111. 置き去りの村と、揺れる槍
アーノルたちが「革命」と「水とインク」を乗せた馬車でサマラへの街道を西へ爆走している頃。
彼らの故郷、クルム村にも秋の風が吹き始めていた。
「……おやまあ。アーノル君からの便りは、まだありませんか」
村の神父、ガヴァンがひょうひょうとした口調で尋ねた。
丸い眼鏡の奥の糸目は、いつも笑っているように見えるが、その真意は誰にも読ませない。
「すみませんねえ、神父様。あの子ったら、一度何かに熱中すると周りが見えなくなる質でして。便りの一つも寄越しやしない」
母さんのティプが申し訳無さそうに頭を下げる。両親は、この人当たりの良い神父が、純粋にアーノルの身を案じていると信じているようだ。
だが、ガヴァンの腹の底にある任務は、そんな温かいものではない。
(……便りがない、か。教国からの極秘指令。『禁忌の言葉』に関わった疑いのある少年、アーノル。……真偽を確かめ、もし事実であれば教国本部へ連行せよ、か)
ガヴァンは茶をすすりながら、内心で肩をすくめた。
彼は聖職者でありながら、神への信仰心はそれほど厚くない。彼が信じるのは知識と実利、そして組織の論理だ。
魔法が実在するかどうかなど、彼にとっては些末な問題だ。上が黒と言えば黒、白と言えば白。
優秀な手駒として淡々と任務をこなす。それがガヴァンという男だった。
「いえいえ、若者が便りを寄越さないのは元気な証拠ですよ。……もし連絡があれば、すぐに教会へ知らせてください。彼の知識を借りたい案件がありますので」
ガヴァンは軽やかに立ち上がり、笑顔で手を振って帰っていった。
神父が去った後、台所で洗い物をしていた私――ケニは、小さくため息をついた。
「にぃに……アーノル兄さん、今頃どこにいるのかな」
兄さんが村を出てから、家の中は静かになった。
あんなに変わり者で、土を食べたり謎の運動をしていた兄さんだけど、いなくなるとやっぱり寂しい。
それに、兄さんがいないと困ることもある。
「……私のこと、全然進まないし」
私は窓の外、自警団の詰め所がある広場の方を見た。
村は今、結婚ラッシュの時期を迎えている。
近所に住むドンナちゃんが結婚したのだ。相手は一つ年上の農家の息子さん。親同士の付き合いで決まった縁談らしい。
この村では、十八歳前後になると、幼馴染同士や、親が決めた相手とお見合いをして次々と家庭を持っていくのが普通だ。
『ケニちゃんも、そろそろいい人が見つかるといいね』
ドンナちゃんに投げかけられた言葉が、胸にチクリと刺さる。
私には、心に決めた人がいる。
兄さんの親友で、村一番の槍使い、ロバーソン君だ。
兄さんがいる頃は、「どうやったらお嫁さんになれるか」なんて相談もできたけど、今は相談相手もいない。
それに、最近のロバーソン君は様子がおかしいのだ。
「……また、あんな顔してる」
買い物かごを持って広場を通ると、自警団の訓練を終えたロバーソン君がベンチに座っていた。
いつもなら、私を見かければ不器用に手を振ってくれる。
でも今は、足元の地面をじっと見つめて、深く考え込んでいる。その眉間には、深いシワが刻まれていた。
「ロバーソン君?」
恐る恐る声をかけると、彼はビクリとして顔を上げた。
「……あ、ああ。ケニか」
「お疲れ様。……何か悩み事? 兄さんがいなくて寂しい?」
冗談めかして聞いてみたけれど、彼は笑わなかった。
槍の柄を強く握りしめ、どこか遠くを見るような目で、ポツリと言った。
「……アーノルは、すごいな」
「え?」
「あいつは、自分で道を決めて出ていった。西の街へ……。俺は、どうなんだろうな」
その横顔があまりに切実で、私は言葉を失った。
ロバーソン君が、どこか手の届かない遠くへ行ってしまいそうな。そんな予感がして、秋風が急に冷たく感じられた。
◇
夕暮れの訓練場。
ロバーソンは一人、丸太に向かって槍を振るっていた。
ヒュンッ!!
鋭い風切り音と共に、丸太の中央に深々と槍先が突き刺さる。
それは村の自警団レベルを遥かに超えた、洗練された一撃だった。
だが、ロバーソンは舌打ちをした。
「……軽い。まだ届かない」
自分の腕が鈍っているわけではない。むしろ、日々の鍛錬で肉体は完成されつつある。
問題なのは、心だ。
「いい突きだ。だが、その切っ先には迷いが乗ってるな」
背後から、低い声が掛かった。
ロバーソンが振り返ると、そこには短く刈り込んだ白髪交じりの髪をした男が立っていた。
男の名はバズ。
ロバーソンが自警団に入った時には既にいた指導教官だ。その身のこなしと指導の的確さから、只者ではないことは誰の目にも明らかだった。
「バズ教官……。まだ残っていたんですか」
「お前こそな。日が暮れても見えない敵と戦ってるようじゃ、体より先に心が参っちまうぞ」
バズはゆっくりと近づき、ロバーソンが突いた丸太の傷跡を指でなぞった。
「相変わらず、いい腕だ。農家の倅が独学でここまで練り上げるとはな。……才能ってやつだな」
「……買いかぶりすぎです。俺なんて、ただの棒振りですよ」
「謙遜するな。俺は長年多くの兵士を見てきたが、お前ほどの槍使いはそうはいなかったぞ」
バズは真面目な顔になり、ロバーソンの目を覗き込んだ。
「ロバーソン。ここ数日、ずっと考えていたんだろ? 俺の話を」
「…………」
ロバーソンは槍を引いた。
先日、バズから持ちかけられた提案。それは、ロバーソンの人生を根底から覆すものだった。
「言ったはずだ。お前の腕を、こんな田舎の自警団で腐らせるには惜しいとな」
バズはロバーソンの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺には、古巣の軍や、王都の衛兵隊にツテがある。紹介状を書いてやれば、お前なら即戦力として採用されるだろう。……ここより広い世界で、自分の力を試せるぞ」
広い世界。
その言葉が、ロバーソンの胸を締め付ける。
親友のアーノルは、その世界へと飛び出していった。
自分はどうだ?
ケニのことは好きだ。人並みに結婚したいとも思う。
だが、今の自分にその資格があるのか?
(……あの時のことが、今でも忘れられない)
ロバーソンの脳裏に蘇るのは、幼い頃に見た光景だ。
村に来た徴税官や、偉そうな騎士たち。彼らの理不尽な要求。
それに頭を下げるしかなかった親父たちの、小さくなった背中。
あの時の悔しさと、腹の底で燃え上がった怒りが、今の俺を作っている。
俺は、何かを変えたくて槍を握ったんだ。
もしまた、あんな理不尽が目の前で起きたら?
力をつけた今の俺は、きっと昔の親父たちのように黙って耐えることはできない。
槍を振るい、相手を貫いてしまうかもしれない。
そうなれば、俺は大罪人だ。
そばにいる人間は、共犯者として巻き込まれ、村にいられなくなるだろう。
……だから、駄目なんだ。
俺が自分の怒りに従って生きるなら、大切な人を増やしちゃいけない。
ケニを巻き込むくらいなら、俺は一生独りでいたほうがいい。
「……俺は、長男です。畑も継がなきゃならないし、年老いた両親もいます」
「それは『言い訳』か? それとも『本心』か?」
バズの言葉は鋭かった。
ロバーソンは言葉に詰まる。
「……少し、時間をください」
ロバーソンは絞り出すように言った。
「ふん、迷うのも若者の特権か」
バズは短く鼻を鳴らした。
「だがな、ロバーソン。戦場に『待った』はねえんだ。好機ってのは、放たれた矢のようなもんだ。掴み損ねたら、二度と戻ってこねえぞ」
バズはそれだけ言い残し、背を向けて去っていった。
残されたロバーソンは、暮れなずむ空を見上げた。
西の空。アーノルがいるはずの空。
あいつは今頃、俺の知らない世界で、俺の及ばない戦いをしているのだろうか。
「……なあ、アーノル。お前なら、どうする?」
答えのない問いかけは、秋風にさらわれて消えた。




