82. 檻の中の獅子、あるいは豚
ヨンドカ王国の朝は、皮肉なほど爽やかに明けていた。
窓から差し込む眩しい陽光が、淀んだ空気が充満する王の私室を無遠慮に照らし出している。
「酒だヌモン! 酒を持てぇ! 今すぐだ!!」
獣のような咆咆が朝の静寂を引き裂く。
豪奢な絨毯の上には、高価な調度品が散乱していた。
その中心で、歪んだ肉塊のように玉座へ沈み込んでいる男こそが、ヨンドカ国王その人である。
かつては精力的で残虐な暴君として恐れられた男も、今や薬と酒に溺れた醜い中毒者でしかなかった。
「ただいま、陛下」
静かに現れたのは、ヌモン伯爵であった。
彼は恭しく一礼し、手にした盆には、美しい琥珀色の液体が入ったボトルと、最高級のグラスが載せられている。
中身は「クルムの琥珀」。
かつてアーノルが作り出し、アサータクが流通させた最高級の酒だが、今や市場でこれを見ることはない。
なぜなら、ヌモンがそのすべてを根こそぎ奪い去ったからだ。
「遅いぞヌモン! 貴様の注ぐ酒でなければ、味がせんのだ!」
「申し訳ございません。陛下の高貴な喉を潤すに足る温度になるまで、少々手間取りました」
本来、一介の貴族が王のグラスに直接酒を注ぐことなど許されない。
毒見役を通し、侍従が注ぐのが法である。
だが、現在のヨンドカにおいてヌモンだけは例外だ。
彼は王から「直々にグラスへ酒を満たすこと」を許された唯一の存在となっていた。
ヌモンはグラスを手に取ると、王に見えぬ角度で、自然な動作で袖口をかざした。
その一瞬、袖の裏に隠された極小の小瓶から、白い粉末がサラリとグラスの底へ落ちる。
それは、隣国「マッデン」にて秘密裏に精製された、極めて純度と依存性の高い麻薬だった。
なぜ一介の伯爵が、隣国の極秘の毒を入手できるのか。
それこそが、ヌモンの政治力の源泉だ。
小国マッデンが、強国ヨンドカの隣で生きながらえている唯一の理由――それは、現在の「第二王妃」がマッデンの王女だからである。
当時、弱小国の王女がヨンドカ王に嫁ぐなど不可能とされていた。
だが、ヌモンは莫大な金とコネを使い、王宮の深部にまで根回しを行い、強引にこの婚姻を取り計らったのだ。
ヌモンはマッデンに対し、国が存続できるほどの巨大な「恩」を売った。
それ以来、マッデン王家はヌモンの言うことなら何でも聞く忠実な犬となり、この禁断の薬もまた、その忠誠の証として届けられていた。
「さあ、陛下。素晴らしい朝の目覚めを」
「う、うむ......!」
王は引ったくるようにグラスを奪い、一息に煽った。
瞬間、王の瞳孔が開き、顔が恍惚に歪む。
マッデンの秘薬がもたらす爆発的な多幸感が、脳の血管を駆け巡り、理性を焼き尽くしているのだ。
「くぅぅぅ......これだ、これこそが王の酒よ......! ヌモン、やはり貴様は天才だ!」
ヌモンは表情を変えず、空になったグラスに次を注ぐ。
彼の脳裏に、この「特権」を手に入れた、あの血塗られた日の記憶が蘇る。
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事の発端は数年前。
商業都市レーマネから新しく献上された酒だった。
その酒は、驚くほど口当たりが良く飲みやすいにもかかわらず、極めて度数が高いという危険な代物だった。
王はその飲みやすさを気に入り、まるで水のようにガブ飲みするようになった。
当然、体は蝕まれ、またたく間に重度のアルコール依存へと堕ちていった。
その様子を冷ややかな目で見つめていたのが、ヌモンである。
(このままいけば、王は酒で早死にする......)
そう確信した時、ヌモンの脳裏に一つの絵図が浮かんだ。
王位継承争いだ。
正当な後継者は第一王子だが、ヌモンが目をつけたのはマッデンの血を引く第二王子だった。
ヌモンはマッデンと密かに手を組み、王の病死と、第一王子の「不遇の死」を画策。
第二王子を玉座に据えることで、莫大な権益を得ようと企てたのだ。
計画は順調に進むかに見えた。
しかし、誤算が生じる。
レーマネからの酒の供給が滞り始めたのだ。
「酒が違う! これではないわ!!」
禁断症状に陥った王が狂乱した。
給仕の首が次々と飛び、城内が血の海となる中、ヌモンは部下からの報告で「クルムの琥珀」の存在を知った。
だが、その酒はすでに商人の手によって売却され、王都には残っていなかった。
(ならば、根元から奪うまで)
ヌモンは即座に、産地であるクルム村への「接収」を決めた。
その時だった。
「僕も行くよ。父上への最高の献上品になるんだろう?」
聞きつけた第二王子が、勝手気ままに同行を言い出したのだ。
本来なら邪魔なだけだが、ヌモンは瞬時に計算した。
(王が苦しんでいる時に、王子自らが酒を持ち帰る......これは絶好の点数稼ぎになる)
「素晴らしいお考えです殿下。ぜひ、父君のために」
こうして、王子の権威を借りた一行はクルム村へとなだれ込んだ。
彼らは問答無用で村の酒蔵を制圧し、熟成中の酒樽すべてを接収した。
それだけではない。
「今後、この酒を我々の許可なく作ることはまかりならん」
ヌモンは村での生産を禁じ、あろうことか酒造りに関わっていた職人や生産者たちを強引に拉致し、王都へと連れ去ったのだ。
生産拠点も、技術者も、在庫も。
すべてを物理的に「掌握」することで、ヌモンは完全な独占体制を敷いたのである。
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そして、持ち帰った酒を王に捧げたあの瞬間。
部屋には、斬り殺されたばかりの侍従の死体が転がっていた。
王は血走った目で剣を握りしめ、荒い息を吐いている。
ヌモンが酒瓶を持って進み出ると、長年仕える老齢の毒見役が、震える体でヌモンの前に立ちはだかった。
「お、お待ちくださいヌモン様......! 陛下のお口に入れる前に、まずは私が毒見を......」
毒見役の手が、ヌモンの持つグラスへと伸びる。
だが、その手がグラスに触れることはなかった。
「邪魔だあぁぁぁッ!!」
ザンッ!!
王の剣が閃き、毒見役の身体が斜めに両断された。
鮮血が床にぶちまけられ、ヌモンの頬にも生温かい飛沫がかかる。
「毒見などいらん! 早く酒をよこせ! さもなくば貴様も斬るぞ!!」
狂乱する王を前に、周囲の兵士すら腰を抜かして動けない。
だが、ヌモンは動じなかった。
いや、恐怖で動けなかった体を、必死の理性で「不動」に見せたのだ。
彼は血の海を踏み越え、王の目の前まで歩を進めた。
「......どうぞ、陛下」
ヌモンは、本来なら許されざる行為――王の持つグラスへ、直接ボトルから酒を注いだ。
あれは人生最大の賭けだった。
まだ薬など混ぜていない、純粋な酒の味だけが頼りだった。
「......うまい」
一口飲んだ王が、正気を取り戻したように呟いたあの一言。
それ以来、王はヌモンが注ぐ酒には毒味をしなくて良いとした。
もちろん毒味役もそれに意見を言うことはできず、王はヌモンの作る酒しか飲まなくなった。
あれが、ヌモンがこの国の影の支配者となった瞬間だった。
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「陛下、素晴らしい飲みっぷりでございます。......さて、私はこれより政務がございますゆえ」
「おう、行け。......ヌモン、酒を切らすなよ。絶対にだぞ」
「御意に」
ヌモンは深く一礼し、部屋を後にした。
廊下に出た瞬間、彼の口元には冷ややかな嘲笑が浮かんでいた。
絶対的な防御を誇る王も、その実は、ヌモンが与えるマッデンの毒と、ヌモンが管理する酒がなければ一日たりとも生きられない。
「檻の中の獅子......いや、ただの豚か」
ヌモンは足早に歩き出す。
彼の描く「王位簒奪」のシナリオは、琥珀色の酒と共に、着実に進行していた。




