85.王都の喧騒と、無力な拳
「……アーノル君、そんなに見つめないで。わたくしの肌に穴が開いてしまうわ」
王都へ向かう馬車の中、ピュータさんが頬を赤らめて身をよじった。
俺はただ、彼女の背後にある窓の外を見ていただけなのだが。
「いえ、外の景色を見ていただけですよ」
「まあ、照れ屋さん。素直に『今日の君も綺麗だ』って言えばいいのに。……罪な男ね」
ピュータさんは「やれやれ」といった風に肩をすくめ、また書類仕事に戻った。
勘違いもここまでくると一種の才能だ。
俺は深いため息を噛み殺し、再び窓の外へと視線を逃がした。
やがて、視界を遮るほど巨大な城壁が迫ってきた。
王都だ。
石造りの堅牢な門をくぐると、そこにはコミンの町とは比較にならない、圧倒的な大都市が広がっていた。
見上げるほど高い建物、整備された大通り、そして道を行き交う人々の身なりの良さ。
馬車は、一等地に構える巨大な倉庫の前で停止した。
『ハインツ商会・王都支店』。
アサータクさんは、この巨大な倉庫の一角を間借りしているらしい。
「よし、着いたぞ! みんな、荷下ろしだ!」
アサータクさんの号令で馬車から降りると、そこには既に荷受けの準備を整えた二人の男性が待っていた。
「お疲れ様です、社長。予定より早かったですね」
声をかけてきたのは、三十五歳くらいの渋い男だ。
整えられた髭と、人懐っこい垂れ目が特徴的だ。
もう一人は十八歳くらいの青年で、こちらはキビキビと動きながら頭を下げた。
「お待ちしておりました! 倉庫のスペース、空けてあります!」
アサータクさんが俺に二人を紹介する。
「アーノル、こいつらがうちの優秀な従業員だ。こっちの優男がスネル。交渉ごとはこいつに任せておけば大抵なんとかなる」
俺はこっそりと【見る力】を発動した。
【スネル(35歳)】
能力:話術
「で、こっちの真面目そうなのがポントだ。計算も早いし、商品の管理も完璧だ」
【ポント(18歳)】
能力:商売
「初めまして、アーノルです。よろしくお願いします」
俺が挨拶すると、スネルさんは「噂の天才少年ですね」と柔和に微笑み、ポントさんは「うわあ、本当に子供だ……」と驚いたように目を丸くした。
正直、驚いた。
コミンの店にいる、勘違いお嬢様のピュータさんや、毒舌守銭奴のムトパスとは大違いだ。
まともだ。
アサータクさんの店にも、こんなにまともで優秀そうな従業員がいたなんて。
「さあ、挨拶はそこまでよ! 仕事仕事!」
手を叩いて割って入ったのはピュータさんだ。
彼女は馬車から降りるや否や、大量の帳簿を抱えて倉庫の奥にある事務机へと直行した。
「あらポント、先月の出納帳、ここの計算が銅貨三枚合わないわよ? それとスネル、取引先への礼状、まだ出してないの?」
「おっと、ピュータさんが来ると空気が締まるねぇ」
スネルさんが苦笑いし、ポントさんが慌てて帳簿を確認に走る。
性格はアレだが、ピュータさんの事務能力だけはガチで有能なのだ。
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「さて、俺はこれからハインツ様のところへ行ってくる」
アサータクさんが上着を羽織り直した。
「ハインツ様は王都にはいないだろうが、番頭たちに話を通しておかないとな。これからの商売の種まきだ」
「行ってらっしゃい。……俺はどうすれば?」
「荷下ろしはポントたちがやる。お前は……そうだな、少し遊んできたらどうだ? 田舎から出てきたばかりだ、王都を見て回るのも勉強だぞ」
そう言われても、一人で歩くのは少し心細い。
すると、スネルさんが手を挙げた。
「じゃあ、私が案内しましょうか。ちょうど休憩を取ろうと思っていたところですし」
「助かるよ、スネルさん」
こうして俺は、スネルさんの案内で王都の街へ繰り出すことになった。
王都の大通りは、活気に満ち溢れていた。
スネルさんの案内で市場を回る。
彼の話術は巧みで、露店商とのやり取りを見ているだけでも勉強になる。
「……ん?」
市場の中央広場に差し掛かった時だ。
妙な空気が漂っているのに気づいた。
さっきまでの賑わいが嘘のように静まり返り、人々が慌てて道の端に寄り、頭を下げて蹲り始めたのだ。
まるで、嵐が通り過ぎるのを待つ小動物のように。
「……まずいですね。あの方のお通りだ」
スネルさんの顔色がさっと変わった。
彼は俺の肩を強く掴み、強制的に頭を下げさせた。
「アーノル君、絶対に顔を上げないで。目を合わせちゃいけませんよ」
大通りの真ん中を、我が物顔で歩く集団がいた。
数人の屈強な騎士たちに囲まれ、先頭を歩く一人の少年。
フードも被らず、豪奢な衣装を身に纏い、その腰には不相応に立派な剣を帯びている。
俺は地面を見つめたまま、横目でその姿を盗み見た。
そして、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
忘れるはずがない。
十年前、俺の故郷クルム村を踏みにじった、あの顔だ。
ジャミル・ヨンドカ。
ヨンドカ王国の第二王子。
そして、そのすぐ後ろに控える騎士の顔を見て、俺の奥歯が砕けそうになるほど強く噛み締められた。
セハク。
かつて村に来て、ジャミルの命令で村人を傷つけた近衛騎士だ。
ジャミルは屋台の前で足を止めた。
そこは串焼きを売る小さな店だった。
「……おい」
ジャミルが店主を見下ろすように声をかける。
「は、はいっ! な、なんでございましょうか、殿下!」
店主は地面に額を擦り付けるようにして平伏している。
全身が恐怖で震えているのが見て取れた。
「いい匂いがするな。一つ寄越せ」
「は、はい! 直ちに!」
店主は震える手で、焼きたての串焼きを一番良い皿に乗せて差し出した。
ジャミルはそれを受け取ると、一口かじり――次の瞬間、吐き捨てるように地面に叩きつけた。
「……不味い」
「ひっ……! も、申し訳ございません!」
「家畜の餌か、これは」
ジャミルは懐からハンカチを取り出して口を拭うと、皿を店主に投げつける。
「……行くぞ」
金など払う素振りすらない。
それどころか、自分の不機嫌を撒き散らし、店主の生活の糧をゴミのように扱った。
それでも店主は、お代を請求することなどできなかった。
ただひたすらに、「申し訳ございません、お許しください」と繰り返し、額を地面に打ち付けている。
これが、この国の「法」だ。
王族こそが法であり、彼らが黒と言えば白いものも黒になる。
俺の中で、どす黒い殺意が渦を巻いた。
今すぐ飛び出して、あの喉笛を食いちぎってやりたい。
バテンさんを殺し、村を焼こうとした悪魔が、のうのうと生きている。
俺の手が、震えながら腰のナイフに伸びかける。
「……っ、だめです!」
スネルさんが、俺の手を死に物狂いで押さえつけた。
彼は青ざめた顔で、俺に首を振った。
「……だめだ。ここで動けば、君だけじゃない。アサータクさんも、君の故郷の家族も、みんな殺される」
家族。
その言葉が、熱くなった俺の頭に冷や水を浴びせた。
そうだ。
俺には守るべきものがある。
母さん、父さん、ケニ、ロバーソン……。
俺がここで感情に任せて動けば、セハクの剣が俺の首を刎ね、その報復は確実に村へと向かうだろう。
俺は、無力だ。
白金貨を稼ごうが、便利な道具を作ろうが、この圧倒的な権力と暴力の前では、ただの虫けらに過ぎない。
ジャミルが、俺たちの目の前を通り過ぎる。
奴は俺のことなど見ていない。
道端の石ころ一つに注意を払わないのと同じだ。
俺は、地面に爪が食い込むほど拳を握りしめ、ただ頭を下げ続けた。
屈辱で視界が滲む。
悔し涙が、地面にポツリと落ちた。
「……行きましたね」
ジャミル一行が遠ざかると、スネルさんがほっと息を吐いて俺の手を離した。
俺の手のひらには、爪の跡から血が滲んでいた。
「……アーノル君?」
「……大丈夫です」
俺は顔を上げた。
遠ざかるジャミルの背中を見る。
そうだ。
ここで逆らったところで、何一つ良いことなんてない。
むしろ、最悪の結果を招くだけだ。
家族の笑顔が脳裏に浮かぶ。
彼らの平和な日常を守るためなら、俺一人がこの屈辱を飲み込めばいい。
頭を下げ、泥水をすすることになったとしても耐えるしかないのだ。
「……帰りましょう、スネルさん」
俺は、一度も振り返ることなく歩き出した。
王都の華やかな喧騒の中で、俺は自分のちっぽけさを噛み締めていた。
逆らってはいけない。
目立ってはいけない。
それが、この残酷な世界で、大切なものを守るための唯一の方法なのだから。




