104. 摩擦の消失と、新たな「苦行」の始まり
モイコが届けた木箱の中には、サンデルの執念が詰まっていた。
二百個の漆黒の真球。
指でつまみ上げると、吸い付くような滑らかさと、ずっしりとした重みが伝わってくる。
歪みは一切ない。
これこそが、世界で唯一、サンデルにしか打てない「完全な球体」だった。
「……すげえ。なんだこれ、宝石か? 貴族の子供が遊ぶ高級なガラス玉よりツルツルだぞ……」
カイルが震える手で一粒を手に取り、光にかざして息を呑む。
俺とカイルは、俺が徹夜で磨き上げた軸受け(外輪)の中に、この真球を慎重に流し込んだ。
特製の獣脂をこれでもかと詰め込み、カイルが完璧に調整した車軸に通し、最後の手締めを行う。
工房の空気が張り詰める。
「……回してみるぞ」
俺が車輪に指先でほんの少し力を込めた瞬間、車輪は無音で加速した。
シャーッ……という微かな音さえしない。
まるで氷の上を滑るように、あるいは重力から解き放たれたように、車輪は回り続けた。
一分、二分……。
いつまでも止まる気配のない、不気味なほど滑らかな回転を眺めながら、カイルが魂の抜けたような声で呟く。
「……止まらねえ。おい、アーノル。これ、馬車じゃねえよ。永久に回り続ける呪いの道具だ」
「いいえ、カイル。まだ完成じゃありません。摩擦が消えて速度が出るようになった分、今のままじゃ石畳の振動が直撃して、車体がバラバラに砕けます」
俺は回り続ける車輪を強引に手で止めた。
摩擦熱は一切ない。成功だ。
俺は地面に新しい図面を広げた。
摩擦を殺した次は、衝撃を殺さなければならない。
「カイル、次はこれだ。『重ね板バネ(リーフスプリング)』を作る。厚さ三ミリの鉄板を長さ順に六枚重ねて、それを弓のようにしならせて車体を支える。これで路面の衝撃を吸収するんだ」
「……鉄板を、六枚? それを全部の車輪に?」
「ええ。一台につき四箇所、使う鉄板は二十四枚です。……ですが、アサータクさんの古い馬車も改造するし、予備も含めて四台分は確保しておきたいですね」
俺は書き上げたばかりの手紙を封筒に入れ、工房の椅子で水を飲んで一息ついていた男を振り返った。
「モイコさん、出番です」
到着したばかりで、まだ肩で息をしていたモイコが、ビクリと反応して顔を上げた。
「……おい、アーノル君。俺、今着いたばかりだぞ? 尻の皮が擦り剥けてヒリヒリしてるんだが?」
「ええ。ですが、休んでいる暇はありません。計算上、カイルのフレーム調整が終わるのと同時にあなたが戻ってくるには、今すぐ出ないと間に合いません」
俺は笑顔で手紙と、二枚目の白金貨を差し出した。
「命名しましたよ、この輸送任務の名前を」
「……聞きたくねえけど、一応聞こうか」
「作戦名――モイコのケツから火を噴く地獄の爆走・替え馬ぶっ殺し・白金栄光ロード・ターマイン特急便・リターンズです。略して『モイコ・デスロード』。もちろん、今回も白金貨一枚、全額経費で」
「名前が長すぎるし、俺のケツを燃やす前提じゃねえか!! 替え馬の命も俺の尊厳も無視かよ!」
モイコは絶叫したが、俺が白金貨を指先でチャリと鳴らすと、彼は悔しそうに唇を噛み、ひったくるようにそれを受け取った。
「……チッ! わかったよ! やりゃあいいんだろ、やりゃあ! どうせ感覚なんざとっくに麻痺してんだ!」
モイコはまだ湯気を立てている愛馬をその場に残し、新しい馬を手配するために工房を飛び出していった。
◇
ターマイン・サンデル工房。
「……ようやく、終わった……」
薄暗い工房の中で、サンデルは最後の一粒――四百個目の真球を木箱に放り込み、深い溜息をついた。
最初の二百個は、怒りに任せて二日で仕上げた。
だが、手紙にあった「できれば残りの二百個も」という追加注文。これが地獄だった。
怒りのエネルギーが切れた後の、ただひたすらに同じ精度の玉を打ち続ける単純作業。
退屈すぎて死ぬかと思った。
酒を飲み、昼寝をし、愚痴をこぼしながらダラダラと手を動かし続け、気づけばあれから十日近くが経っていた。
「……へっ、あいつがどういうつもりか知らねえが、これで『残り』も全部終わりだ。もう玉は打たねえぞ」
サンデルが凝り固まった肩を回し、冷えたエールを喉に流し込もうとした、その時だった。
「……たもぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
工房の扉が、凄まじい勢いで蹴破られた。
そこには、前回よりもさらに泥まみれで、鬼気迫る形相のモイコが立っていた。
「……また、貴様か。なんだ、早かったじゃねえか」
サンデルはニヤリと笑い、足元の木箱を蹴った。
「ほらよ、残りの二百個だ。ちょうど今終わったところだ。持ってけ」
「……助かるぜ、爺さん。……だが、俺が来たのはそれを受け取るためだけじゃねえ」
モイコがふらつく足で差し出したのは、新しい図面と、アーノルからの「二通目」の手紙。
サンデルは嫌な予感を感じながら封を切った。
『真球(前半)、完璧な精度でした! 今ごろは後半の二百個も終わっている頃でしょうか?
タイミングばっちりですね! それはモイコさんに持たせてください。
さて、次は板バネです。厚さ三ミリ、長さが異なる六種類の鉄板。これを各八枚、合計四十八枚。
すべてあの粘り鉄で打ち出し、同じしなりを持たせ、同じ錆止め加工を施してください。
今回もまず半分の二十四枚だけお願いします。』
読み終えたサンデルの口から、魂というよりは、もはや内臓の欠片のような叫びが漏れた。
「……四十八枚……? 寸分違わぬ……しなりだと……?」
それは、退屈な玉作りとは次元の違う、精神を削り取るような精密作業だ。
しかも、手紙には残酷な事実がさらりと書かれている。
「……今回はまず半分だけ、だと……? まだバネも残りが控えてやがるのか……?」
終わりが見えない。
ようやく玉地獄から解放されたと思ったら、間髪入れずにバネ地獄。しかもおかわり付き。
「……あいつ、俺を殺す気かッ!! 鍛冶屋を……この名匠サンデルを、バネの量産工場だと思ってやがるのかぁぁぁぁぁぁッ!!」
サンデルは憤怒のあまり、床に置いてあった槌を全力で壁に投げつけた。
だが、怒りはすぐに笑いに変わった。
乾いた、狂気じみた笑いだ。
「おい、野良犬! さっきの白金貨を全部ぶち込んで、この街の炭と鋼を全部買い占めてこい! あと、飯は全部液体のスープにしろ、噛む時間が惜しい!!」
再び、ターマインの空に狂気じみた槌音が響き始めた。
一方、レーマネの工房では、アーノルが「三往復目の操舵システム」の図面を、さらに楽しそうに描き進めていた。
「モイコさん、次はステアリング用のギアとベアリングをお願いすることになると思います」
まだ工房を出たばかりのモイコの背中に向かって、俺は小さく呟いた。
アサータクは、まだ帰ってこない。
この馬車が完成した時、彼がどんな顔をするか楽しみだ。




