103. 鏡の回廊と、職人の目覚め
モイコがターマインに向けて早馬を飛ばしてから、レーマネの裏路地にあるカイルの工房は、外の喧騒が嘘のような静かな熱気に包まれていた。
「……アーノル、頼む。少し休ませてくれ」
作業台に突っ伏すようにして、カイルが絞り出すような声を上げた。
その手のひらは木材を削る鉋のマメで赤く腫れ上がり、指先は細かな木屑と接着剤で汚れている。
「もう三日、ずっと作業しっぱなしだ。寝ると食う以外、ひたすら木を削って、フレームを組んでる記憶しかねえぞ……。でも、まだフレームの補強が終わっただけだ……。まだ塗装も、組み込みも残ってるっていうのに……」
カイルの掠れた声に、俺は金属筒――ベアリングの外輪となる部品の研磨を止めて顔を上げた。
工房を見回す。
カイルの仕事は速く、正確だ。
車体のフレームは硬い樫の木で見事に補強され、強度は数倍に跳ね上がっている。
普通の修理屋なら一週間かかる仕事を、カイルは三日でこなしている。
十分すぎる成果だ。工程表から見ても、むしろ順調と言っていい。
だが、俺は無意識に「まだフレームだけか」と思ってしまっていた。
(……遅れている、と感じてしまうな)
カイルの顔色は限界を超えて真っ青だというのに。
ふと、ターマインでの日々が脳裏をよぎる。
サンデルさんと共に工房に引き籠もったあの日々。
不眠不休で鉄を叩き続け、食事の時間すら惜しんで計算式を怒鳴り合う。それが数ヶ月続いても、互いに倒れるまで止まらなかった。
あれが俺の中での「物作り」の基準になってしまっていたが、どうやらあれは完全に異常な世界だったらしい。
普通の人間であるカイルに、あの狂った鍛冶師と同じペースを求めて、さらに次の工程へ急かそうとしていた自分に寒気がした。
「……悪い。俺の感覚がおかしかったようだ」
俺は研磨布を置いた。
「フレームが終わっただけで十分すぎる成果だ。順調だよ。この状態で無理に次の工程に進んでも、ミスが出るだけだ。カイル、今日はもう上がろう。泥のように眠ってくれ」
「……助かる……。あんた、体力っていうか、集中力の化け物だよ、全く……」
カイルはふらふらとした足取りで、工房の隅にある煎餅布団になだれ込んだ。
数秒もしないうちに、死んだような寝息が聞こえ始める。
工房に一人、静寂が訪れる。
俺は立ち上がって伸びをし、寝床へ向かおうとした――が、作業台の上の金属筒が目に入った。
サンデルさんの「完全な球体」を迎え入れるための器、ベアリングの外輪。
鉄球が滑らかに回るかどうかは、この内側の研磨にかかっている。
(……これだけ。この内側の『芯』が出るまでやってから寝るか)
カイルがフレームを完璧に仕上げてくれた。
なら、俺も自分の分担である心臓部は完璧にしておきたい。
俺は再び椅子に座り、松明の火を寄せた。
その内側を、指先の感覚だけを頼りに、さらに滑らかに整えていく。
シュッ、シュッ、シュッ……。
規則正しい研磨の音だけが、夜の工房に響く。
少しだけ。あと少しだけ削れば、あの黒い玉は抵抗なく回り続けるはずだ。
指先に伝わる微細な振動。金属の温度。
意識が深く沈んでいく。
カイルの寝息も、窓の外の風の音も消え、ただ目の前の鉄の輝きだけが世界になる。
サンデルさんと共に魔剣を打った時と同じ、深い没入状態。
俺は時間を忘れ、ただひたすらに磨き続けた。
◇
小鳥のさえずりと、窓から差し込む朝日で、カイルは目を覚ました。
「……う、うぅ……。よく寝た……」
全身の節々が痛む体を起こし、カイルは大きく伸びをした。
外はすっかり明るくなっている。
随分と深く眠ってしまったようだ。
「悪いなアーノル、俺ばっかり寝ちまっ……て……」
言いかけ、カイルの言葉が止まった。
作業台の前。
昨夜とまったく同じ姿勢で、アーノルが座っていた。
だが、その背中から漂う空気が異様だった。
シュッ、シュッ、シュッ……。
一定のリズムで手を動かし続けているが、その動きには一切の無駄も、迷いもない。瞬きさえしていないように見える。
足元には、一晩分の金属の削りカスが積もっている。
「……おい、アーノル?」
カイルが声をかけた。
だが、反応がない。
カイルが近づいても、アーノルは気づく様子もなく、ただ手元の金属を見つめている。その集中力は、一種の恐怖すら感じさせるものだった。
「おいっ! 起きてるのか!?」
カイルが肩を掴んで揺さぶると、アーノルはビクリと体を震わせ、ようやく顔を上げた。
「……っ!? ……あ、カイルか」
アーノルは焦点の合わない目でカイルを見上げ、それから窓の外の明るさに気づき、キョトンとした顔をした。
「……あれ? 朝か? ……そうか、俺、寝ないで……」
「お前、休むって言ったじゃねえか……。一晩中やってたのかよ」
カイルが呆れていると、アーノルはふにゃりと笑って、磨き上げた金属筒を差し出した。
「でも見てくれ。完璧に仕上がった」
朝日に照らされたその内側は、鏡以上に光を反射し、吸い込まれそうなほど滑らかな曲面を描いていた。
カイルはその部品を受け取り、息を呑んだ。
ただの鉄の筒が、宝石のように美しく見えた。
修理屋として多くの部品を見てきたカイルにも分かる。これは、異常な執念が生み出した芸術品だ。
「……すげえな。こんなツルツルの鉄、見たことねえよ」
カイルの中に、呆れと恐怖、そしてほんの少しの「熱」が生まれた。
こんな凄い部品が、見えない車軸の中に組み込まれるのだ。
ならば、それを受け止めるフレームを作る自分が、半端な仕事をできるはずがない。
修理屋として既存のものを直すだけの日々では感じられなかった、未知のものを作る高揚感。
それが、カイルの職人魂に小さな種火を灯した。
「……しゃあねえな。中身がこれだけの別嬪さんなんだ。俺が作ったフレームも、もう一度見直して磨き上げてやるよ」
カイルは休息で回復した体で立ち上がり、一度は完成としたフレームに向き直った。
妥協を許さない手つきで、さらなる調整を始める。
そうして数日が過ぎた。
アーノルが金属部品を仕上げ、カイルがフレームを極限まで調整し終えた、その時だった。
工房の前の石畳を、激しい蹄の音が叩いた。
「……戻ったぞッ!!」
扉が勢いよく開き、泥を被った怪物が滑り込んできた。
全身から湯気を立て、目は血走っているが、その手には重厚な木箱が握られていた。
「モイコさん……!」
「……約束通りだ。……死ぬかと思ったぜ、全く」
モイコは力なく笑うと、木箱を俺の前の作業台に置いた。
その中には、光を吸い込むような漆黒の輝きを放つ、サンデル渾身の「真球」が収められていた。
「カイル、準備はいいか! 玉が届いたぞ!」
俺の声に、カイルが汗を拭いながら工具を握り直す。
その目の前には、モイコの到着に合わせたかのように、完璧に組み上げられたフレームが鎮座していた。
レーマネの裏路地。
ここから、馬車の常識を覆す最終工程が始まった。




