106. 鋼鉄の処女航海と、悪夢の再始動
モイコが持ち帰った最後の部品――ステアリング用のギア一式が組み込まれ、ついにバテンの「足回り」は完成した。
工房の前には、生まれ変わった漆黒の馬車が鎮座している。
見た目は以前と変わらない重厚な箱馬車だが、その下回りには、この世界の常識を覆す機構が詰め込まれていた。
四つの車輪すべてに装備された、独立懸架の板バネ。
車軸の回転を極限まで滑らかにする、四百個の真球。
そして前輪には、従来の「車軸ごと回す」方式ではなく、自動車に使われる「ラック・アンド・ピニオン」を模した操舵システム。
「……おいおい、本当にこれで動くのか?」
アサータクさんが、信じられないものを見る目で車体の下を覗き込んでいる。
「車軸が車体に直付けされてねえぞ。バネで浮いてるだけじゃねえか。これじゃあ、曲がった時に遠心力で車体がすっぽ抜けるぞ」
「大丈夫ですよ。横揺れ防止のスタビライザーも兼ねたリンクを組んでありますから」
俺は御者台に飛び乗った。
「論より証拠です。アサータクさん、乗ってください。カイル、君もだ」
「え……俺も? 嫌だよ、分解したらどうすんだよ」
「君が作ったフレームだぞ。自信を持て」
渋る二人を乗せ、俺は仮の動力として借りてきた老馬の手綱を握った。
御者台の横にあるレバー――駐車ブレーキを解除する。
「行きます!」
手綱を振るう。
パカッ、パカッ……。
老馬がゆっくりと歩き出す。
ゴトッ、ゴトッ……。
石畳の路面を車輪が噛む音が響く。
だが、車内は静寂に包まれていた。
「……な、なんだこりゃ?」
アサータクさんが目を見開いて、自分の尻と座席の間を確認している。
「揺れねえ……。石畳の上だぞ? なのに、まるで湖の上を滑ってるみたいだ……」
「成功ですね。サスペンションが細かい衝撃をすべて吸収しています」
俺は速度を上げた。
老馬が駆け足になる。
普通の馬車なら、ガタガタと激しい振動と騒音に襲われる速度だ。
しかし、バテンは「スゥーッ」という風切り音だけを残し、滑るように加速していく。
「ベアリングの効果も絶大だ。摩擦が消えたおかげで、馬の負担が段違いに軽い」
そして、運命の交差点。
直角に近いカーブだ。
「おいアーノル! 減速しろ! その速度で突っ込んだら転倒するぞ!」
アサータクさんが叫ぶ。
従来の馬車は、前輪の車軸ごと向きを変えるため、急ハンドルを切るとバランスを崩しやすい。
だが、俺は速度を落とさずにハンドル(手綱)を切った。
ググッ……!
車体が外側に沈み込む。
しかし、転倒はしない。
板バネが強烈な遠心力を受け止め、粘り強く踏ん張る。
そして前輪は、ラック・アンド・ピニオンのギアによって、必要な角度だけ正確に向きを変えた。
ズザザザッ!
タイヤが路面を掴み、バテンは鮮やかな弧を描いてカーブをクリアした。
「……嘘だろ」
アサータクさんが口を開けたまま固まっている。
カイルは腰が抜けたのか、床にへたり込んでいた。
「どうですか、アサータクさん。これなら商売に使えますか?」
俺が振り返って尋ねると、伝説の行商人は震える手で車体を撫でた。
「商売? ……馬鹿を言え。こんなもんで商売なんかしたら、他の馬車屋が全員廃業しちまうぞ。これは『革命』だ」
アサータクさんは興奮した様子で、前輪の操舵機構を指差した。
「特にこの舵取り(ステアリング)だ! 今までの馬車は、曲がる時に馬が無理やり車軸を引っ張っていた。だがこいつは、車輪だけが勝手に向きを変えてくれる。御者の腕が疲れねえし、小回りが利きすぎる!」
「でしょう? 苦労してギアを設計した甲斐がありました」
「すげえ……。こいつを量産すれば、世界中の輸送が変わるぞ。おいアーノル、予備はあるのか? うちのボロ馬車にも積みたいんだが」
アサータクさんの言葉に、俺は苦笑して首を振った。
「残念ながら、このギアボックスは高価すぎて、一台分しか発注していません」
「ん? 鉄球と板バネは二台分あるじゃねえか。モイコが死にそうになりながら運んでたぞ」
「玉とバネは構造が単純で、汎用性が高いですからね。もし失敗しても他に使い道があります。だからリスクを恐れずに二台分頼みました」
俺はもっともらしい顔で嘘をつく。
本当は、単にギアの図面を引くのが遅れただけなのだが。
「ですが、このギアは専用設計の超精密部品です。もし設計ミスがあったら、作った分が全部ゴミになる。だから、バテンでの性能試験が終わるまでは、二つ目の発注は控えていたんです」
「……なるほどな。さすが慎重だ」
アサータクさんは納得してくれたようだ。
俺は工房へ戻り、馬車を止めた。
「さて、性能は証明されました。これでバテンは長旅に耐えられます」
俺は馬から降り、へたり込んでいるカイルの肩を叩いた。
「カイル、喜べ。バテンの改造は完了だ」
「お、終わった……! やっと、やっと終わったんだな……!」
カイルが涙ぐみながら立ち上がる。
だが、俺は満面の笑みで、工房の奥――アサータクさんの古い幌馬車を指差した。
「ええ。ですが、僕たちはチームで旅をします。バテンだけが速くても意味がありません。荷物を積む『二号車』も、バテンと同じ速度で走れるように改造しなければなりません」
カイルの顔から、一瞬で血の気が引いていく。
彼はガタガタと震えながら、後ずさりをした。
「……ま、まさか。あの板バネ地獄を、もう一回やるのか……?」
「要領は分かっているから、今度はもっと早く終わりますよ。それに、安心してくれ」
俺は工房の隅に積まれた木箱を示した。
「二号車に使う分の『ベアリング(玉)』と『板バネ』は、手元にあります。モイコさんが運んでくれた『残り』がそのまま使えますからね」
「…………」
「サスペンションの組み込みだけなら、数日で終わるでしょう。ステアリングのギアはまだありませんから、まずは足回りだけ固めましょうか」
カイルは白目を剥いて、その場に卒倒した。
どうやら嬉しすぎて気絶したらしい。
「やれやれ、根性がないな。……さて、アサータクさん」
「おう、なんだ?」
「馬車は仕上がりましたが、肝心の動力が貧弱です。この老馬じゃ、バテンの性能を半分も引き出せません」
俺はカイルとモイコが眠る工房を背に、アサータクさんに向き直った。
この悪魔的な馬車を、フルスピードで牽引できる怪物が要る。
「行きましょう、アサータクさん。バテンにふさわしい、最強の馬を買いに」
「ハッ、違いねえ。とびきり凶暴なやつを見繕ってやるよ」
俺たちは気絶している二人を「休憩中」ということにして、レーマネの家畜市場へと足を向けた。
嵐の前の、最後の静けさだった。




