさらりと紹介する。
俺は深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ハインツ様。アーノルです」
「うむ。若いうちからアサータク君のような優秀な商人の下で働けるとは、君は幸運だぞ。しっかり学びたまえ」
「はい、肝に銘じます」
ハインツは再びアサータクに向き直った。
「さて、証文の話だったね。白金貨400枚……本来なら現金で用意するには時間がかかる額だが、今の私なら即決できる。君にはそれだけの価値があるからね」
ハインツは卓上のベルを鳴らし、側近を呼んだ。
「金庫から白金貨を用意しろ。……ああ、それとアサータク君。君、うちの幹部にならないか? 交易部門の統括を任せたいんだが」
「ありがたいお話ですが、俺は根無草の行商人が性分でして」
「はっはっは! 言うと思ったよ。まあいい、君とはこれからも長い付き合いになりそうだ」
二人の大物商人が笑い合う。
俺はその影で、ただ静かにお茶の香りを嗅いでいた。
白金貨400枚。
俺たちの旅の途中で、とんでもない資金を得た。




