115. 賢き子供と、色褪せない国
『銀の羽ペン亭』を出た俺たちは、軽い足取りで石畳を歩いていた。
「へっ、チョロいもんだぜ」
アサータクは懐に入れた手形をパンパンと叩き、上機嫌だ。
在庫の五百個を一括買取。しかも、今後も持ってくればその場で全て買い取ると約束を取り付けたのだから、笑いが止まらないだろう。
「定期納入の契約は結ばなかったんですか?」
「ああ。俺たちは行商人だからな。いつここに戻れるか確約できねえ。下手に期限を決めて『違約金』なんて話になるより、持ってくれば売れる、という今の形の方が気楽でいい」
アサータクは商人としてのリアリズムを語る。
俺たちがそんな話をしながら、大通りへ出ようとした時だった。
「――待ってください」
背後から、落ち着いた、しかし少し幼さの残る声が響いた。
振り返ると、文具店の近くの路地から、一人の少年が早足で歩み寄ってくるところだった。
年齢は十二歳くらいだろうか。
育ちの良さを隠しきれない、質の良い紺色の服。
色素の薄い金髪はサラサラとしていて、あどけない顔立ちだ。だが、その碧眼には、子供とは思えない理知的な光が宿っている。
そして何より目を引いたのは、彼の背後に控える二人の男だ。
大柄な騎士だが、彼らは石像のように無表情で、余計な言葉を発する気配がない。ただ、その鋭い眼光だけで周囲を威圧している。
(……良いとこの坊っちゃんか?)
アサータクが怪訝な顔をする。
少年は俺たちの前で立ち止まると、乱れた呼吸を整え、綺麗な所作で一礼した。
「お引き止めして申し訳ありません。あなた方が、先ほど『レーマネのインク』を卸した商人ですね?」
「ええ、そうですが……。坊ちゃんは?」
アサータクが尋ねると、少年は少し興奮した様子で言った。
「実は、僕も店の中にいたのです。……驚きました。まさか、あれほどの数のガラス瓶を、一度に持ち込む商人がいるとは」
少年は、俺が腰に下げていたサンプル用のインク壺を熱っぽい視線で見つめた。
「普通、インクを運ぶ時は、陶器の壺や金属の入れ物を使います。ガラスは綺麗ですけど、揺れに弱くて、長い旅だとすぐに割れてしまいますから。……お城に届く品物でさえ、中身を守るために見た目の悪い容器で運ばれてくるのが当たり前なんです」
少年は不思議そうに俺たちの荷台――バテン号を見た。
「それを五百個も、一つも割らずに運んでくるなんて。……一体、どんなからくりがあるのですか?」
からくりというか、技術だ。と言いたかったが、俺は曖昧に笑って誤魔化した。
少年は感心したように頷き、独り言のように続けた。
「素晴らしい……。これだけの数があれば、お城の書庫にある大事な書類を、すべて書き直すことができます」
その視点は、ただの子供の好奇心とは違っていた。
「今のサマラの書類は、この国のインクの質が良くないから、五年ごとに書き写さなきゃいけない決まりなんです。でも、それだとすごく人手とお金がかかるし、書き写す時にどうしても間違いが起きてしまう。それがずっと、この国の悩みの種でした」
少年は、空中の見えない計算盤を弾くように指を動かした。
「ですが、この『永久インク』があれば、もう書き写さなくて済みます。その分の浮いたお金を、遅れている川の工事や道の整備に使えば、みんなの暮らしがもっと良くなる……」
俺は呆気にとられた。
この年端も行かない少年が、インク一つから「国の予算」や「人々の暮らし」まで計算しているのだ。
(……この子、ただ賢いだけじゃないな)
俺はふと気になり、目に力を込めた。
俺の持つ「見る力」。それを少年に向ける。
(……なるほど)
俺は心の中で得心した。
少年の内側に、ある一つの能力がはっきりと見えたのだ。
能力名――『先見』。
まだ未発達だが、彼は物事の行く末を直感的に捉える素質を持っている。
アサータクが驚くのも無理はない。この少年には、大人たちが見落としている可能性が見えているのだろう。
「……恐れ入りましたね」
アサータクが、舌を巻いたように言った。
「坊ちゃん、随分と頭が切れる。インク一つでそこまで考えるとは」
「いえ、僕はただ……この国を少しでも良くしたいだけなのです」
少年は謙遜して笑うと、視線を俺たちの荷台へ移した。
「それと、お水の話も聞いていました。……この国の水が良くないことは、僕も心苦しく思っていました。民に、少しでも美味しい水を飲ませてやりたい。……あなた方の知恵をお借りすれば、何か解決の糸口が見つかるかもしれません」
彼は真剣な眼差しで俺たちを見た。
「もしよろしければ、もう少し詳しくお話を聞かせていただけませんか? 場所を変えて」
アサータクは顎に手を当てて考え込んだ。
ただの子供ではない。この聡明さと、護衛の雰囲気。
「構いませんが……坊ちゃん、お名前は?」
アサータクが尋ねた、その時だった。
背後に控えていた無口な護衛の一人が、一歩前に出た。
言葉は発しない。
代わりに、懐から黄金の紋章が入った身分証を提示した。
そこに刻まれていたのは、サマラ王家の紋章。
「ッ!?」
アサータクの目が限界まで見開かれた。俺も冷や汗が流れた。
少年――ルノルマは、困ったように苦笑しながら名乗った。
「ルノルマ・サマラ。……この国の第二王子です」
十二歳の第二王子。そして『先見』の能力者。
俺とアサータクは顔を見合わせ、慌てて深く頭を下げた。
まさか、こんな路地裏で、この国の未来を背負う天才と出会うことになるとは。
サマラ王国、やはり一筋縄ではいかない国のようだ。




