112. 悪路の王と、震える手綱
レーマネを出発してから数日。
俺たちの旅は、拍子抜けするほど順調だった。
俺は御者台に座り、緊張した面持ちで手綱を握っていた。
隣にはアサータクさんが座り、厳しい目で俺の手元を監視している。
「……そうだ。手首を柔らかくしろ。馬の口は敏感だ、強く引きすぎると反発するぞ」
「は、はい……!」
出発してからの数日間、俺は平坦で安全な道に限って、アサータクさんから御者の特訓を受けていた。
最初は【暴君】たちに激しく反発され、振り落とされそうになったが、アサータクさんが横で睨みを利かせているおかげか、最近はどうにか言うことを聞いてくれるようになっていた。
やがて、街道の先に石造りの堅牢な関所が見えてきた。
サマラ王国との国境だ。
「よし、一旦交代だ」
関所の手前でアサータクさんと手綱を交代し、俺たちは検査を受けた。
「……止まれ。通行証を見せろ」
サマラの国境警備兵は、噂通り愛想のかけらもなかった。
磨き上げられた鎧、直立不動の姿勢。鋭い眼光で俺たちの荷台を覗き込む。
「商人のアサータクだな。荷物は?」
「インクと水、それに鉱山道具です」
「……よし。通っていい」
検査は厳格だったが、因縁をつけられることもなく、あっさりと許可が下りた。
関所を抜け、サマラ領に入ってから、俺は助手席で首を傾げた。
「意外ですね。もっとこう、袖の下とか要求されるかと思ってました」
以前、別の国境を通った時は、アサータクさんが銀貨を数枚握らせていたのを見たことがある。
「ハハッ、サマラでそれをやると逆効果だぞ」
アサータクさんは笑いながら言った。
「あいつらは基本、クソ真面目だ。『賄賂』を渡そうとすると『侮辱された』と受け取って、露骨に機嫌を損ねて検査が長引く。……ま、中には要求してくる腐った奴もいるが、そいつらは真面目な顔をして手を出すから、見極めが難しいんだよ」
「なるほど……。商人も楽じゃないですね」
「違いない。……っと、気を引き締めろアーノル。ここからが本番だ」
アサータクさんの警告と同時に、バテン号がガタンッと大きく揺れた。
「うわっ!?」
目の前に広がる光景を見て、俺は息を呑んだ。
国境を越えた途端、街道の様相が一変していたのだ。
石畳はひび割れ、深い轍が何本も刻まれ、大小の石が散乱している。まるで巨人が暴れまわった後のようだ。
「これがサマラの街道だ」
アサータクさんが顔をしかめる。
「サマラは鉱石や、それを加工した重い鉄製品を大量に輸出している国だ。毎日、過積載の馬車が何十台も通るせいで、道がすぐにダメになっちまうんだよ」
「直さないんですか?」
「直してもすぐに壊れるからな。それに、あいつらは『道』よりも『穴』を掘る方に予算を回したがる。……おかげで商人は、この洗濯板みたいな悪路に悩まされるってわけだ」
確かに、これでは普通の馬車なら荷物が傷むし、速度も出せない。
すると、アサータクさんが不意に馬車を止め、俺の方を見てニヤリと笑った。
「アーノル。ここでお前が手綱を握れ」
「えっ? ここで、ですか?」
俺は目を丸くした。平坦な道ならともかく、こんな悪路だ。
「ああ。お前の作った『バテン』が、この悪路でどれだけ通用するか。そしてお前の御者の腕がどれほどのものか。……作った本人が試すのが一番だろ?」
アサータクさんに手綱を押し付けられ、俺は覚悟を決めて御者台の中央に座り直した。
手綱を通して、【暴君】たちの不満げな息遣いが伝わってくる。
だが、俺はそれをなだめつつ、慎重に馬車を進めた。
ゴトゴトと車輪は音を立てるが、座席への突き上げは驚くほど少ない。板バネがしっかりと仕事をしている。
「ふふっ、技術者としては腕が鳴りますね。この悪路こそ、バテンの独壇場ですよ」
俺が自信を見せた、その時だった。
「おーい! そこの商人! 止まれ止まれぇッ!!」
前方の岩陰から、粗末な革鎧を着た男たちが数人、飛び出してきた。
手には錆びた剣や棍棒を持っている。山賊だ。
「へへっ! 上等な馬車だなぁ! ここは通行料が必要だぜぇ!」
彼らは道の真ん中に立ち塞がり、ニヤニヤと笑っている。
この悪路だ。馬車は速度が出せないと高をくくっているのだ。
「……チッ、やっぱり出やがったか」
隣のアサータクさんが舌打ちをした。
後ろを走るガウスたちの馬車もいる。戦えば勝てる相手だ。
だが、アサータクさんの判断は違った。
「アーノル。止めるな、そのまま突っ切れ」
「えっ?」
「ここで止まって乱戦になれば、馬車に傷がつく。それに、俺は後ろのガウスたちに合図を送らなきゃならん。……強行突破だ」
アサータクさんは俺の肩を叩いた。
「お前が御せ。この『バテン』の性能と、お前の作った『最高傑作』を信じろ!」
「ちょ、無茶ですよ! こんな悪路で……!」
俺が抗議する暇もなく、アサータクさんは後方へ向けて手信号を送った。
それを見たガウスが、ニヤリと笑って剣を抜くのが見えた。
その殺気を感じ取ったのか、俺の手の中にある手綱が、強烈な力で引っ張られた。
ヒヒィィンッ!!
【暴君】がいななき、前脚を高く上げた。
こいつらは賢い。今この場の混乱に乗じて、俺の制御を振りほどき、好き勝手に暴れようとしているのだ。
(くそっ、やっぱり俺じゃ無理か!?)
目の前には山賊。手元には制御不能になりかけた暴れ馬。足元は最悪の悪路。
だがその時、俺の脳裏に「エンジニア」としてのプライドが過ぎった。
――この馬車は、俺が作ったんだ。
この程度の悪路、物理的には「走れる」はずなんだ。
(……舐めんなよ、駄馬ども!)
俺は腹の底から声を出し、全体重をかけて手綱を強引に引き絞った。
「走れェッ!! 暴君! 悪食!」
俺の必死の気迫が伝わったのか、馬たちがビクリと耳を震わせた。
一瞬の硬直の後、彼らは前方へ向けて爆発的な加速を開始した。
「うおっ!? こいつら、突っ込んでくるぞ!?」
山賊たちが慌てふためく。
本来なら減速するはずの悪路で、バテンは加速しているのだ。
ゴッ! ガンッ!
車輪が岩を噛み、激しい音が響く。
だが、車体は跳ねない。
何重にも重ねられた板バネが伸縮し、路面の凹凸を貪るように吸収していく。
まるで氷の上を滑るように。
黒い巨体が、山賊たちの横を風のように駆け抜けた。
「な、なんだあの馬車!? なんで車輪が砕けねえんだよ!?」
呆気にとられる山賊たちを尻目に、俺たちは難所を一気に駆け抜けた。
◇
平坦な道に出たところで、俺たちは馬車を止めた。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
俺は手綱を握ったまま、肩で息をしていた。
手のひらがジンジンと痺れている。
「……おい、アーノル。荷台を見てみろ」
アサータクさんに促され、俺は恐る恐る荷台の幌をめくった。
そこには、整然と並んだガラスのインク壺があった。
一つも、割れていなかった。
「……信じられん」
アサータクさんが、呆れたように、しかし確かな興奮を込めて言った。
「あの悪路を全速力で走って無傷だと? お前の作ったこの馬車は、化け物か?」
「……へへっ。俺が作ったんですから、当然ですよ」
俺は震える手で拳を握りしめた。
恐怖の震えじゃない。武者震いだ。
「それに、御者の腕もな」
アサータクさんがニヤリと笑い、俺の背中を叩いた。
「合格だ。これならサマラまでの残り道、お前に手綱を任せても安心だな」
こうして俺たちは、最初の難関を「非常識な速度」で突破し、目的地のサマラへとひた走った。




