91. 抜け殻と白金貨
至高の魔剣が完成した瞬間、俺とサンデルの中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。
それからの数日間、俺たちは「鉄分過多による完全廃人化」とでも呼ぶべき状態に陥った。
会話はない。
思考もない。
太陽が昇ればゾンビのように起き出し、無言で干し肉を齧り、日が沈めば泥のように眠る。
ただ呼吸をして飯を食うだけの、何の役にも立たない生物。
それが今の俺たちだった。
そんなある日の昼下がり。
工房の扉が叩かれた。
「おい、生きてるか?」
聞き覚えのある声と共に、二人の男が入ってきた。
アサータクと、ハインツ商会のケイルだ。
「......あ?」
サンデルが床に寝転がったまま、焦点の合わない死んだ魚のような目で客人を見る。
俺も椅子にもたれ、口から魂を半分出したまま首だけ動かした。
「ああ......アサータクさん、ケイルさん......」
「うわ、酷いなこりゃ。獣の巣かと思ったぞ」
アサータクが鼻をつまみ、ケイルは苦笑いしながら足の踏み場を探している。
部屋はゴミ溜めだが、その中央に一本の剣だけが、異質なオーラを放って鎮座していた。
「街中でばったり会ってな。様子を見に来たんだが......どうやら大仕事は終わったみたいだな」
アサータクが俺の背中をバンと叩く。
その衝撃で、ようやく口から出ていた魂が体内へ戻ってきた。
「遅くなってすまない。本店での検証に時間がかかってね」
ケイルが部屋の隅にある椅子を引っ張り出し、ドサリと重そうな革袋をテーブルに置いた。
ジャラッ......。
その重厚な金属音は、銀貨や金貨の軽やかな音とは明らかに違っていた。
「防錆処理の再現、成功したよ。本店のお抱え職人が三人掛かりで、君のマニュアルと首っ引きになってようやくね」
ケイルはホッとした様子で語った。
完成した部品を過酷な酸性水でテストした結果、従来の部品よりもかなり高い耐久性が確認されたらしい。
「メンテナンスの頻度は劇的に減るだろう。それに、これはポンプだけじゃない。船の金具、農具、建築資材......鉄を使うあらゆる製品に応用できる。我々にとって、新たな鉱脈を見つけたに等しい大発見だよ」
「それは良かった」
「ああ。これが、今回の報酬だ」
ケイルが革袋の紐を解き、中身をテーブルにぶちまけた。
ガシャガシャガシャ......!
眩い輝きが、薄汚い工房を照らす。
金ではない。
さらに白く、神々しい輝きを放つ「白金」の山だ。
「は……?」
床で寝ていた廃人が、バネ仕掛けの人形のように飛び起きた。
目が限界まで見開かれ、顎が外れそうなほど落ちている。
「は、は、は、白金貨ァァァッ!?」
サンデルの絶叫がこだまする。
無理もない。
白金貨一枚で金貨100枚。
庶民が一生で一度拝めるかどうかの高額通貨が、そこには10枚も転がっているのだから。
金貨にして1000枚、とんでもない大金だ。
「おい坊主、お前なんで平気なんだよ! 白いやつだぞ!? 本物かこれ!?」
サンデルが俺の肩を掴んでガクガクと揺らす。
「落ち着いてください。アサータクさん知り合いの商人です、偽物ってことはないでしょう」
「ひっ、ひぃっ……」
俺がなだめると、サンデルは過呼吸になりかけながら、恐る恐る白金貨の山を凝視した。
「サンデルへの依頼料と、アーノルの技術提供料だ。二人で分けてくれ」
ケイルはサンデルの反応に満足したのか、ニッコリと笑って懐から羊皮紙を取り出した。
「ああ、それと二人とも。これに署名を頼むよ」
「署名?」
渡された羊皮紙に目を走らせる。
そこには美しい飾り文字で、今回の成果物に関する『全権利の譲渡』、および『他者への開示禁止』、さらには『類似技術の開発禁止』といった条項がびっしりと並んでいた。
俺は一通り読み終えると、表情一つ変えずに羊皮紙をテーブルへ放った。
ペラリ、と乾いた音が響く。
「書き直してください」
「……おや?」
ケイルの笑顔が張り付いたまま固まった。
「不服かな? これは商会の標準的な手続きだよ。君たちが開発した技術を我々が買い取る。その対価としての白金貨10枚だ。破格だろう?」
「全ての権利を渡すなら、桁が足りない」
俺は冷めたお茶を一口啜り、静かに告げた。
「この『付帯技術を含む』という一文……つまり、この金額で防錆関係の権利をすべて奪うということですよね?」
「……」
ケイルの目が細められる。
「錆びない鉄は世界を変える。その利益を独占するなら、白金貨10枚なんて挨拶代わりにもなりませんよ」
部屋の空気が冷たく張り詰める。
すると、沈黙を破って「くくっ、がははは!」とアサータクが愉快そうに笑い出した。
「おいおいケイル、悪手だったな。こいつはただの若造じゃねえぞ。その辺の古狸よりよっぽど目が利く」
「……アサータク、この男はいったい?」
「さあな、でもこいつを型通りの契約で縛れるとは思わないことだ」
アサータクはニヤリと笑い、俺にウインクを送ってきた。
俺は小さく肩をすくめ、手近にあった紙とペンを引き寄せた。
「……とはいえ、このまま交渉決裂じゃあ、手ぶらで帰るケイルさんの顔も立たないでしょう。俺たちも、無下に追い返すような真似はしたくない」
さらさらとペンを走らせ、新たな条項を書き込んでいく。
迷いはない。
「こちらの譲歩できるラインを提示します。これでどうですか?」
俺が提示した紙を、ケイルが覗き込む。
「……『防錆加工技術に関する、十カ年独占契約』……?」
「ええ。対象は『防錆技術』のみ。期間は十年間。その間、俺たちは他へ製造法を教えないし、売りもしない。商会の独占権は守られる」
俺はペン先でトントンと紙を叩いた。
「ただし、『開発者本人の個人利用は認める』。俺やサンデルさんが自分の道具を作るのに、いちいち商会の許可なんか取ってられませんからね」
「十年か……。永久譲渡ではないのか」
「十年もあれば十分でしょう? もちろん、十年後にまだ必要なら、その時また改めて契約しましょう」
俺は口の端を吊り上げた。
「もっとも、その頃には俺たちがもっとすごい技術を作ってるでしょうけど」
ケイルはしばらく紙を睨んでいたが、やがて呆れたように深いため息をついた。
「……鍛冶屋の見習いかと思っていたが、とんでもない商売人だな」
「最高の褒め言葉ですね」
「参ったよ。本来、私の一存で商会の定型契約を変えることはできないんだがね……」
ケイルは苦笑しつつも、その瞳には鋭い覚悟の色が宿っていた。
「だが、この条件でねじ込む。……いや、ねじ込んでみせるさ。この『金の卵』をみすみす逃すような真似はできない」
「ありがとうございます。サンデルさん、ここにサインを」
「あ、ああ……よく分からねえが、お前が良いならいいんだな?」
状況についていけないサンデルも、俺に促されるまま署名をする。
俺もその横に名前を書き入れ、即席の契約書が完成した。
ケイルは大切そうにそれを懐にしまうと、満足げに頷いた。
「それじゃあ、私はこれで。次は西の商業都市、レーマネで会おう。君たちが来るのを待っているよ」
ケイルが去った後、工房には俺たちとアサータク、そして白金貨の山が残された。
サンデルは震える手で白金貨を掴もうとし――ピタリと手を止めた。
そして、視線をゆっくりと壁に立てかけられた「黒と銀の剣」へと移す。
沈黙が落ちた。
さっきまでの賑やかな空気は消え失せ、職人の重い空気が満ちる。
サンデルは剣を手に取り、鞘から抜いた。
黒と銀のコントラストが、妖しく輝く。
彼はまるで我が子を抱くように刀身を撫で、そして――。
断腸の思いで、呻くように言った。
「......持ってけ」
サンデルは鞘に収めた剣を、俺に突き出した。
その顔は、身を引き裂かれるような苦渋に満ちているが、目は真っ直ぐだった。
「え......いいんですか? サンデルさんの最高傑作でしょう?」
「......お前の知識のおかげだ」
サンデルがポツリと言う。
「合わせ鋼も、油の焼き入れも、あの黒い煮込みも。お前がいなきゃ、この剣はこの世に生まれなかった。だから、こいつはお前の剣だ」
俺は剣を受け取り、首を横に振った。
「いや、サンデルさんの腕がないと作るのは不可能ですよ。俺は口を出しただけです」
「......ふん、分かってるよ」
サンデルはニカっと笑った。
自分に特別なスキルがあるなどとは夢にも思っていない、しかし自らの腕には絶対の自信を持つ、職人の笑みだ。
「まあ、金はあるからな。また打てばいい」
彼はテーブルの上の白金貨の山を顎でしゃくった。
「材料費の心配はもうねえ。今度はそれよりもすごいのを、時間をかけて打つさ。俺は天才だからな。次はもっと化け物を作ってやる」
そう言うと、サンデルは白金貨の山を無造作に半分に分け、5枚を俺に差し出した。
「じゃ、これを」
俺は、その中から一枚だけを摘み上げた。
「え?」
残りの4枚を、サンデルの手元に押し返す。
「俺はこれで十分です。旅費にしては多すぎるくらいですから」
「おい、バカ言うな。正当な報酬だぞ」
「いいえ、サンデルさんが持っていてください」
俺は腰に差した剣をポンと叩いた。
「俺はこの剣を貰いましたから。それに......」
俺はニヤリと笑った。
「金がなくてすごい剣が打てないなんて、世界の損失です。その金で、また俺が腰を抜かすような『すごい剣』を作ってくださいよ」
サンデルは呆気にとられた顔をしていたが、やがて相好を崩し、嬉しそうに鼻を鳴らした。
「......へっ、生意気なガキだ。いいだろう、約束してやる。次にお前がここに来る頃には、神様でも斬れる剣を用意しておいてやるよ、もうくだらない仕事は、一生しなくていいだろうしな」
俺は一枚の白金貨を懐に入れた。
たった一枚だが、俺にとっては十分すぎる大金だ。
その様子を黙って見ていたアサータクが、呆れたように、しかしどこか楽しげに突っ込んだ。
「......おいアーノル。お前、白金貨でしか商売しねえのか?」
「たまたまですよ」
俺たちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
こうして、長いターマインでの滞在は終わりを告げた。
懐には一枚の白金貨、腰には最強の剣。
俺たちの旅は、とんでもないグレードアップを果たして再開されることになった。




