108. 暴れ馬と商人の手綱
レーマネの市街地を抜け、石畳の道が土の道へと変わる頃、風の匂いが変わった。
都市の埃っぽさが消え、青草と乾いた土、そして獣の匂いが混じった野性的な香りが鼻をくすぐる。
「見えてきたぞ。あれが『緑風牧場』だ」
乗合馬車から降りた俺たちの目の前に、見渡す限りの草原が広がっていた。
緩やかな丘陵地帯を白い柵が延々と囲い込み、その内側で数え切れないほどの馬たちが、豆粒のように散らばっている。
数百頭……いや、もっとか。
この一帯の物流を支える馬の供給源だけあって、その規模は圧巻の一言だった。
「こりゃあ凄い。ここなら確かに数は揃いますね」
「噂には聞いていたが、これほどとはな。さあ、行くぞ」
アサータクさんが慣れた足取りで正門へ向かうと、管理小屋から作業着を着た初老の男が小走りでやってきた。
日焼けした肌に、人の好さそうな笑顔。この牧場の主だ。
「いらっしゃい! 見ない顔ですが、馬をお探しで?」
「ああ。商人のアサータクという者だ。今日はとびきりの馬を仕入れに来た」
アサータクさんは愛想よく、しかし隙のない商人の笑みを浮かべて握手を求めた。
「ほう、商人さんでしたか。それで、どのような馬をご希望で?」
「単刀直入に言おう。新しく作った大型馬車を引くための『動力』となる馬が二頭欲しい。並の馬じゃビクともしないような重戦車を引くための、とびっきりの馬鹿力がな」
「ほう、パワー重視ですか。それなら……」
親父さんは顎をさすりながら、俺たちを牧場の中心部へと案内した。
「こっちの第3エリアがお勧めです。軍馬の血を引く血統書付きや、元々開拓用に使われていた力自慢たちが揃ってますよ」
案内された柵の中には、筋肉質の立派な馬たちが並んでいた。
毛艶も良く、手入れが行き届いているのが分かる。
俺はアサータクさんの後ろで、こっそりと鑑定を発動した。
種別:馬(鹿毛)
速さ:C
頑丈:C
体力:C
気性:従順
能力:なし
(ふむ、アサータクさんの愛馬と同じくらいの優等生だ)
種別:馬(黒鹿毛)
速さ:C
頑丈:C
体力:B
気性:温厚
能力:【忍耐】
(おっ、体力B。一流クラスが混じってるな)
さすが本命の牧場だ。市場のDランク(一般的)とはレベルが違う。ここなら安心して選べるだろう。
だが、アサータクさんは腕組みをして、どこか物足りなさそうに首を傾げていた。
「どうです旦那? 悪くないでしょう?」
「ああ、悪くない。……悪くないんだが、ちと『迫力』が足りねえな」
「迫力、ですか?」
「ああ。今度の馬車は『バテン』って言うんだがな、漆黒の鉄と革でできた化け物みたいな図体なんだ。いくらベアリングで軽くなったとはいえ、この優等生たちじゃ、見た目の威圧感で馬車に負けちまう」
アサータクさんの商人の勘が告げているのだろう。
バテン号には、普通の「良い馬」では釣り合わないと。
その時だった。
ドゴォォォォンッ!!
牧場の奥、丘の向こうから、何かが激突するような重低音が響いてきた。
馬のいななきというよりは、猛獣の咆哮に近い声が風に乗って聞こえてくる。
「……なんだ今の音は?」
俺が尋ねると、親父さんの顔が曇った。
「ああ……お客さん、気にしないでください。あそこは『隔離エリア』です。ウチの在庫処分品を閉じ込めてある場所でして」
「在庫処分? こんな立派な牧場でか?」
「ええ。体格や能力は間違いなく一流なんですがね……気性が荒すぎてどうにもならんのです。鞍を乗せようとすれば暴れる、馬車を繋げば破壊する、他の馬を噛み殺そうとする。……近々、ソーセージに加工して出荷する予定でして」
それを聞いて、アサータクさんは「なるほど、じゃあパスだな」と言おうとした。
だが、俺の直感が騒いだ。
バテンにふさわしいのは、そういう「規格外」なんじゃないか?
「親父さん、ちょっと見てもいいですか?」
「えっ? いや、危ないですよ? 柵に近づくだけで威嚇してきますから」
「見るだけです。行きましょう、アサータクさん」
俺たちは親父さんを説得し、音のした隔離エリアへと足を向けた。
そこは、牧場の最奥部。
他の柵よりも二倍は太い丸太で組まれた、厳重な檻のような場所だった。
その中に、二頭の「黒い影」がいた。
一頭は、他の馬よりも一回りは巨大な、筋肉の鎧を纏ったような巨体。
もう一頭は、そんなボスには我関せずといった様子で、柵の支柱をバリボリと齧っている食い意地の塊。
俺は目を凝らし、ステータスを読み取った。
一頭目(ボス格の巨大な黒馬)
速さ:B
頑丈:B
体力:B
気性:凶暴
能力:【暴君】
二頭目(柵を食べている馬)
速さ:C
頑丈:B
体力:B
気性:貪欲
能力:【悪食】
(……おお、Bランクだ)
俺は息を呑んだ。
市場での「D」や、アサータクさんの「C」を見慣れた目には、この「B」の並びが輝いて見える。
伝説級(A以上)ではないが、現実的な範囲での「最強クラス」と言っていい。
特に【暴君】と【悪食】というユニークスキル。間違いなく、バテンを引くために生まれてきたような連中だ。
「アサータクさん。あいつらです。あの二頭を買いましょう」
「は? おいアーノル、正気か? あれは馬っていうか、猛獣だぞ? 鞍を乗せただけで発狂しそうだ」
「大丈夫ですよ。僕が何とかします」
俺は自信満々に前に出た。
親父さんが「危ないですよ!」と叫ぶのを手で制し、俺は柵の中へと足を踏み入れた。
(……相手は言葉の通じない獣だ。だが、生物としての『格』は理解できるはずだ)
俺はこれまでの旅で、一国の王族と渡り合い、数々の修羅場を潜り抜けてきた。
その経験から滲み出る「気迫」を使えば、野生動物を萎縮させることなど造作もないはずだ。
俺は【暴君】の正面、鼻先が触れる距離まで歩み寄った。
【暴君】が俺を見下ろし、ブルルッ、と鼻息を荒げる。
近くで見ると山のような威圧感だ。
「……いい子だ。今日から僕が主人だよ」
俺はニッコリと笑いながら、ほんの少しだけ――背筋が凍るような威圧感を放った。
さあ、本能で悟れ。目の前の人間が、お前より強い上位者だと。
平伏せ。
ヒヒィンッ!!
ガブッ!!
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
激痛が走った。
平伏すどころか、【暴君】は挨拶代わりに俺の肩に噛みついてきやがった。
甘噛みではない。本気で肉を食いちぎる勢いだ。
「ちょ、離せ! 離せ馬鹿! 俺はご主人様だぞ!?」
俺が慌てて腕を振り回すが、万力のような顎はびくともしない。
気迫? 威圧?
そんな人間臭い理屈は、この筋肉ダルマには一切通じなかった。「喧嘩を売られたから買った」という単純な反応だ。
「い、痛い! 服が裂ける!」
俺がもがいていると、今度は後ろから気配がした。
もう一頭の【悪食】だ。
助けてくれるのか――と思った瞬間。
ムシャムシャ。
「……痛い痛い痛い! 髪! 髪はやめろ!」
【悪食】は俺の後頭部に食らいつき、髪の毛を牧草のように貪り始めた。
「こら! 髪は食べ物じゃない! やめろ!」
前からは肩を食われ、後ろからは髪を食われる。
俺は二頭の馬にサンドバッグのように揉みくちゃにされ、泥まみれになった。
親父さんが顔面蒼白で叫んでいるのが見える。
「……はぁ。見てられねえな」
柵の外で、アサータクさんが呆れたように深く溜息をついた。
彼は親父さんから手綱と、穀物が入った木桶を受け取ると、ゆっくりと柵の中へ入ってきた。
「いいかアーノル。獣ってのはな、気迫や理屈じゃ動かねえ。動くのは単純な『利』と『力』だ」
アサータクさんは、まず俺の髪を食べている【悪食】の鼻先に、桶を突き出した。
「ほらよ、極上の燕麦だ。柵の木なんかより美味いぞ」
ブフッ!
【悪食】は俺の髪の毛をペッと吐き出し、目の色を変えて桶に顔を突っ込んだ。
ガツガツと音を立てて食らいつく。
「言うことを聞けば、これが腹いっぱい食えるぞ」
アサータクさんは馬が夢中で食べている隙に、流れるような手つきで手綱を装着し、杭に固定してしまった。
一丁上がりだ。
「単純なやつだ。で、お前は……」
次にアサータクさんは、俺の肩を噛んでいる【暴君】の前に立った。
桶を地面に置く。
【暴君】は俺を離し、桶に向かおうとした。
だが、アサータクさんがその前に立ちはだかった。
ヒヒィンッ!
邪魔をするなとばかりに、【暴君】が前足を上げ、威嚇する。
振り下ろされれば骨が砕けるような蹄が、アサータクさんの頭上で踊る。
だが、アサータクさんは微動だにしない。
眉一つ動かさず、ただ静かに、冷徹な商人の目で馬を見上げた。
「……暴れたければ暴れろ。だがな」
アサータクさんの声は低く、重かった。
それは特別な力ではない。
長年、荒野で盗賊をあしらい、命がけの商談を制してきた、一人の男としての「胆力」。
「俺についてくれば、お前のその有り余る力に見合った場所と飯をやる。狭い柵の中で腐ってソーセージになるか、広い世界を思う存分走るか。……好きな方を選べ」
アサータクさんは馬の目を見つめたまま、ゆっくりと手を伸ばし、馬の鼻面を掴んだ。
そしてグイッ、と自分の方へ引き寄せた。
力比べではない。
「俺がお前のボスだ」という事実を、魂に刻み込むような動作。
一瞬の静寂。
【暴君】の荒い鼻息が、アサータクさんの顔にかかる。
ブルルッ……。
やがて【暴君】は、諦めたように力を抜き、大人しく首を垂れた。
アサータクさんはその首に手綱をかけ、ポンと首筋を叩いた。
「よし。交渉成立だ」
「……すげえ」
俺が泥だらけで呆然としていると、アサータクさんはニヤリと笑った。
「伊達に何十年も馬車を引いてねえよ。こいつらは賢い。自分を一番高く買ってくれる相手を理解しただけだ」
アサータクさんは二頭の手綱をまとめ、牧場主に向かって手を上げた。
「親父さん! こいつらまとめて引き取るぞ! 代金はさっきの半値……いや、迷惑料込みで三割でいいな?」
「へっ!? あ、あの悪魔たちを!? い、いいんですか!?」
「構わん! どのみち肉にするつもりだったんだろう? だったら金になった方がマシなはずだ!」
「あ、ありがとうございますぅぅぅ!!」
牧場主は涙を流して感謝した。
厄介払いができた上に金まで入るとあれば、断る理由はない。
こうして俺たちは、二頭の最強の動力を手に入れた。
代償として、俺の肩には歯型がつき、後頭部は少し涼しくなったが。
◇
俺たちは二頭の暴れ馬――アサータクさんの手綱捌きのおかげで今は大人しい――を引き連れ、レーマネの工房へと戻った。
工房の前では、ようやく意識を取り戻したカイルとモイコさんが、日向ぼっこをしていた。
「……あ、戻ってきた」
カイルがげっそりした顔で俺たちを見る。
そして、後ろに繋がれた巨大な黒馬たちを見て、頬を引きつらせた。
「おい……すげえデカくて凶悪そうな馬だな……。まさか、そいつらがバテンを引くのか?」
「ええ。最高の相棒が手に入りましたよ。少々気性は荒いですが、パワーは保証します」
俺は二頭を工房の前の杭に繋いだ。
【暴君】はバテンの漆黒の車体を見ると、気に入ったのか鼻を鳴らし、【悪食】は早速近くの雑草を食べ始めた。
「さて、カイル。モイコさん。たっぷりと休憩はとれましたか?」
「……嫌な予感がする言い方だな」
モイコさんが身構える。
俺は笑顔で言った。
「アサータクさんの交渉術のおかげで、馬の問題は解決しました。バテンはいつでも走れます。……ですが」
俺は工房の奥に停めてある、もう一台の馬車を指差した。
アサータクさんが今まで使っていた、年季の入った幌馬車だ。
「僕たちはチームで旅をします。バテンだけが速くても意味がありません。荷物を積む『二号車』も、バテンと同じ速度で走れるように改造しなければなりません」
カイルの顔から血の気が引いていく。
「……ま、まさか。あの板バネ地獄を、もう一回やるのか……?」
「要領は分かっているから、今度はもっと早く終わりますよ。それに、モイコさん」
俺はまだ顔色の悪い運び屋を見た。
「二号車に使う分のベアリングと板バネは、手元にあります。モイコさんが運んでくれた『残り』で足りますからね」
俺の言葉に、モイコさんの顔に一瞬、希望の光が差した。
だが、俺は慈悲のない笑顔で続けた。
「ですが……『操舵システム』の予備がありません。あれは一式しか作ってもらっていませんから。サンデルさんに追加で『もう一式、あの面倒な歯車をお願いします』と頼んで、回収してきてください」
「…………」
モイコさんは無言で天を仰いだ。
アサータクさんが、楽しそうに俺の肩を叩いた。
「おいおい、手厳しいな。だが、やるなら徹底的にだ。俺の古女房(二号車)も、バテンに負けない名車にしてくれよ?」
レーマネの裏路地。
旅立ちの日はまだ遠い。
職人と運び屋の、地獄が再び始まろうとしていた。




