83. 禿鷹と守護者
王宮の回廊を、豪奢な衣装を纏った肥満体の男が機嫌よさげに歩いていた。
王国の西部一帯を支配する実力者、モグロン侯爵である。
彼がすれ違う貴族たちは皆、畏怖と媚びを含んだ視線を送り、深々と頭を下げる。
「ククク……。今日も精が出るな、ヌモン伯爵は」
モグロンは美しく整えられた口ひげを撫でながら、下卑た笑みを浮かべた。
彼の耳には、王の私室から聞こえる狂乱した叫び声が、まるで勝利の凱歌のように心地よく響いていた。
現在の王は、もはや政治を行う機能を持たない廃人だ。
酒に溺れ、ヌモンという佞臣に骨抜きにされている。
だが、モグロンにとってそれは嘆くべきことではない。
むしろ、待ち望んでいた「春」の到来だった。
なぜなら、王位継承順位第一位である第一王子は、モグロンの可愛い孫だからである。
第一王妃の父であるモグロンにとって、王の死はすなわち、自身の絶対的な権力が確立する瞬間を意味していた。
「早く死ね、豚王よ。そして我が孫に、その玉座を明け渡すがいい」
モグロンは窓から王都を見下ろす。
ヌモンが王に麻薬を盛り、死期を早めているなどとは夢にも思っていない。
単に酒浸りで体を壊しているだけだと信じ込んでいるのだ。
(ヌモンの奴、最近は第二王子に随分と肩入れしているようだが……)
ふと、そんな不穏な噂が頭をよぎる。
第二王子の母は隣国マッデン出身であり、ヌモンとの密接な繋がりも囁かれている。
だが、モグロンはすぐに鼻で笑い飛ばした。
「フン、小賢しいネズミめ。まあいい、あやつは強い者につく習性がある。私が実権を握れば、尻尾を振って擦り寄ってくるだろう」
モグロンは自らの権勢と孫の即位を疑わず、忍び寄る破滅の足音に気づくこともなく、満足げに高笑いを上げた。
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一方、王都から遠く離れた東の国境、要塞都市ツカースクン。
冷たい風が吹き抜ける執務室で、眉間に深い皺を刻み、地図を睨みつけている男がいた。
東部の防衛を担うニンサンヨ伯爵である。
「……ガンガラが攻めてくるか、ですか?」
問いかける側近に対し、ニンサンヨは鼻を鳴らして首を横に振った。
「ありえんよ。奴らは好戦的だが馬鹿ではない。今、ガンガラは東の小国ランガと睨み合っている最中だ。いかに小国とはいえ、無視して我が国へ兵を割けば、その背中を突かれることになる。膠着状態だよ」
彼は地図上の国境線を太い指でなぞる。
この微妙な均衡が崩れない限り、ヨンドカへの大規模な侵攻はない。
それがニンサンヨの冷静な分析だった。
「私が懸念しているのは、外敵よりも内患……王都の腐敗だ」
ニンサンヨは地図から目を離し、窓の外へ視線を投げた。
王宮には寄り付かずこの要塞に篭っているが、各地に散らばる盟友たちのことは常に気にかけている。
「ゴーロック男爵からの定期報告は?」
「はっ。任地の町にて、滞りなく統治を行っているとのことです」
「そうか。あの堅物がいてくれれば、あちらの治安は盤石だな」
ゴーロック男爵。
かつて共に戦場を駆け抜けたニンサンヨの戦友であり、現在は別の町を治める領主だ。
武勇に優れ、忠義に厚い男だが、彼には少しばかり気がかりな種があった。
それは、三人の子供のうちの長男のことだ。
長男は生まれつき体が弱く、空気の淀んだ街中では体調を崩しやすい。
そのため、空気の澄んだ南の辺境、クルム村へ代官として赴任させ、療養も兼ねて静かに暮らさせているのだ。
「クルム村か……。あそこには、私の腹心であるバズを行かせているんだったな」
ニンサンヨは苦笑した。
バズはこの要塞でも五指に入る猛者であり、ニンサンヨが最も信頼を置く部下の一人だった。
だが、ゴーロックとも縁の深いバズは、親友の長男が辺境へ行くと知るや、「体の弱い坊ちゃん一人に任せてはおけません! 私が守ります!」と自ら志願。
片田舎の砦の兵士長へと、自ら降格していったのだ。
「心配性の馬鹿者め。だが、バズがついているなら、ゴーロックの息子も安心だろう」
王都は腐敗し、王は狂っている。
だが、信頼できる絆はまだ残っている。
ニンサンヨは東の空を見上げ、遠く離れた戦友と、部下が守る小さな村の平穏を静かに祈った。




