16. 刻まれた知恵と、農王の家の不穏
神父が砂の上に記した文字は、全部で30ほど。この世界の言語は、その基本となる文字を組み合わせることで成立していました。
アーノルは「完全記憶」の力を使い、神父が教えるそばからその形状と筆順を脳へ次々に保存していきました。わずか数十分の間に、文字そのものはすべて習得してしまったのです。
(……よし、これで文字は完璧だ。あとは本を借りて読みながら、単語を覚えていけばいいな)
「神父様、ありがとうございます。おかげで全部覚えられました」
アーノルが丁寧に礼を言うと、神父は「……もうかい?」と呆れたように笑い、同時にどこか危ういものを見るような目でアーノルを見送りました。
教会を出ると、空はオレンジ色に染まり始めていました。
「ロバーソン、行くぞ。夕飯までまだ少し時間がある」
今日は、母に頼み込んで妹のケニを家で見てもらっている。あまり遅くなれば、母さんには叱られるし、留守番をさせられたケニも機嫌を損ねて後が大変そうだ。
(……うーん。でも、バテンさんのところに少しだけ顔を出しておこう。装置の様子も気になるしな)
アーノルはロバーソンを連れて、職人たちを束ねるバテンの家へと向かいました。
バテンの家の前に着くと、そこには一台の使い込まれた馬車が停まっていました。あちこちに補修の跡があり、泥にまみれたその姿からは、必死に行商を続けてきた持ち主の苦労が滲み出ているようです。
馬車のそばには、見慣れない男が立っていました。服装は地味ですが、よく見れば生地の質や仕立ての良さが伝わってくる、堅実な商人の装いです。
アーノルたちが近づくと、家の中からバテンが出てきました。しかし、アーノルたちの姿を認めたバテンの顔は、いつもの厳しいながらも温かみのある師匠の顔ではありませんでした。
「……アーノルか。今日はもう帰れ」
バテンの声は冷たく、まるで知らない他人に接するような余所余所しさでした。明らかに「今は来るな、関わるな」という強い警告を含んだ突き放し方です。
「あ……はい。わかりました」
アーノルは瞬時に空気を読み、素直に引き返そうとしました。
しかし、馬車の横にいた男――アサータクは、バテンのその過剰なまでの「他人のふり」を見逃しませんでした。
アサータクは細めた目で、去りゆくアーノルの小さな背中と、その隣を歩くロバーソンの、子供らしからぬ落ち着いた足取りをじっと観察しています。
(……ほう。親父がこれほど露骨に隠そうとする『何か』が、あのガキにあるのか。それとも、横にいる坊主か?)
アサータクは決して太ってはいませんが、過酷な行商で鍛えられた抜け目のない顔つきをしています。彼の商売人としての嗅覚が、村を覆う穏やかな空気の裏側に潜む「価値ある何か」を、確実に捉え始めていました。




