64.幻の酒と苦い祝杯
村に静かな夜が訪れていた。
表向きにはただの夜だが、今夜、バテンの家にはこっそりと主要なメンバーが集まっていた。
主賓はもちろん、地獄のような拷問から生還し、ようやく起き上がれるまでに回復したバテンだ。
その周りを、息子の商人アサータク、俺の父であるガリオン、狩人のチャムソン、皮職人のブンカカ、そして鍛冶師のガンダルといった、この村の「大人たち」が囲んでいる。
かつてアサータクの悪友だったチャムソンやブンカカ、そして不当に連行されていたガンダルも、今は憑き物が落ちたような顔で車座になっていた。
「……まさか、こんな日が来るとはな」
バテンが感慨深げに呟く。
頬はまだこけているが、その目には確かな生気が戻っていた。
俺は部屋の隅に隠しておいた、土にまみれた小さな樽を取り出した。
「今日はバテンさんの快気祝いだ。とっておきを開けるよ」
その言葉に、大人たちの目が輝く。
「おいおい、アーノル。まさか『あれ』か?」
アサータクが身を乗り出す。
「そう。最初に作って、隠しておいたやつだ。しばらく寝かせておいたんだよ」
「おおっ! 寝かせるとさらに美味くなるという、あの話か!」
皮職人のブンカカが喉を鳴らし、鍛冶師ガンダルもゴクリと唾を飲み込んだ。
あの騒動の発端となり、村を救いもした「琥珀酒」。
出来立てであれだけ美味かったのだ。
「それがさらに美味くなるとすれば……一体どんな味になるんだ」
期待値は天井知らずに跳ね上がっていた。
俺は勿体ぶって樽の栓に手をかけ、慎重に開けた。
ポン、という小気味よい音。
その瞬間。
「……ん?」
鼻の利くチャムソンが、眉をひそめて鼻をヒクつかせた。
「なんだ、この匂い……酸っぱいぞ?」
「馬鹿言え。熟成された芳醇な香りってやつだろ」
アサータクが笑い飛ばし、それぞれの器にトクトクと琥珀色の液体を注いでいく。
色は美しい。
夕日を溶かし込んだような黄金色だ。
「それじゃあ、バテンの帰還と、俺たちの生き残りに……乾杯!」
「乾杯!!」
大人たちが一斉に器を煽った。
俺とロバーソンも、少しだけ舐めるように口をつける。
一瞬の静寂。
その直後、全員の顔が梅干しを食べたようにひしゃげた。
「ぶッ!!?」
「す、酸っぺぇぇぇ!!」
「なんだこれ! 腐った果物か!?」
ガリオンもチャムソンも、あまりの衝撃に吹き出しそうになるのを必死でこらえている。
俺も口の中に広がる強烈な酸味に顔をしかめた。
(……なんでだ?)
俺は首を傾げた。
ウィスキーやワインは、寝かせることで美味しくなるはずだ。
なのに、なぜこれはただの酸っぱい水になってしまったんだ?
蒸留してないからか?
いや、でもワインは醸造酒のはずだ。
蒸留しなくても熟成されている。
俺の前世の知識なんて、所詮はその程度だった。
「蒸留して樽で寝かせれば美味くなる」という聞きかじりの知識しかない。
ワインが蒸留せずともそれなりに高いアルコール度数を持つ方法や、長期熟成に耐えるための繊細な条件など、知る由もなかったのだ。
(……次は、蒸留しよう)
俺はそう心に決めた。
とりあえずアルコール度数を上げれば、腐ることはないはずだ。
「失敗だね。どうやら、長く寝かせすぎて酢になっちゃったみたいだ」
本当なら腐っていてもおかしくない年月だった。
酢で済んでいたのはバテンの作ったライ麦の力かもしれない。
俺が説明すると、バテンが器の中の「酢」をまじまじと見つめた。
そして、ポツリと言った。
「……これをヌモン伯爵に提案していたら、今頃わしの首は胴体とさよならしていたな」
その言葉に、一拍置いてから、どっと笑いが爆発した。
「違いない! 『き、貴様ァ! 私を謀ったな!』ってな!」
ブンカカが腹を抱えて笑い転げる。
「いやぁ、危なかった。わしたちが命がけで作ったのが、この酸っぱい水じゃなくて本当によかった」
ガンダルも涙を流して笑っている。
笑い事ではないはずだ。
彼らは理不尽に捕まり、殴られ、死の淵を見た。
仲間の中には、帰ってこられなかった者もいる。
けれど今、こうして不味い酒を囲んで笑い合えている。
「……不味いな。本当に不味い」
バテンは、酸っぱい液体をもう一口飲み干すと、ふぅと息を吐いた。
「だが、生きてなきゃ、不味いとも言えん」
その言葉に、場が静まり、優しい空気が満ちた。
「そうだな」
父ガリオンが、太い指で器を弄びながら呟く。
豪華な料理も、極上の美酒もない。
あるのは酸っぱくなった失敗作の酒と、生き残った傷だらけの男たちだけ。
それでも、この夜の宴は、どんな王侯貴族のパーティよりも温かかった。
翌日腹を壊した人が数人いた。




