105. モイコの死の行進と、名匠の臨界点
モイコが板バネを求めてターマインへ走ってから、数日が過ぎた。
レーマネの工房では、俺とカイルが、到着するバネを組み込むための土台作りに追われていた。
カイルは完全に職人の顔になっていた。
休憩のたびに「あのツルツルの玉が入るんだ、半端な枠組みじゃ失礼だ」と呟き、一度は完成としたフレームの微調整を繰り返している。
そして――約束の期限ギリギリ、六日目の深夜。
工房の扉が、重々しく叩かれた。
「……戻ったぞ……」
扉を開けると、そこには泥人形のように変わり果てたモイコが立っていた。
もはや「走ってきた」というより「地面を這ってきた」ような有様だ。
「モイコさん! 大丈夫ですか!?」
「……水……水をくれ……。あと、馬のケツは見たくねえ……」
モイコは木箱を俺に押し付けると、そのまま床に崩れ落ちた。
木箱の中には、二十四枚の板バネが整然と収められていた。
すべてが均一なカーブを描き、黒く美しい光沢を放っている。
「すげえ……。全部、同じ形だ……」
カイルが震える手で一枚を取り出す。
重ねてみても、紙一枚の隙間すら生まれない完璧な精度。
「よし、カイル。すぐに組み込もう」
俺たちはモイコを工房の隅で寝かせ、夜通し作業を続けた。
車軸の上に板バネを重ね、U字型の金具で固定する。
朝日が昇る頃、すべての車輪にサスペンションが装着された。
「……試してみるぞ」
俺とカイルは、車体の四隅を持ち、せーので体重をかけた。
ググッ……スゥッ。
今までなら「ガツン」という硬い衝撃が返ってくるはずの感触がない。
車体は柔らかく沈み込み、そしてゆっくりと元の位置に戻った。
「……嘘だろ?」
カイルが自分の手を見つめて呆然としている。
「浮いてる……。まるで、水に浮かべた小舟を押してるみたいだ……」
「成功だ。これなら、石畳の凸凹なんて無いのと同じだ」
俺が満足げに頷くと、カイルは泣きそうな顔で笑った。
「あんた、天才かよ……。こんな乗り心地、王様の馬車だってありえねえぞ」
カイルの目には、完全に火が灯っていた。
もう彼は、ただの修理屋ではない。歴史を変える「製作」の一員だ。
だが、まだ終わりではない。
俺は新しい手紙を書き上げ、工房の隅で死体のように眠る男を揺り起こした。
「……モイコさん。起きてください」
「……あァ? ……ここか天国か……?」
「まだレーマネです。そして、これが最後の往復です」
俺が差し出したのは、三枚目の白金貨と、分厚い封筒。
モイコは虚ろな目でそれを見つめ、乾いた笑いを漏らした。
「……三回目、か。確認するが、これが本当に最後なんだろうな?」
「ええ。この部品が揃えば、基本構造は完成します。作戦名は『死の行進』です」
「……不吉な名前をつけやがって」
モイコはよろめきながら立ち上がり、白金貨を握りしめた。
「いいだろう。地獄の底まで付き合ってやるよ。……ただし、帰ったら最高級の酒と、一ヶ月の休暇を寄越せよ」
「約束します」
モイコは背中で手を振り、再び馬上の人となった。
その背中は、疲労困憊してはいるが、プロの傭兵としての意地が張り詰めていた。
◇
ターマイン・サンデル工房。
四十八枚の板バネを打ち終え、サンデルは廃人のようになっていた。
だが、地獄のような単純作業から解放された安堵感で、久しぶりに熟睡していた。
そこに、あの「死神」が現れた。
前回よりもさらに生気を失い、もはや怨霊の域に達したモイコが、無言で木箱と手紙を置いていったのだ。
サンデルは震える手で手紙を開いた。
『板バネ、最高でした! カイルが泣いて喜んでいましたよ。
さて、いよいよ大詰めです。最後にお願いしたいのは「操舵システム」の心臓部。
前輪を滑らかに動かすための特大ベアリング一式と、精密に噛み合う平歯車、そしてそれを繋ぐ強化軸。
図面を同封します。「遊び(クリアランス)」は一切許されません。
これが終われば、第一期工事は完了です。』
「…………ぎゃ、ははははははははッ!!!」
手紙を読み終えたサンデルの口から、乾いた笑いが溢れ出した。
怒りを通り越し、脳のどこかの箍が完全に外れた音だった。
「歯車だと!? 遊びは一切許さないだと!? あのクソガキ……ついに俺を時計師扱いし始めやがったかぁぁぁ!!」
サンデルは狂ったように笑いながら、作業台に同封された精密な図面を広げた。
そこには、中世レベルの鍛冶屋技術では到底不可能に近い、複雑かつ精密な操舵機構のパーツが描かれていた。
ミリ単位どころか、髪の毛一本分のズレも許されない世界。
「面白い……。やってやろうじゃねえか! 歴史に刻むだと? 結構だ! この俺を殺し損ねたことを、あの世で後悔させてやる!!」
サンデルは傍らにあった水瓶を頭から被ると、もはや自分の腕ではないかのように動く槌を振り上げた。
「おい、死神! 炭が足りねえ! 白金貨を全部炭に変えてこい! 炎が足りねえんだよ!!」
モイコは返事をする気力もなく、工房の隅で意識を失った。
その後、ターマインの街の人々は、二昼夜にわたってサンデルの工房から響き続けた、地獄の底を叩くような異様な槌音を、生涯忘れることはなかったという。
◇
六日後。
レーマネの工房で待つ俺たちの元に、最後の部品が届いた。
モイコは馬から転がり落ちるようにして帰還し、そのままピクリとも動かなくなった。
……だが、その手にはしっかりと、油紙に包まれた歯車とベアリングが抱えられていた。さらにその下には、無理やり括り付けられた板バネ二十四枚がある
「……よくやった、モイコさん。あなたは最高の運び屋だ」
俺は動かなくなったモイコに敬意を表し、カイルと共に最後の木箱を開けた。
中には、怪しいほどに黒光りする、精巧なギアパーツが鎮座していた。
「……こいつは、俺がいじっていい代物なのか?」
カイルがゴクリと喉を鳴らす。
「ああ。これを組み込めば、バテンは完成だ」
俺たちは工具を手に取った。
長い、長い改造の旅が、ようやく終わろうとしていた。




