68. 臆病な相棒と、禁忌の単語
街道を進む俺たちの耳に、シニカの講釈が響き続けていた。
「いいかアーノル、馬ってのはな、とんでもなく『臆病』な生き物なんだ」
シニカは手綱を握り直し、前を見据えたまま語り始めた。
「風で揺れる葉っぱ一枚にもビビる。足元の影にも怯える。だからこそ、乗り手が『ボス』じゃなきゃならねえ。恐怖で支配するか、信頼で従わせるか。どっちにしろ、お前が絶対的な上位に立たなきゃ馬は動かねえんだよ」
シニカの言葉には、長年の経験に裏打ちされた重みがあった。
だが、俺は愛馬の首筋を撫でながら、静かに口を開いた。
「確かに、馬は臆病ですね。……でも、だからこそ『賢い』んじゃないですか?」
「あぁ?」
シニカが怪訝そうに振り返る。
「臆病だからこそ、彼らは広い視野を持って、常に危険を察知しようとしている。彼らが乗り手に求めているのは、命令する『ボス』じゃなくて、自分の死角を守ってくれる『群れの仲間』なんじゃないですかね」
俺はシニカの馬に視線をやった。
「シニカさんの馬、さっきからあなたの視線の先にある障害物を、あなたが手綱を引く前に避けてますよ。あなたが気づかない危険を、彼が代わりに避けてくれてるんです。……臆病で優しい、いい相棒じゃないですか」
シニカは虚を突かれたように口を開け、それから自分の馬の耳元をじっと見た。
馬がブルルと鼻を鳴らし、主人の手に鼻先を擦り付ける。
「……ふん。口の減らないガキだ」
シニカはぶっきらぼうに吐き捨てたが、その手つきは、さっきよりも少しだけ優しく手綱を握っていた。
トニカが「よかったね、父さん」と小声で笑い、ガリオンは我関せずといった様子で黙々と歩を進めている。
そんな穏やかな道中が半日ほど続いた頃だった。
街道の脇に、一台の馬車が停まっているのが見えた。
飾り気のない、質素な馬車だ。
車体には控えめにポルム教の紋章が描かれている。
その傍らで、一人の若い男がオロオロと馬の周りを回っていた。
簡素な法衣をまとった、まだ年若い神父だ。
「ど、どうしよう……急に動かなくなって……」
神父は半泣きになりながら、立ち往生した馬を見上げている。
シニカが馬を止めて降り立った。
「どうした、兄ちゃん。馬が動かねえのか?」
「あ、はい! 旅の方ですか? 急に馬が脚を上げて動かなくなってしまって……祈りを捧げても届かなくて……」
「祈りで馬が歩いたら苦労しねえよ」
シニカはため息をつき、素早く馬の様子を観察した。
そして、馬の右前脚に視線を固定する。
「おいガリオン、ちょっとこいつの頭を押さえて、脚を上げさせろ」
「ああ」
ガリオンが無言で馬の首元を掴み、巨体で壁のように馬を安定させる。
そして太い腕で右前脚をグイっと持ち上げた。
シニカが地面に這いつくばるようにして、蹄の裏を覗き込む。
「……やっぱりな。何か踏んでやがる」
シニカの言葉が終わるか終わらないかのうちに、息子のトニカが動いた。
背負っていた布袋から、ペンチのような道具とヘラを取り出し、父親の手にパシリと渡す。
まるで長年連れ添った職人のような連携だ。
「よし……じっとしてろよ」
シニカは道具を蹄の溝に差し込み、一気に力を込めた。
ガキン、と硬い音がして、鋭利な石の欠片が引き抜かれた。
「ふぅ……浅いな。これなら大丈夫だ」
シニカが呟くと、トニカがすかさず別の袋から塗り薬の瓶と、清潔な布を取り出した。
シニカは手際よく薬を患部に塗り込み、蹄を避けるように布を巻き付け固定する。
「これでとりあえず大丈夫だろう。帰ったら、また馬が分かる奴に見せるんだな」
シニカが立ち上がり、泥を払った。
馬は痛みが引いたのか、安堵したように脚を下ろした。
「あ、ありがとうございます! な、なんと素晴らしい……! ぜひお礼をさせてください!」
神父が財布を取り出そうとするが、シニカは手を振って断った。
「馬が無事なら、それでいい。それより兄ちゃん、ちゃんと足元を見て歩かせてやれ。馬は乗り手を信じて歩いてるんだからな」
「は、はい! 肝に銘じます!」
神父は深々と頭を下げた。
俺はその一連の流れを見て、思わず感嘆の声を漏らした。
「すごいな……。シニカさんもトニカも、今の連携、魔法みたいに見事だったよ」
俺の言葉に、その場にいた全員が一瞬だけ動きを止めた。
「……マホウ?」
トニカが小首を傾げる。
シニカも呆れたように肩をすくめた。
「なんだそりゃ? また訳の分からねえ造語か? ほら、行くぞアーノル。日が暮れちまう」
「あ、いや……なんでもないです」
俺は苦笑いで誤魔化した。
神父はまだ馬の心配をしているのか、それとも先を急いでいるのか、俺の言葉には反応せず、ただ慌ただしく頭を下げて馬車へと乗り込んだ。
「ご親切に感謝します! 急ぎますのでこれで!」
馬車は砂煙を上げて去っていった。
「変な兄ちゃんだな。さあ、俺たちも行くぞ」
シニカの号令で、俺たちも再び馬上の人となった。
だが、その背後で。
遠ざかる馬車の中、御者台に座る神父の表情が、次第に強張っていくのを俺たちは知らなかった。
馬の安否とスケジュールの遅れで頭がいっぱいだった神父の脳裏に、先ほどの少年の言葉が遅れて蘇る。
『魔法みたいに見事だったよ』
神父の手綱を握る手が止まった。
魔法。
一般の民が知るはずのない言葉。
古代の邪悪な力として、徹底的に排除すべき「禁忌」として習った言葉だ。
教団に所属するものも口にしてはいけないと教えられる。
「……まさか」
神父は独りごちた。
ただの言い間違いか、どこかで聞きかじった音の響きを真似しただけかもしれない。
だが、あの少年はあまりにも自然に、その忌むべき言葉を口にした。
神父は不勉強な身だ。
まだ正式な司祭への階段を上り始めたばかりで、判断に自信はない。
しかし、胸の奥に引っかかるものがあった。
彼は懐から手帳を取り出し、揺れる馬車の上で、震える筆先を走らせた。
『ソーコ村近郊、15歳の若者アーノル。「禁忌の言葉」を使用した疑い』
走り書きのメモ。
神父にとっては、念のための備忘録に過ぎなかった。
だが、この些細な記録が、やがて教会の異端審問官の目に留まることになる。
平穏な日常が崩れ去るカウントダウンは、この時、静かに始まっていたのだ。




