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キングスレイヤー序  作者:
第2章 侵食の始まり

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114/213

114. 鉄の味と、黒い革命

 サマラ王都の宿屋は、やはり清潔だった。


 シーツはパリッと糊が効いているし、床に埃一つ落ちていない。


「ふぅ……。やっぱり綺麗なベッドはいいですね」


 長旅の疲れが出たのか、俺は荷物を置くとすぐに椅子へ倒れ込んだ。


 すると、部屋のドアがノックされ、護衛のリーダーであるガウスが入ってきた。


「これから商売に出るんだろ? 護衛はどうする?」


 ガウスの後ろには、すっかり体調が回復したモイコの姿もあった。


 だが、俺と目が合った瞬間、彼は青ざめた顔でブンブンと首を横に振った。


「……俺はパスだ。あんたらの馬車を見るだけで、レーマネでの『地獄』を思い出して吐き気がするんだよ……」


 どうやら、開発中に俺があれこれとこき使ったトラウマは根深いらしい。


 俺はバツが悪そうに視線を逸らした。


「……ごめん」


「ハハッ、自業自得だな」


 アサータクは可笑しそうに笑い、ガウスに向き直った。


「まあ、王都の中なら俺とアーノルだけで十分だろ。この国は治安がいいしな」


 アサータクは断ろうとしたが、ガウスは真面目な顔で首を振った。


「治安が良いと言っても、金目の物を持った商人が丸腰で歩けば、カモにしてくださいと言ってるようなもんだ。……おい、ヘイミー。お前がついていけ」


「……ん」


 指名されて前に出たのは、二号車に乗っていた女傭兵、ヘイミーだった。


 背中に大きな弓を背負っている。彼女は短く頷くと、音もなく俺たちの後ろに立った。


「相変わらず無口だな。……まあいい、頼むぞ」


          ◇


 宿を出る前、俺は喉の渇きを癒やそうと、部屋のテーブルにあった水差しから水を注ぎ、口に含んだ。


「……ん?」


 飲み込めなくはない。毒のような味もしない。


 だが、舌の奥に何とも言えない「重さ」と、微かな金属臭が残る。


 まるで、錆びたスプーンを舐めた後のような不快感だ。


「……なんか、微妙に不味くないですか? 飲めますけど、美味しくはないというか」


「ああ、言い忘れてた。サマラの水はそんなもんだ」


 アサータクが涼しい顔で言った。


「サマラは地下に巨大な鉄鉱脈が走ってる。井戸水も川の水も、鉄分が溶け出して金臭いんだよ。慣れれば平気らしいが、繊細な味は分からなくなる」


「なるほど……これじゃお茶も料理も、本来の味とは変わっちゃいそうですね」


「そこで、だ」


 アサータクはニヤリと笑い、俺たちが運び込んだ「レーマネの湧き水」が入った小瓶を数本、鞄に詰め込んだ。


「こいつが役に立つ。……よし、商売に行くぞ」


「え、もうですか? どこへ?」


「決まってるだろ。この国で一番、紙とペンを使う連中のところだ」


          ◇


 アサータクに連れられてやってきたのは、王城の近くにある官庁街だった。


 ヘイミーが鋭い視線で周囲を警戒する中、俺たちは石造りの厳格な建物の一角にある、老舗の風格を漂わせる文具店『銀の羽ペン亭』に入った。


「ここはこの国でも最大手の文具商だ。役所や王宮に卸している商品は、ほとんどここを通る」


 アサータクは自信満々に店の扉を開けた。


「いらっしゃいませ。……おや、見ない顔ですね」


 カウンターの奥から、片眼鏡をかけた神経質そうな初老の店主が現れた。


 アサータクは恭しく一礼し、商談を切り出した。


 だが、反応は芳しくなかった。


「インク、ですか。……間に合っておりますな」


 店主は興味なさげに書類に目を落としたまま言った。


「当店のインクは、国内の工房で作らせた純正品です。他国の、どこの馬の骨とも知れぬ商人が持ち込んだ品など、扱うつもりはありません」


 取り付く島もない。やはり排他的だ。


 だが、アサータクは引かない。


「ごもっともです。ですが……国内のインクでは、公文書が『三年で茶色く変色する』ことに、役人様方は頭を悩ませていると聞きますが?」


 ピクリ、と店主の眉が動いた。


「……なぜそれを」


「商人の耳は地獄まで届きますから。……私が持ち込んだのは、レーマネ特産の『すす』を、特殊な配合で練り上げた『永久インク』です。百年経っても黒いまま。歴史に残すべき公文書にはうってつけかと」


 アサータクは俺に目配せした。


 俺は鞄から、サンプル用のインク壺を取り出し、カウンターに置いた。


 コトッ。


 その瞬間、店主の目が釘付けになった。


「こ、これは……ガラス、ですか?」


「はい。レーマネのガラス職人に吹かせた、継ぎ目のない特注品です」


 サマラにもガラス製品はある。だが、それは厚ぼったく、気泡が入った実用品がほとんどだ。


 このインク壺のように、薄く、透明度が高く、光を美しく透過させる「工芸品」レベルのガラスは、レーマネの職人にしか作れない。


「……美しい」


 店主が思わず漏らした。


「サマラの方々は質実剛健を好むと聞きます。ですが、この繊細な細工を見てください。……毎日使う机の上の道具くらい、少しばかり『心躍るもの』であってもバチは当たらないのでは?」


「むぅ……」


 店主は迷っていた。商品は魅力的だ。だが、決定打に欠ける。他国の商品というだけでリスクを感じているようだ。


 アサータクは、ここぞとばかりに切り札を切った。


「ご主人。少し長話になりましたね。喉が渇きませんか?」


「は? ……まあ、少し」


「実は、故郷から『良い茶葉』を持ってきましてね。よければ一杯、いかがです? お湯をお借りできれば、私が淹れますが」


 店主は怪訝な顔をしたが、断る理由もなく承諾した。


 アサータクは店の奥から火を借りて、持参した「水」を沸かした。


 数分後。湯気が立つティーカップが店主の前に置かれた。


「どうぞ」


 店主は一口すすり――そして、目を見開いた。


「なッ……!? なんだこれは!?」


「お口に合いませんでしたか?」


「いや、美味い! 美味すぎる! 雑味がない。茶葉の香りが直接鼻に抜けるようだ……。うちで飲む茶とは、まるで別物だぞ!?」


 店主は震える手でカップを見つめた。


 俺も飲んでみたが、確かに違う。さっき宿で感じたあの嫌な金属臭が一切ない。クリアな味わいだ。


 アサータクはニヤリと笑った。


「水ですよ、ご主人」


「水?」


「レーマネの山奥で汲んだ、混ぜ物なしの天然水です。鉄の味がしない、純粋な水。……この国の水は独特の風味がありますからね。繊細な茶葉の味を殺してしまうんです」


 アサータクは、インク壺の横に、水の入った小瓶をそっと置いた。


「このインクを契約していただけるなら……この『水』を、ご主人への『贈り物』として差し上げましょう」


 賄賂は受け取らない。金も受け取らない。


 だが、「最高に美味いお茶が飲める水」という、金では買えない贅沢を提示されたら?


 店主はゴクリと唾を飲み込んだ。その目は、明らかに水を欲している。


 ここでアサータクが、ふと思いついたように尋ねた。


「ちなみにご主人。もしこの水を『商品』として店に置くとしたら、いくらなら買います?」


「む……そうだな。この味なら、富裕層の奥方には受けるかもしれん。……小瓶一本で銅貨二枚、といったところか」


「(……チッ、やっぱそんなもんか)」


 アサータクが一瞬、失望の表情を浮かべたのを俺は見逃さなかった。


 樽一杯の水を持ってくる輸送費と人件費、そして重量を考えれば、銅貨二枚では割に合わない。


 どうやら「水」そのものを商売にするのは難しいようだ。


「分かりました。では、この水はあくまで『特別な贈り物』ということで」


 アサータクは商売っ気を消し、笑顔でインク壺を推した。


 店主はもう、迷わなかった。


 最高級のインク、美しいガラス瓶、そして極上の水。


「……分かった。契約しよう」


 店主は身を乗り出した。


「それで、在庫はいくつあるんだ?」


「今回は試験的に、五百個ほど持ち込みましたが」


「五百か……」


 店主は顎に手を当てて少し考え、そして力強く言った。


「全部だ。全部置いていけ」


「ぜ、全部ですか!?」


 俺が驚いて声を上げると、店主は当然だと言わんばかりに頷いた。


「腐るものでもないし、時間さえあれば必ず売り切れる品質だ。それに、このガラス瓶だけでも値打ちがある。……五百個すべて買い取ろう」


「毎度あり!!」


 アサータクの顔が、邪悪なほどに輝いた。


 店を出た後、俺は興奮冷めやらぬ様子でアサータクに言った。


「すごいですね! まさか完売するなんて!」


「ハッ、当たり前だ。人間、本当に欲しいのは『金』じゃねえ。『満足感』だ。特にこの国みたいに娯楽の少ない場所じゃ、食い物の恨みと恩はでかいからな」


 こうして俺たちは、水という名の「鍵」を使って、堅牢なサマラ市場の扉をこじ開けたのだった。




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