95. 黒銀の切れ味
西の国境検問所では、ちょっとした一悶着があった。
列に並んでいた俺たちの馬車が止められ、柄の悪い役人が荷台を覗き込んで難癖をつけてきたのだ。
「おい、積荷のリストと中身が合わんぞ。この木箱、申請には『日用品』とあるが、やけに重いな。違法な薬物でも隠してるんじゃないか?」
「まさか。ただの保存食と工具ですよ」
俺は咄嗟に口を挟んだ。
だが、役人は聞く耳を持たない。
「口答えするな! 全部の荷物を降ろして検査だ。……ああ、今日はもう夕方だからな。検査は明日になるかもしれんが」
ニヤニヤと笑う役人の態度は明白だった。
検査とは名ばかりの、露骨な賄賂要求だ。
アサータクは眉をひそめることもなく、馬車から降りて役人に歩み寄った。
「おやおや、それはお手数をおかけします。ですが役人様、我々も急ぎの旅でしてね。……例えば、この『手間賃』で、検査の手順を少し簡略化していただくことは?」
アサータクは役人の死角になるように体を寄せ、袖の下で何かを握らせた。
役人の表情がピクリと動く。
「……ふむ。まあ、見たところ怪しい者ではなさそうだが」
「ええ、ええ。それに、この上等な酒瓶。これは個人的な贈り物ですが、夜の晩酌にでもどうぞ」
さらに追加の金貨と、懐から取り出した酒瓶を渡すと、役人の顔は満面の笑みに変わった。
「おお、話の分かる商人だ! よし、検査終了! 通れ通れ!」
さっきまでの威圧感はどこへやら、役人は上機嫌で手を振って見送ってくれた。
馬車が動き出し、検問所が見えなくなると、アサータクは冷めた目で言った。
「安いもんだ。あそこで正論を吐いて揉めれば、平気で二、三日は足止めを食らうからな」
「……確かに。でも、ああいう手合いに頭を下げるのは、どうも腹が立ちますね」
俺が不満を漏らすと、アサータクは諭すように口を開いた。
「感情で商売はできんよ、アーノル。よく覚えておけ。商人が戦うべき相手は『不正』じゃなく『損失』だ」
「損失、ですか」
「そうだ。金貨数枚で数日分の時間を買えるなら、それは圧倒的に勝てる投資なんだ。いちいち腹を立てて時間をドブに捨てるのは三流のすることだ。常に天秤にかけろ。プライドと実利、どちらが重いかをな」
アサータクの言葉には、長年荒波を渡り歩いてきた者だけが持つ重みがあった。
これが商人の戦い方なのだろう。
国境を越え、馬車は深い森の街道へと入っていく。
だが、その平穏も長くは続かなかった。
「……来たな」
ガウスが低く呟いた。
街道の先、カーブを曲がったところで道を塞ぐように男たちが待ち構えていた。
今度の盗賊は、前のチンピラとは訳が違う。
武装も整っており、組織だった動きで馬車を包囲しようと展開している。
「チッ、数は……二十人ってところか」
ガウスが大雑把に数を数え、獰猛に笑った。
「おい野郎ども! 稼ぎ時だぞ!」
吠えると同時に、彼は単身、敵の集団へ向かって弾丸のように突っ込んだ。
「オラァァァッ!!」
考えなしに見える正面突破。
だが、その強烈な一撃で先頭の男が吹き飛ばされ、ドミノ倒しのように敵の陣形が崩れる。
盗賊たちの注意が一斉にガウスに向く。
それが狙いだ。
敵が密集したその瞬間、後方からドッタが駆け込んだ。
ブンッ!!
豪快な風切り音と共に、巨大な戦斧が横薙ぎに振るわれる。
ガウスをすり抜けて馬車へ向かおうとした数人の盗賊が、まとめてなぎ倒された。
さらに、遠距離からはヒュッ、ヒュッという静かな音が響くたび、馬車に近づこうとする敵が一人、また一人と崩れ落ちる。
ヘイミーの正確無比な狙撃だ。
馬車の横では、モイコが短剣を弄びながらアサータクの護衛に徹している。
戦況は圧倒的に傭兵団の優勢――に見えた。
その時だ。
背後の茂みで、小枝が折れる微かな音がした。
(……ん?)
俺は何気なく振り返った。
瞬間、ゾクリと背筋が凍る。
馬車の死角となる後方の林から、二人の盗賊が飛び出してきたところだった。
「へへっ、後ろはガラ空きだぜ!」
距離は五メートル。
すでに剣を振り上げ、こちらへ突っ込んでくる。
(狙われた!)
完全に虚を突かれたわけじゃない。
だが、迎撃の態勢を取るには遅い。
俺は反射的に腰の剣へ手を伸ばしながら、眼前の敵二人を強く睨み据えた。
――対象確認。
――【未来視】発動。
意識のスイッチを切り替えた瞬間、脳裏に「一秒先の映像」が走る。
右の男は袈裟斬り、左の男は突き。
その軌道が、光の残像のように明確に見えた。
見えていれば、体は動く。
ロバーソンやメイシーたちと繰り返し行った、あの修練が体を突き動かす。
俺は半歩、右足を引く。
鼻先数センチを、右の男の剣が空振りする。
風圧が頬を撫でる。
同時に体を捻り、左の男の突きを最小限の動きでかわす。
「なっ!?」
二人が驚愕に目を見開いた時には、もう遅い。
俺の手にある漆黒の剣が、銀色の軌跡を描いて一閃した。
ザンッ!
抵抗感は、恐ろしいほど希薄だった。
まるで濡れた紙を切るかのように、二人の盗賊は崩れ落ちた。
「……っ、ふぅ」
俺は剣を構えたまま、一つ息を吐いた。
間に合った。
もし音が聞こえず、完全に不意打ちを受けていたら、【未来視】を使う暇もなく斬られていただろう。
この能力は便利だが、万能じゃない。
自分が「使う」と意図し、対象を認識していなければ発動しないのだ。
(勝てた……だが、ギリギリだ)
冷や汗が背中を伝う。
今回は相手の動きが単純だったから対応できた。
だが、もし相手が三人だったら?
あるいはもっと熟練の剣士だったら?
たぶん俺は死んでいた。
俺の今の実力では、このレベルの相手を同時に捌くのは「二人」が限界だ。
その頃には、前方の戦闘も終わっていた。
ガウスが最後の男を蹴り飛ばし、血振るいをして納刀する。
あたりには二十人近い盗賊が転がっていた。
圧倒的だった。
特にガウスの動きは別格だ。
ただ力が強いだけではない。
あの咆哮、あの踏み込み……存在そのものが敵の士気をへし折っている。
恐怖で縮み上がった相手を、一方的に蹂躙する。
ありゃあ、人の形をした災害だ。
「……凄いな」
俺は思わず呟いた。
隣にいたアサータクも、感心したように頷いている。
「ああ。あれが『人食い狼』の戦い方か。個の武勇がそのまま戦術になってやがる」
「金貨12枚は安かったかもしれませんね」
「違いない。そこらの半端な傭兵団を三倍の数揃えるより、こいつら四人の方がよっぽど頼りになる」
俺たちが話していると、モイコが近づいてきた。
その目は、いつもの軽薄なものではなく、鋭い探究の色を帯びていた。
「やるねぇ、アーノル君。俺、今助けに入ろうと思ったんだけどさ」
モイコが指差した先、御者台の上にはヘイミーがいた。
彼女も弓を下ろし、驚いたように俺を見下ろしている。
俺が襲われた瞬間に援護しようとしてくれていたらしい。
「あの二人を、同時にかわして斬ったろ? まるで来るのが分かってたみたいに」
「……まぐれですよ。必死でしたから」
俺は誤魔化しながら、手拭いで剣に付いた血を拭った。
黒い刀身は血を弾き、拭うまでもなく美しい状態を保っていたが、一応の手入れだ。
すると、ガウスたちも集まってきた。
彼らの視線が、俺の剣に釘付けになる。
「……おい、その剣」
ガウスが隻眼を細めた。
「ちょっと見せな」
俺が剣を差し出すと、ガウスはそれを手に取り、まじまじと観察した。
刀身は光を吸い込むようなマットブラック。
だが、刃先だけが研ぎ澄まされた銀色に輝いている。
手にしたガウスの表情が変わる。
重心、握り心地、そして纏う空気。
「なんだこりゃあ……。ただの鉄じゃねえな。見たこともない造りだ」
ドッタも無言で覗き込み、ヘイミーも木から降りてきて興味津々に眺めている。
戦闘のプロである彼らには分かるのだ。
これが異常な業物であることが。
「王都の騎士団長が持ってる剣より、ずっと質がいいんじゃねえか。それにこの不気味な黒色……」
ガウスが剣を返しながら、真顔で尋ねてきた。
「おい坊主、こいつは一体どこで手に入れた? どこの名匠が打ったんだ?」
「……ただの田舎の鍛冶屋ですよ。ちょっと変わった頑固親父のね」
俺がそう答えると、ガウスは「へっ、嘘が下手だな」と笑った。
「ま、いいさ。商人だか何だか知らねえが……いい腕と、いい武器を持ってるじゃねえか。気に入ったぜ」
どうやら俺は、彼ら「狼の群れ」に、ただの荷物持ちではなく「戦える仲間」として認められたようだった。
俺は苦笑しながら、再び剣を腰に差した。
国境を越えた先には、さらなる危険が待っているかもしれない。
だが、この剣と彼らがいれば、なんとかなりそうだ。




