81. 聖約の裏側
ポルム教国の象徴である白亜の城壁が見えてくると、巡回神父のエラムは安堵のあまり大きく息を吐いた。
地方の村々、特に管理対象者が住む辺境を回る旅は、精神をすり減らす業務の連続だったからだ。
教団本部にある自室に戻り、清潔な衣服に袖を通そうとした時、ポケットからくしゃくしゃになったメモ用紙が落ちた。
『ソーコ村近郊、若者アーノル。「禁忌の言葉」を使用した疑い』
エラムは着替えの手を止め、震える指先でその文字をなぞった。
その言葉――「魔法」。
それは教団が数百年をかけて歴史の表舞台、おとぎ話、民間の伝承に至るまで、あらゆる場所から徹底的に削り落とし、消し去った概念だ。
普通の平民であれば、その音の響きに接する機会すら一生に一度もない。
エラム自身、神父になるための極秘講義において、厳重な結界の中で一度だけ、講師が血の気の失せた顔で発したのを聞いただけだった。
(……いや、ありえない。聞き間違いだ。そうに決まっている。そもそも、そんな言葉を、なぜ名もなき辺境の若者が知っている?)
自信は微塵もなかった。
おとぎ話にすら残っていないその言葉を、若者が口にした。
それが真実なら、世界の根幹が揺らぐほどの異常事態だ。
自分は風の音か、あるいは極限の疲労が見せた幻聴を聞いただけではないのか。
もし聞き間違いでないのなら、狂っているのは自分の方だ――。
「……だが、万が一ということもある」
エラムは覚悟を決め、震える手で「不確定な報告」として書面をまとめ上げた。
******
「ご苦労だったね、エラム神父」
報告を受けたのは、司祭のヨカジンだった。
ふくよかな体型と、常に絶やさない柔和な笑み。
教団内でも人格者と慕われる男だ。
ヨカジンは報告書に目を通していたが、ふと手を止め、穏やかな瞳でエラムを見据えた。
「ここに書かれている『禁忌の言葉』。君自身、確信が持てないと注釈があるが……具体的に何と聞こえたのかね?」
エラムの喉がひゅっと鳴った。
「あ、あの……それは……本当に、ただの空耳だった可能性が非常に高く……。相手も、それが何を意味するかなど分かっていなかったはずです。そもそも、存在するはずのない音なのですから」
ためらうエラムに対し、ヨカジンは逃げ場を塞ぐように、しかし優しく諭した。
「私ヨカジンの名と責任において、一度だけその言葉を発することを許します。さあ」
エラムはごくり、と唾を飲み込んだ。
「……ま、ほう……と直感したのです。そのように聞こえた……気がしたのです」
ヨカジンはゆっくりと頷き、満足げに微笑んだ。
エラムが逃げるように退室すると、ヨカジンの顔から笑みが消えた。
彼は報告書を脇に抱え、教皇の執務室へと向かった。
******
「失礼いたします」
入室したヨカジンを待っていたのは、教皇と、退屈そうに焼き菓子を摘む聖女ハキネだった。
「報告を」
「はい。まず、例の二歳になる管理対象の男児ですが、順調に生育しております」
「男か……。三歳になったら一度、神殿の適格者と共に検査をさせろ。数値が高ければ次代の『種』として確保する」
教皇の指示を受け、ヨカジンは一拍置いてから、もう一つの報告へ移った。
「承知いたしました。……ですが閣下、それとは別に一点。ソーコ村近郊にて、アーノルという若者が『禁忌の言葉』を使ったとの報告が入っております」
その言葉に、教皇の表情が凍りついた。
ハキネが菓子を運ぶ手も止まる。
「『魔法』か。なぜそのような、概念すら抹消したはずの言葉が、何の関係もない若者の口から出る……」
教皇は椅子に深く腰掛け、鋭い眼光を向けた。
「ヨカジン、クルム村のガヴァンに直ちに書状を送れ。その若者が何者であるか、そして本当にその言葉を口にしたのか、真偽を確かめさせろ」
教皇の声に、隠しきれない殺気が混じる。
「もし事実であれば、その時は『根』から断たねばならん。どこからその言葉が漏れ出し、誰が吹き込んだのか、徹底的に調べ上げて情報の本を探り出すのだ。この世に存在してはならぬ概念を、再び芽吹かせるわけにはいかん」
その決定を、ハキネは鼻で笑った。
「あ? いいんじゃない。ガキの世迷い言でしょ。ま、ガヴァンに見に行かせりゃハッキリすんじゃないの」
ハキネは興味を失ったように菓子に手を伸ばしたが、その瞳にはわずかに冷ややかな光が宿っていた。




