77. 臆病な少女と、優しすぎる嘘
アーノル君の背中が、逃げるように小さくなっていく。
私は彼が落としていったブラシを拾い上げ、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「……言っちゃった」
私の唇から、渇いた言葉がこぼれ落ちる。
『ごめんね。それは、困るわ』
その言葉を聞いた時の、彼の絶望に染まった顔が脳裏に焼き付いている。
胸が痛い。
心臓が早鐘を打ったまま、静まる気配がない。
本当は、嬉しかった。
「結婚してください」と言われた瞬間、頭の中が真っ白になって、それから体温が一気に上昇するのが分かった。
アーノル君。
不思議な男の子。
最初は、口の上手いお調子者だと思っていた。
でも、彼は違った。
彼が持ってきた『ミネラル・ブロック』は、父さんも認めざるを得ないほど画期的で、何より馬たちへの深い愛情と観察眼がなければ作れないものだった。
私の愛馬『疾風』が、彼に懐いた時から、私の中で彼は特別な存在になっていた。
何度も牧場に通ってくれて、その度に新しい知識を教えてくれる。
私の拙い話を、楽しそうに聞いてくれる。
いつしか私は、彼が来る日を指折り数えて待つようになっていた。
だから。
彼が「遠くへ行くかもしれない」と言った時、心臓が凍るかと思った。
レーマネ。
西の大都市国家。
そこに行けば、もう滅多に会えなくなる。
でも、同時に思ったのだ。
ああ、やっぱり、と。
彼は、こんな田舎の牧場で埋もれているような人じゃない。
その知識も、発想も、世界へ羽ばたくべき才能だ。
彼がレーマネに行けば、きっと歴史に残るような偉大な発明家になるだろう。
それなのに、彼は言った。
「迷っている」と。
その迷いの理由が……もし、私にあるのだとしたら。
『結婚してください』
その言葉は、私にとって甘美な誘惑であると同時に、残酷な鎖だった。
もし私がここで「はい」と言ってしまえば、彼は行かないだろう。
私のためにこの村に残り、その才能を小さな幸せの中に閉じ込めてしまうことになる。
それは、ダメだ。
馬の才能を見抜き、伸ばすのが私の仕事だ。
なら、人の才能だって同じだ。
彼のような人が、私のせいで空を飛ぶのを諦めるなんて、あってはならない。
だから私は、精一杯の強がりで、突き放した。
『それは、困るわ』
あなたが夢を諦めるのは、私にとって困るの。
あなたが才能を腐らせるのは、世界にとって困るの。
……言葉足らずだったかもしれない。
でも、今の私には、あれが精一杯だった。
「……ユーイ」
背後から、低い声がした。
振り返ると、父さんが腕を組んで立っていた。
いつからそこにいたのだろう。
「……あいつ、泣きそうな顔で走っていったぞ。振ったのか」
「……うん」
私はブラシを握りしめたまま頷いた。
「嫌いなのか?」
「……ううん」
首を横に振ると、父さんは大きなため息をついた。
「お前も、不器用な奴だな」
父さんは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、その大きな手で、ポンと私の頭を撫でてくれた。
その温かさに触れた瞬間、堪えていたものが溢れそうになった。
「……行ってほしいのよ、父さん」
私は震える声で言った。
「アーノル君には、広い世界を見てきてほしいの。すごい人になってほしいの。だから……これでいいの」
そう言い聞かせなければ、今すぐ彼を追いかけて「嘘よ!」と叫んでしまいそうだった。
馬たちが、心配そうに私を見ている。
私は涙を拭い、無理やり口角を上げた。
「さあ、仕事に戻らなきゃ。……まだ、ブラッシングの途中だもの」
私はブラシを動かし始めた。
でも、手元は狂ってばかりだった。
馬鹿なアーノル君。
私のことなんて忘れて、早くレーマネに行っちゃえばいい。
そして、いつかすごい発明家になって、誰もが知るようなすごい人になればいい。
そうすれば私は、自慢できるから。
「私を口説こうとして失敗した、可愛い男の子がいたのよ」って。
秋風が吹く牧場で、私は一人、終わってしまった初恋の痛みを噛み締めていた。




