24.刹那の未来視
「ガアアアアッ!!」
地響きのような咆哮と共に、森の闇から巨大な影が飛び出してきた。
体長3メートルはあろうかという、全身が黒毛に覆われた凶悪な魔獣化した熊だ。
「ヒッ、な、なんだあれは!?」
休憩明けの兵士たちが腰を抜かす。
「……構えろ」
ガリオンは短く告げると、大斧を構えて兵士たちの前に盾として立ちはだかった。
無駄口は叩かない。背中で語る父の姿に、自警団の男たちも無言で槍を構え、チャムソンも即座に矢をつがえた。
ヒュンッ、ドスッ!
矢は正確に熊の肩に突き刺さるが、熊は止まらない。
ガリオンが真正面から熊の爪撃を受け止め、火花が散るような衝撃音と共に押し返す。
「フンッ!!」
裂帛の気合いと共に放たれたガリオンの一撃が熊の体制を崩し、その隙に他の団員たちが槍を突き入れる。
無駄のない連携。巨獣は轟音と共に地に伏した。
遠くの茂みに隠れて見ていたアーノルは、ホッと息を吐いた。
(やっぱり、父さんは強い……)
そう安堵し、父の背中を見つめていた、その時だった。
ガリオンがふと、何かの気配を感じたように鋭く視線を巡らせた。
「……ッ、アーノル!」
父の短く、鋭い警告の声。
だが、その視線の先――先ほどの熊とは全く違う方向、アーノルの死角となる真横の藪から、音もなく黒い影が飛び出した。
二匹目。
それも、完全にアーノルだけを狙った奇襲だった。
熊は瞬きする間もなく距離を詰め、その丸太のような腕を振り上げた。
死ぬ。
アーノルの思考が白く染まる。
鋭い爪が、自分の頭蓋骨を粉砕する映像が脳裏に焼き付いた。
(あ……避けられない)
視界の中で、爪が振り下ろされる。
アーノルは反射的に身を竦め、来るはずの死の衝撃を待った。
――しかし。
(……え?)
来ない。
「死んだ」と思ったその瞬間、痛みは訪れず、ほんのわずかな「間」があった。
まるで、自分の認識だけが先に進んでしまい、現実が遅れてやってくるような奇妙なズレ。
そのコンマ数秒のズレが、アーノルの体を無意識に動かしていた。
地面を転がるように頭を下げた、その直後。
ブォンッ!!
豪風と共に、「実体」の爪がアーノルの頭があった空間を薙ぎ払った。
髪の毛数本が切り飛ばされる。
避けきれないタイミングだったはずだ。なのに、体が勝手に「未来の死」に反応して動いていた。
(……なんだ、今の感覚は)
呆然とする暇はない。
ガリオンたちが駆け寄ろうとするが、熊が立ちはだかり、彼らを牽制している。
このままでは殺される。
アーノルは震える足で立ち上がり、反射的に森の中へと走った。
「ハァッ、ハァッ……!」
背後から、ズシン、ズシンという重い足音が迫る。
草を踏みしめる音、落ち葉が押し潰される音が、恐ろしいほどの至近距離で響く。
この森の木は鉄のように硬い。
熊といえど容易になぎ倒すことはできないため、普通の森のような「木々が倒れる派手な音」はしない。
その代わり、硬い幹に爪が擦れる嫌な音と、障害物を縫って迫ってくる獣の荒い鼻息だけが、生々しく耳にこびりつく。
(来る……!)
背後の気配が膨れ上がる。
脳裏に「右肩が抉られる」イメージが浮かぶ。
アーノルはそのイメージに従い、地面に伏せた。
一瞬遅れて、頭上の幹に爪が突き刺さる音。
(やっぱり、ズレている……! イメージが先で、実体が後だ!)
これは「未来視」だ。
死の直前、極限状態になった脳が、わずか先の未来を「眼」を通じて捉えているのだ。
そのタイムラグを利用すれば、子供の足でも、この迷路のような硬い巨木の森なら逃げ回れるかもしれない。
アーノルは巨木を盾にし、必死に父たちが追いつくのを待とうとした。
だが、運命は過酷だった。
「ブモオオオオッ!!」
熊の咆哮に驚いたのか、横合いの藪から巨大な猪が突進してきた。
戦車のような質量。
未来視で衝突が見えたが、回避するスペースがない。
「ぐあっ!?」
ドォン! という衝撃。
アーノルは木の葉のように吹き飛ばされた。
幸い、まともに牙で突かれたわけではなく、体当たりを食らった形だったが、小さな体は軽々と宙を舞い、森の奥深くへと放り込まれてしまった。




