51. 鉄の窪みと、静かな恐怖
今日は10日に一度、村全体が休息をとる日だった。
朝、霧が晴れぬうちにアーノルはマンダルのもとへ駆け込んだ。
昨夜、納屋で一人実験を繰り返していたため、目の下には薄い隈ができている。
その様子を見たマンダルは、誰もいない作業場で道具の手入れをしながら目を丸くした。
「おいおい、せっかくの休みなのにどうしたんだ? 昨日のクズ石なら、まだ裏に山ほどあるぞ」
「マンダル、頼みがある。この石を、正確な『球体』に削り出してほしいんだ」
アーノルが布に包んだ紫の石を差し出すと、マンダルは顔をしかめて首を横に振った。
「無理だ。昨日も言ったろ? こいつはガラスみたいに脆いんだ。ヤスリをかければポロポロ崩れるし、強く叩けば粉々になる。精密な球になんてできっこない」
職人の卵であるマンダルの言葉は重かった。
だが、アーノルは昨夜の実験で、ある確信を掴んでいた。
「普通に削るんじゃないんだ。マンダル、これを見てくれ」
アーノルは、家から持参した小瓶と小皿を取り出した。
中身は、母が鍋の焦げ付きを落とすのに使っている「木の実の搾り汁に塩を混ぜた洗浄液」だ。
だが、色は昨夜と同じように赤黒く濁っている。アーノルが来る直前に、自分の指から血を混ぜてきたのだ。
驚くマンダルの前で、液体を皿に注ぎ、そこへ石を浸す。
ギャリリリリッ!
激しい音が響き、石が皿の中で自転を始め、陶器の肌を削るような音を立てた。
「……な、なんだこれ!? 石が勝手に回ってるのか!?」
「ああ。この石はある特定の液体に触れると自ら回る。削るんじゃなくて、自分自身で削らせるんだ」
アーノルは提案した。
石を閉じ込めて回し、壁にぶつからせることで角を取るのだと。
「……待てよ。ただの筒に入れて回しても、出来るのは『円柱』だぞ? 球にはならねえ」
マンダルは顎に手を当てて考え込み、やがてポンと手を叩いた。
「……『型』がいるな。アーノル、ちょっと待ってろ」
マンダルは親父の道具箱から、球状に加工されたタガネの頭のような鉄球を取り出した。
そして、赤熱するまで熱した鉄のブロックにその鉄球を押し付け、綺麗な「半球状の窪み」を作った。
それを二つ用意する。
ジュワァァァッ!!
マンダルは二つのブロックを水桶に放り込んで急冷すると、濡れたまま取り出した。
「こいつを合わせれば、中は空洞の『球』になる。ここに石と、研磨用の砂、そしてその液体を入れて回すんだ」
マンダルは冷えた二つのブロックの間に紫の石と砂と液体を閉じ込め、万力でガッチリと固定した。
中で石が暴れ回る音が響く。
最初は「ガリガリ! ガツン!」という不規則な衝撃音だった。
四方八方の壁が全て「球のカーブ」をしているため、石はどこにぶつかっても角が削られ、徐々にその型へと馴染んでいく。
数十分後。
中の音が「シュィィィン……」という、滑らかな回転音へと変わった。
マンダルが万力を緩め、ブロックを開く。
「……信じられねえ」
マンダルの手のひらの上には、あんなにトゲトゲしていた石が、小粒ながらも美しい紫色の球体となって転がっていた。
表面は摩擦熱と研磨で磨き上げられ、宝石のように鈍い光を放っている。
アーノルはその球体を、そっと別の皿に用意した液体の中に落とした。
その瞬間。
球体は微動だにせず、その場で静止しているかのように見えた。
軸が完璧なため、ブレがないのだ。
だが、皿の中の液体は猛烈な勢いで外へ弾き飛ばされ、さらに皿自体が、回転の余波で机の上をスルスルと滑り始めた。
「回ってる……。これなら、軸受けさえ作ればとんでもない回転力が取り出せる」
「すげえなアーノル! これができれば、火も水車もなしに動力が手に入る。親父の仕事だって楽になるし、村のみんなも……」
マンダルが興奮気味に声を張り上げた、その時だった。
「……いや、だめだ」
アーノルの低く、鋭い声が作業場に響いた。
マンダルが驚いて振り返ると、アーノルの顔からは血の気が引いており、その瞳には恐怖の色すら浮かんでいた。
「アーノル? どうしたんだよ、急に」
「マンダルすまん、酒の時を思い出せ」
その言葉に、マンダルの表情が凍りついた。
数年前、村の大人たちが作った新しい酒。
それが王都で評判になった結果、何が起きたか。
欲に目が眩んだ権力者が村を蹂躙し、酒造りの中心だったバテンは連れ去られた。
そして、それに抗議しようとしたマンダルの父ガンダルもまた、見せしめのように投獄され、酷い目に遭わされたのだ。
「あの酒のせいで、お前の親父さんが牢屋でどんな思いをしたか、忘れたわけじゃないだろう」
マンダルが息を呑み、握りしめた拳を震わせた。
父が傷だらけで帰ってきた日のこと。
悔しさと無力感に泣いた夜のこと。
忘れるはずがない。
「この回転する石は、酒なんかよりも遥かに強大で、危険な力だ。もしこれが公になれば、間違いなく国軍が動く。そうすれば今度こそ、村ごと消される」
アーノルの警告は、決して大げさではなかった。
動力革命とも呼べるこの技術は、独占すれば巨万の富を生むが、同時に戦争の道具にもなり得る。
ただの好奇心で完成させてしまったが、出来上がった現物を見て、アーノルは初めて事の重大さに震えたのだ。
「……そうか。俺はまた、バカなことを考えちまってたんだな」
「いや、俺の方こそすまん。作らせておいて、こんなことを言うなんて」
マンダルから興奮が消え、代わりに職人としての、そして被害者遺族としての鋭い覚悟が宿った。
彼は皿の中の球体を布で摘み上げると、誰にも見つからないよう、懐深くにしまい込んだ。
「分かった。こいつのことは、親父にも絶対に言わねえ。俺たちだけの秘密だ」
アーノルは静かに頷いた。
目の前にあるのは、文明を進めるはずの輝かしい発見だ。
だが、この紫色の石は、俺たちを取り巻くこの状況が変わらない限り、決して使うことはできないだろう。




