110. 猛獣使いと水とインク
「さあ、皆さん。準備は整いました。サマラへ向けて、出発しましょうか」
俺は朝日に向かって爽やかに宣言した。
二台の馬車は完璧だ。天気もいい。最高の旅立ち日和だ。
だが、アサータクは呆れたようにため息をつき、足元を指差した。
「おい。お前の目は節穴か? こいつを見て『出発』なんて言葉がよく吐けるな」
指差された先には、地面にうつ伏せになり、ピクピクと痙攣しているモイコさんがいた。
死神というより、もはや死体だ。
「……あー。ちょっと疲れてるみたいですね」
「ちょっと、で済むか。いつ終わるともしれない往復作業だぞ? 限界なんてとうに超えてる。少しは休ませてやれ」
アサータクはモイコを哀れむような目で見下ろし、それから俺に向き直った。
「それに、俺は商人だぞ。空っぽの馬車を走らせるなんて恥ずかしい真似、死んでもごめんだ」
「空っぽ? でも荷物は……」
「まだ買っちゃいねえよ。お前らがいつ完成させるか分からなかったからな」
アサータクは懐から一枚のくしゃくしゃになったメモを取り出した。
そこには、彼がこの数週間の間にレーマネの市場や裏路地を歩き回り、目星をつけていた「仕入れ候補」の店がびっしりと書かれていた。
「だが、リサーチは済んでいる。……おいアーノル、お前に一つ質問だ」
アサータクの目が、試すような光を帯びる。
「これから行くサマラは質実剛健な国だ。金持ちはいるが、派手な贅沢は好まない。そんな国へレーマネから運んで、一番儲かる商品はなんだと思う?」
「え、一番儲かるもの……ですか?」
俺は腕を組んで考えた。レーマネは鉄と職人の街だ。
「やっぱり……業物の『剣』とか? それか、職人が作った丈夫な『鍋』とか農具とか……」
「……はぁ」
アサータクが盛大なため息をついた。
「これだから素人は。剣や鍋なんて、どこの行商人でも運べるだろうが。競合が多いし、重いだけで利益率は低い」
「じゃあ、何なんですか」
「まあ、候補は色々あるんだが……」
アサータクは、バテンの足回りをコツコツと靴先で叩いた。
「この『揺れない馬車』があるなら、答えは一つ。『割れ物』だ。普通の馬車じゃ振動で粉々になっちまうような繊細な品を運んでこそ、この機能が金に変わる」
アサータクはニヤリと笑い、メモの一点を指差した。
「俺が狙うなら、ズバリ『インク壺』だ。それも、レーマネの職人が作った最高級品のな」
「インク壺?」
「ああ。中身はレーマネ特産の『煤』を使った最高級インクだ。こいつはガラスの小瓶に詰めて売る」
アサータクは商人の顔で熱弁した。
「サマラは契約と書類の国だ。だがあいつらは、身なりや屋敷を過度に飾ることを『美徳に反する』と考えている。……だがな、机の上の道具だけは別だ。美しいガラスの壺に入った、滲まないインク。これを持っていることだけが、あの堅物どもに許された『密かな愉しみ』であり、ステータスなんだよ」
「なるほど……!」
「さて、俺の案はこれだが……アーノル、お前はどうだ? 作った本人として、他に何か『化ける』商材は思いつかんか?」
「え、俺ですか?」
不意に振られ、俺は考え込んだ。
揺れない馬車。繊細なもの。
……ふと、前世の記憶がよぎった。ペットボトルに入った水が、当たり前のように売られていた光景。
「……『水』、とか?」
言った直後、俺はしまったと思った。
この世界では、水は井戸や川から汲むもので、タダ同然だ。わざわざ金を払って買う物じゃない。前世の感覚に引きずられすぎだ。
「い、いや、今のは忘れてください。水なんて売れるわけ……」
「……水か。面白い、一樽積んでいくか」
「えっ、いいんですか? ただの水ですよ?」
「お前が言ったんだろうが」
アサータクは可笑しそうに笑った。
「サマラは鉱山の国だろ? 地下水脈に金属が混じってるのか知らねえが、あそこの水は鉄臭くて不味いって評判なんだ。レーマネの水は山からの湧き水で美味いからな。……ま、売れなきゃ俺たちが飲めばいいだけの話だ」
商人の嗅覚というのは分からないもの
だ。
アサータクは宿の方へ歩き出し、入り口に立っていた男に声をかけた。
「ガウス。数日で出発だ。準備しておいてくれ」
「ああ、分かった」
傭兵のガウスは短く答えると、すぐに仲間たちの所へ戻っていった。
◇
それから数日後。
俺たちは街を回り、大量の「インク壺」と、レーマネの湧き水を詰めた「樽」を一つ買い込んだ。
さらに、重量テストも兼ねて、鉱山用の「重たい消耗品(砥石など)」も底に敷き詰めた。
通常の馬車なら、重い鉄の上にガラスを乗せれば振動で確実に割れるが、俺たちは構わず満載にした。
「よし、積み込み完了だ!」
バテンと二号車の荷台はずっしりと沈み込み、板バネが理想的なカーブを描いている。
準備が整ったところで、俺は馬たちの元へ向かった。
バテンを引くのは、あの【暴君】と【悪食】だ。
アサータクさんが訓練していたとはいえ、俺は最初に会った時の狂暴さが忘れられない。
「……大丈夫かな」
俺は恐る恐る、【暴君】の鼻筋を撫でようと手を伸ばした。
ガブッ!!
「危なっ!?」
【暴君】が殺意満々の目で噛み付いてきた。間一髪で手を引っ込めたが、袖が少し食いちぎられた。
隣の【悪食】も、俺を「餌」を見る目で見ていやがる。
「おいおい、相変わらず凶暴だな……。これじゃ繋ぐだけで一苦労だぞ」
「どけ、アーノル。お前じゃ無理だ」
後ろからアサータクが現れ、俺を押しのけて【暴君】の前に立った。
無防備だ。危険だ。
「ちょっ、アサータクさん! 食われますよ!」
「『下がれ』」
アサータクが短く低い声を出し、睨みつけるように馬を見据えた。
明確な「拒絶」と「支配」の意思表示だ。
ブルルッ……
あの狂犬のような【暴君】が、ビクリと鼻を鳴らし、大人しくその場から一歩下がった。
さらにアサータクがポケットから角砂糖を取り出すと、【悪食】が尻尾を振って擦り寄ってきた。
「は……?」
俺は目を疑った。
あの怪物が、完全に主従関係を受け入れている。
「お前らが鉄屑と格闘している間、俺がただ遊んでいたと思ったか? こいつらとは毎日語り合ったマブダチだ。……まあ、最初は二、三回殺されかけたがな」
アサータクは涼しい顔で、【暴君】のたてがみを慣れた手付きでブラッシングし始めた。
馬たちは、「この人がボスだ(そしてあいつは下っ端だ)」という目を俺に向けている。
(す、すげえ……。「交渉能力」って馬にも通じるのかよ……)
さすがは商人、と言うべきか。
「よし、最後に一番大事な『荷物』を積むぞ」
アサータクの合図で、ガウスたちが気絶したままのモイコを持ち上げ、荷台のクッション(モイコ専用席)へと丁寧に放り込んだ。
「さて、配置だが……」
アサータクが手綱を握りながら言った。
「ガウスたちは俺の馬車を頼む。あっちを引くのは俺の愛馬だ。よく言うことを聞くから、お前らでも問題ない」
「了解だ。じゃあ、アンタがあっちを?」
「ああ。こっちの暴れ馬どもは、しばらくは俺が見ねえと御すのは難しいだろうからな」
アサータクはそう言って、漆黒の馬車
『バテン』の御者台へと乗り込んだ。
そして、俺の方を見て顎をしゃくった。
「アーノル、お前は俺の横だ。いつまでも俺が手綱を握ってるわけにはいかねえ。お前も御者を覚えろ」
「はい! よろしくお願いします!」
俺はバテンの助手席に飛び乗った。
せっかく作った最高の馬車だ。俺自身の手で操れるようにならなければ嘘だ。
朝日が街道を照らす。
カイルが、油まみれの手を振って見送ってくれている。
「野郎ども! サマラへ向けて、稼ぎに行くぞぉッ!!」
「「「オオォォォッ!!」」」
アサータクが鞭を振るう。
俺たちの「革命」と、インクと水を乗せた馬車が、滑るように街道へと走り出した。




