15. 嵐のあとの平穏と、刻まれる文字
役人たちが琥珀色酒を積み込み、村を去ってから数日が経ちました。連行されそうになった若者たちは無事に家族のもとへ帰り、村にはようやく、いつもの静かな日常が戻ってきました。
アーノルは、納屋の片隅で一人、考えに耽っていました。
(……今回はどうにか助かった。だが、こんな綱渡りが次も上手くいくとは限らない。力……いや、知識が必要だ)
前世の知識という強力な武器があっても、この世界のルールを知らなければ、それはただの危うい道具でしかありません。もしも誰かに目をつけられ、巧妙な言葉で丸め込まれたら。自分が生み出したものが、知らないうちに誰かの「権利」として騙し取られ、自分や家族の平穏が奪われてしまうかもしれない。その危惧が、アーノルを突き動かしていました。
その日の午後、アーノルは村の外れにある教会を訪ねました。
「……神父様。ちょっといいですか」
アーノルが声をかけると、床をのんびりと磨いていた神父が顔を上げました。
「おや、アーノル。何の用だい?」
「神父様、お願いがあります。俺に、文字の読み書きを教えてほしいんです」
神父は磨いていた布を肩にひょいとかけると、少しだけ困ったように眉を下げました。
「文字ねぇ……。木こりの息子に文字なんて必要ないだろう? それにアーノル、ポルム教の教えではね、『知識は身の丈に合った相応のものに留めるのが良い』とされているんだ。多くを知りすぎることは、平穏な心を乱す種にもなりかねない。のんびり土をいじって暮らすほうが、心穏やかでいられると思わないかい?」
神父は飄々とした態度で、教義を引き合いに出しながら、どこかはぐらかすように断ろうとしました。
ですが、アーノルの目は揺らぎません。
「知らないことで奪われるのは、もう嫌なんです。俺と、家族と……あいつの平穏を守るために、知らなきゃいけないんです」
アーノルが隣に立つロバーソンを指さすと、神父はやれやれと肩をすくめました。
「……そこまで言うなら仕方ない。少しだけだよ。さあ、そこへ座って」
教会の裏手の石段。アーノルの隣には、いつものようにロバーソンが一言もしゃべらず、護衛のように座っています。
神父は、適当な棒きれで地面の砂にさらさらと文字を書き始めました。
「これが『光』、これが『土』だ。……さあ、形をなぞってみて」
アーノルは、その文字をじっと見つめました。
(……あ、これ。脳に直接貼り付くみたいだ)
その瞬間、アーノルは自分の「見る力」の恐ろしさに気づきました。
一点を集中して凝視すると、まるで頭の中に映像をそのまま転写するような感覚が走り、一度見た文字の形、砂の粒子、神父の指先の揺れまでもが「完全記憶」として記録されていきました。一度焼き付いた情報は、二度と消えない確信がありました。
「……こうですね」
アーノルが迷いなく砂の上に文字を再現すると、神父は目を丸くしました。
「おや……。一回見ただけで覚えたのかい? 君、もしかして天才かな?」
神父は驚きつつも、「これはいよいよ教えるのが怖くなるな」と苦笑いしながら、次々に新しい文字を書いていきました。アーノルは砂の上に広がる未知の知識を飲み込むことに没頭し、一文字一文字を噛みしめるように練習し続けました。
その集中力のせいか、アーノルは村の入り口に一台の馬車が入ってきたことに全く気づきませんでした。
それは、あちこち修繕された、使い込まれた馬車でした。村の境界を越え、ゆっくりと広場の方へ進んでくるその馬車は、噂を嗅ぎつけてやってきた商人のものだった。




