26.静寂の円環と銀色の異物
逃げ続けて、どれくらい経っただろうか。
ふと、アーノルは違和感に足を止めた。
「……いない?」
あれほど執拗に追いかけてきていた猪の気配が、嘘のように消えていた。
それだけではない。森を騒がせていた鳥の声も、虫の羽音さえもしない。
風の音すら途絶えた、完全なる静寂。
まるで、ここから先は生きとし生けるものが立ち入ってはならない「真空」の領域であるかのように。
「……ハァ……ハァ……」
立ち止まれば、全身の打撲痛が襲ってくる。だが、ここでうずくまっているわけにはいかない。
当てもないが、この異様な静けさの中に留まるのは危険な気がした。アーノルは痛む体を引きずりながら、おぼつかない足取りで歩き続けた。
やがて、森の木々が不自然に途切れた。
「……なんだ、ここ」
そこは、黒い巨木に囲まれた、完璧な円形の広場だった。
その中心部。
地面から突き出すように、銀色の物体が鎮座していた。
直径数メートルほどの円形のドーム状の物体。
苔も生えず、汚れ一つないその表面は、薄暗い森の中で異質な輝きを放っている。
近づいてよく見ると、それは明らかに自然物ではなく、金属――それも、この世界の鍛冶技術では到底不可能な、継ぎ目のない滑らかな曲線を描く人工物だった。
アーノルは吸い寄せられるように近づき、震える手でその表面に触れた。
「……冷たい」
硬質で、冷徹な感触。
間違いなく金属だ。
その瞬間だった。
『――接触を確認。生体情報をスキャンします』
頭の中に直接響くような、性別のない声。
同時に、銀色の表面に幾何学模様の光が走り、音もなくスライドして「入り口」が開いた。
『まさか……マスターですか?』
声のトーンが、わずかに揺らいだように聞こえた。
『生体反応あり。……とにかく、お入りください。おかえりなさいませ』
「……マスター? おかえり?」
意味がわからない。だが、開かれた入り口からは、薄暗い森にはない柔らかな光が漏れ出ている。
背後の森からは、いつまた魔獣が現れるかわからない。
アーノルは意を決し、その「機械」の中へと足を踏み入れた。
中は、完全に異界だった。
継ぎ目のない白い壁。天井から降り注ぐ光源のない光。
そして、通路の奥に広がる空間には、大小様々なモニターのようなパネルや、複雑な計器類が並ぶ操作盤が鎮座していた。
(……すごい)
アーノルの前世の記憶が、激しく警鐘と興奮を鳴らしている。
これは、ただの機械じゃない。
前世で暮らしていた地球の科学技術すら凌駕しているかもしれない、超高度なテクノロジーの結晶だ。
「魔力」や「剣」の世界にあるはずのない、SF映画のような光景がそこには広がっていた。
短い通路を抜け、メインルームと思われる場所に出ると、中央の大きなパネルが点滅し、再びあの声が響いた。
『スキャン完了。……マスター?』
声には、困惑の色が混じっていた。
『魔力波長の認証率は99.8%。ほぼ完全に一致しています。これほどの合致率は、本人以外にはあり得ません。……ですが、肉体の構成データが一致しません』
空中にホログラムのような光が浮かび上がり、グラフや数値が高速で流れていく。
アーノルはその光景に圧倒されながらも、なんとか声を絞り出した。
『マスター。あなたは、マスター・ポルムですか?』
問いかけられた名前に、アーノルは首を横に振った。
「……違う」
『違う? しかし、この魔力波長は……。では、あなたは何者ですか? 所属と個体識別名を提示してください』
無機質だが、どこか威圧感のある問い。
ここで嘘をつくのは得策ではない。アーノルは痛む脇腹を押さえながら、正直に答えた。
「……僕は、この近くの村の者だ。名前はアーノル」
『……村人、アーノル』
機械音声が復唱する。
一瞬の静寂の後、室内の照明がわずかに色を変え、威圧感が和らいだ。
『承知しました。マスターではないが、マスターと極めて近しい魔力因子を持つ者、と仮定します。……現在のあなたの身体状況は、極めて危険な状態です。治療を希望しますか?』
「……治療?」
アーノルは自身の体を見下ろした。
猪の体当たりを受けた衝撃で、肋骨にヒビが入っているかもしれない。全身が軋むように痛み、呼吸をするたびに肺が引きつる。
「……頼む。この体じゃ、村まで戻るのは難しいからな」
『了解しました。医療ポッドへ移動してください』
床の一部が音もなく沈み込み、そこから真っ白な棺桶のようなカプセルがせり上がってきた。
ガラス状のカバーが開き、中から淡い青色の光が漏れ出ている。
アーノルはおっかなびっくり、その中へと身を横たえた。
『スキャン開始。肋骨に亀裂、全身打撲、内臓への軽微な衝撃を確認。修復プログラムを実行します』
プシュッ、という微かな音と共に、甘い香りが漂った。
アーノルの意識は一瞬で途切れ、深い闇へと落ちていった。
次に目が覚めた時、痛みは完全に消え去っていた。
アーノルはカプセルから起き上がり、自分の体を触った。激痛が走っていた脇腹も、擦りむいた膝も、跡形もなく消えている。
「……すごいな。あんた、一体何なんだ?」
アーノルが問いかけると、空中のホログラムが明滅し、機械的な声が答えた。
『私は「環境管理システム」。このエリアの監視と維持を行っています』
「環境管理……ここを作ったのは誰だ?」




