66. 土に還る、種を遺す
クルム村に戻ってからのバテンは、村人たちの献身的な介抱によって、驚くほど穏やかな顔つきを取り戻していました。
しかし、その体は枯れ木のように軽く、彼自身も、そして周囲の者たちも、残された時間がそう長くはないことを悟っていました。
ある静かな昼下がり。
バテンは枕元にガリオンを呼びました。
「ガリオン。……少しの間、お前の息子を貸してくれんか」
「……ええ。お使いください。あいつは、あなたの弟子ですから」
ガリオンは全てを察し、深く頭を下げました。
その日から、バテンの寝床は「教室」へと変わりました。
アサータクが用意した上質な紙とペン。
バテンはベッドに体を預けたまま、掠れそうになる声を、それでも叱咤するように絞り出します。
「……おい、アーノル。手が止まってるぞ。根腐れした時の対処法だ。さっさと書かんか」
「書いてるよ! 待ってくれ、インクが追いつかないんだ」
「ふん、言い訳するな。……いいか、表面が乾いていても地中が湿っている場合だ。そこを見抜くには……」
「葉の色を見る、だろ? 葉脈が黄色んでいたら……」
「……半正解だ、馬鹿者。茎の根元だ。そこが黒ずんでいないかを見るんだ。……ほら、書け。俺がくたばる前に、全部吸い取らんか」
「わかったよ、じいちゃん」
それは、看病というよりは、スパルタ授業でした。
バテンは苦しい息の下から、知識の欠片を次々と投げつけ、アーノルは涙を拭う暇もなく、必死にペンを走らせてそれに食らいつきます。
窓の外から、野太い声が響きました。
ロバーソンです。
彼は畑仕事の手を止め、窓枠にひょいと肘をかけて顔を出しました。
「バテン爺さん。肥やしを撒いたんだが、どうも土が硬いままだ。もっと力任せに耕した方がいいか?」
「……馬鹿者。お前はすぐに筋肉に頼ろうとする」
バテンは呆れたように笑い、咳き込みながら答えました。
「力じゃない、空気だ。……土の中にミミズが通るような隙間をイメージして、優しく掘り返せ。……お前の槍さばきと一緒だ。力むと、良い仕事はできんぞ」
「……なるほど。槍と一緒か。分かりやすいな」
ロバーソンはニカっと笑い、「長生きしくれ」と言い残して、また畑へと戻っていきました。
その部屋には、湿っぽい死の気配ではなく、知識を受け渡す情熱と、生きるための営みが満ちていました。
日が変わるごとに、多くの村人たちが訪れました。
ドンナとルンナは野の花を飾り、アサータクは黙ってインクを補充しました。
誰もがバテンに触れ、声をかけ、感謝を伝えました。
そして、その時はやってきました。
全ての知識を書き記し終えた夕暮れ時。
部屋には夕日が差し込み、塵が黄金色に舞っていました。
枕元にはアーノルと、彼の手を握りしめるケニ。
そしてガリオンやアサータクたちが見守っています。
バテンは、書き上がったばかりの分厚い束を、震える手で撫でました。
「……ふぅ。これで全部だ。……俺の頭の中は、すっかり空っぽになっちまった」
「じいちゃん……」
アーノルが筆を置き、バテンの顔を覗き込みます。
バテンはゆっくりと視線を巡らせ、アーノルとケニの顔で止めました。
そして、いつもの皮肉屋の顔ではなく、とても穏やかな、柔らかな笑みを浮かべました。
「アーノルよ。……お前があの時、俺の畑に来なければ、俺はこんな苦しみも味わわずに済んだかもしれん」
バテンの言葉に、アーノルは息を呑みました。
牢獄での苦痛。
それは紛れもなく、アーノルとの関わりが招いたものでした。
しかし、バテンは続けて首を横に振りました。
「だがな……。お前が来なければ、これほどの喜びも、幸せもなかっただろう。……孤独な偏屈じじいのまま、誰にも看取られず死んでいったはずだ」
バテンの手が、アーノルの頬に触れました。
土仕事で節くれだった手は、温かいものでした。
「お前は……お前たちは、俺の孫も同然だ」
ケニが「うぅ……っ」と声を漏らして泣き出し、バテンの胸に顔を埋めました。
バテンは優しくその髪を撫でながら、天井の染みを、いや、その向こうにある空を見つめるように目を細めました。
「あぁ……満足だ……」
バテンは深く、長く息を吐き、最後にアーノルの目を真っ直ぐに見つめました。
「……良く、生きよ」
その言葉は、命令でも願いでもなく、確信に満ちた祝福のようでした。
バテンはゆっくりと瞼を閉じました。
握っていた手の力が抜け、穏やかな寝息すら聞こえてこなくなります。
まるで、愛した土へと還るように。
静かに、静かに、農王バテンは旅立ちました。
「……お疲れ様でした、師匠」
アーノルは溢れる涙を拭おうともせず、バテンの手を両手で包み込み、深く深く頭を下げました。
夕日が沈みきるその瞬間まで、部屋は温かい涙と、感謝の静寂に包まれていました。




