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キングスレイヤー序  作者:
第2章 侵食の始まり

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102. 泥まみれの疾走と、老鍛冶師の咆哮

「……これだ! カイル、このサイズだ!」


 すすまみれで床に這いつくばっていた俺は、ついに一つの鉄球を掲げた。


 何度繰り返したかわからない試行錯誤の果て。


 軸受けの隙間に絶妙に収まり、かつ馬車の自重を支えきれる「理想の直径」を、俺たちはついに突き止めたのだ。


「……ああ、確かにこの大きさなら噛み合わねえし、強度も保てるな」


 カイルが疲労困憊の様子でうなずく。


 俺はすぐに立ち上がり、煤けた手で書き上げたばかりの手紙と、カイルが作った基準サイズの鉄球を小さな木箱に詰めた。


「カイル、鉄の部品が届くまでの間、君には別の仕事を頼みたい。車軸を通すための土台作りと、衝撃を吸収するためのフレームの補強だ。得意分野だろう?」


「へっ、木を削るのなら任せとけ。鉄を磨くよりよっぽど気が楽だ」


 カイルが頼もしく笑うのを見て、俺は工房の入り口を振り返った。


 さて、アサータクさんは商売に行ってしまった。


 この手紙を届ける適任者を呼びに行かなければ――そう思って腰を浮かせた時だった。


「よう、アーノル君。アサータクの旦那から、ここで面白いことやってるって聞いたぜ」


 タイミングよく、モイコがひょっこりと工房に顔を出した。


 手には市場で買ったらしい果物をぶら下げている。


「モイコさん! ちょうどよかった、探そうと思っていたところです」


「ん? 休暇中の俺に何か用か? ……まあ、長期契約で寝ててもチャリンチャリンと賃金は発生してる身分だ。話くらいは聞くぜ? 荷物持ちなら高くつくがな」


 モイコはニヤリと笑い、果物をかじった。


「いえ、もっと大事な任務です。あなたにしか頼めない」


 俺は余計な説明を省き、木箱と手紙をモイコの手に握らせた。


「これを、ターマインのサンデルという鍛冶師に届けてください。詳しい注文内容は手紙に書いてあります」


「え、わざわざターマインまで? 結構な距離ですよ。伝令ギルドにでも流しますか?」


「いいえ。モイコさん自身にお願いしたいんです。方法も人選も任せます。最速でサンデルさんのところへ、帰りも最速でお願いします」


 モイコは俺の目を見て、軽く眉を上げた。


「……最速、ねぇ」


 モイコは頭の中で地図を思い描いているようだった。


「俺が動くのが一番確実でしょうね。腕利きの数人に替え馬を連れさせて、不眠不休で飛ばす。……だが、それだけじゃ足りない」


 彼は真剣な仕事人の顔になった。


「道中にある村や町、軍の駐屯地……使える場所は全部使って、その都度、馬を乗り換える必要があります。金に糸目をつけずに、土地の人間が大事にしている馬を札束でひっぱたいて奪い取り、泡を吹くまで走らせて乗り捨てる。そこまでやれば、通常の倍……いや、三倍の速度が出せる」


 モイコは掌を出した。


「で、費用はどうします? 馬を何頭も使い潰す計算になります。相当かかりますよ?」


「これで。道中の経費は全部ここから出してください。サンデルさんへの支払いも、彼の言い値で。……あの人は受け取らないかもしれないですが、その時はそれでいいです。とにかく使いたいだけ使って、お釣りは返してください」


 俺は懐から、さらりと白金貨一枚を取り出し、モイコの手のひらに置いた。


「…………は?」


 モイコの動きが止まった。


 工房の奥で作業を始めようとしていたカイルも、その輝きを見て工具を落とした。


 手の中にある、神々しいまでに白い輝き。


 金貨百枚に相当する、庶民なら一生お目にかかれない大金だ。


「……おいおいおい、正気か!? アーノル君! たかがお使いに白金貨って……これ、お釣りだけで俺たちが半年遊んで暮らせる額だぞ!」


「急ぎですから。それに、これが最後じゃありません。この馬車が完成するまで、また走ってもらうことになります。そのための先行投資です」


 モイコは顔を引きつらせ、震える指で硬貨をもてあそんだ。


「……あんた、馬鹿なのか、それとも底知れないのか。いいか? これを持ち逃げしたらどうする。俺は傭兵だぜ? 雇い主を裏切って逃げるなんて、この業界じゃ珍しくもない」


 モイコの声色が鋭くなる。


 俺は真っ直ぐにモイコの目を見つめて、静かに答えた。


「その時は、自分の目が曇っていたと諦めます」


「……あ?」


「僕は、モイコさんたちを信頼してます。それに、こんなことで裏切るような人に、これからの旅で自分の命を預けるなんてできません。もし持ち逃げされるような関係なら、どのみち僕は野盗か何かに殺されてるでしょう。そう考えれば、安いものです」


 工房に沈黙が流れた。


 カイルは息を呑み、作業の手を止めている。


 モイコはしばらく無言で俺を見つめていたが、やがて大きく溜息をつき、白金貨をポケットに放り込んだ。


「……参ったな。そんな言い方されたら、裏切る方が格好悪いじゃねえか」


 モイコはいつもの軽い調子をかなぐり捨て、鋭い傭兵の目に戻った。


「わかったよ。すぐに仲間を集めて出る。村の馬小屋だろうが軍の厩舎だろうが、金で叩いて馬を奪い取ってでも走ってやるよ」


 モイコはニヤリと不敵に笑い、親指で外を指した。


「普通の馬車なら二週間……だが、俺たちが本気を出せば常識なんざ関係ねえ。何日で戻れるかは神のみぞ知るだが、これだけは約束する。……俺たちが、この大陸で一番速いってことを証明してやるよ」


「お願いします、モイコさん」


 モイコは風のように工房を飛び出していった。


 俺はそれを見送り、カイルに向き直った。


「さあカイル、僕たちも負けていられない。彼が戻るまでに、最高の車体を用意しよう」


「……へいへい。とんでもねえ船に乗っちまったな」


 カイルは苦笑しながらも、その手つきには職人の熱が宿っていた。


          ◇


 レーマネの門を飛び出したモイコは、文字通り「風」になった。


 手にはアーノルから託された木箱と手紙。


 そして懐には、ずっしりと重い白金貨。


「……いいか、野郎ども! 記録を塗り替えるぞ。金ならある! 遠慮なく馬を変えろ!」


 モイコの声に応え、同行する三人の傭兵たちが雄叫びを上げる。


 彼らは道中の宿場ごとに白金貨の力で強引な交渉をし、最高級の替え馬を次々と調達した。


 農家の作業馬だろうが、商人の荷馬だろうが構わない。


 目の前に金貨を積み上げ、「今すぐその馬をよこせ!」と怒鳴りつけ、呆気にとられる持ち主を尻目に鞍を乗せ変えて走り去る。


 食料は鞍の上で干し肉をかじるだけで済ませ、夜の帳が下りようとも、松明の明かりを頼りに街道を突き進む。


 通常の馬車なら14日かかる道程だ。


 それを半分以下で駆け抜けるなど正気の沙汰ではない。


 だが、アーノルが「最速」と言った。


 ならば、傭兵の意地にかけてそれに応えるのがプロというものだ。


「あの野郎……。とんでもねえもんを投げよこしやがって」


 泥を跳ね上げながら疾走する馬上で、モイコは苦笑した。


 普通、白金貨なんて渡されたら、護衛の任務を放り出してどこかの国で一生遊んで暮らすことを考える。


 だが、アーノルのあの「曇りのない目」を見てしまえば、そんな薄汚れた考えは霧散した。


 信じられたのなら、応える。


 それが傭兵の、いや、モイコの流儀だった。


 道中、落馬寸前の疲労に襲われながらも、彼らは不眠不休の強行軍を続けた。


 そして四日という驚異的な速さで、ターマインの門を潜り抜けていた。


 ターマイン。


 街の片隅にある古びた工房に、一人の男がなだれ込んだ。


 すすと泥にまみれ、目は血走り、立っているのが不思議なほどの惨状。


 モイコである。


「……おい、サンデル……サンデルって爺さんはどこだ!」


 工房の奥で、機嫌悪そうにつちを振るっていた老人が、忌々しげに顔を上げた。


 サンデルだ。


 あの至高の魔剣を打ち上げた後、少しは隠居するかと思いきや、相変わらずの気難しそうな面構えで鉄を叩いていた。


「……あァ? どこの野良犬だ。うちは冷やかしはお断りだ、帰れ」


「これだ……アーノルっていう野郎からの、届け物だ……!」


「アーノル」という名前を聞いた瞬間、サンデルの手が止まった。


「……あのクソガキか。ついこの間、涙の別れをしたばっかりじゃねえか。また何か企みやがったか」


 サンデルは荒っぽく手紙をひったくり、中身を読んだ。


 そこには、アーノルの丁寧だが図々しい、あまりに具体的な注文が書き連ねられていた。


『あの「粘りのある鉄」を使って、サンプルのサイズで「完全な球体」を、とりあえず200個作ること。

 すべてにび止め加工を施すこと。

 これが終わった後、さらに別の部品をいくつか頼むかもしれません。

 それらすべての注文を完遂したら、仕上げにもう200個、同じ鉄球を作ること。

(これは、できたらでいいですよ)』


 読み進めるうちに、サンデルの顔が、赤、青、そして怒りで土色に変わっていく。


 彼は手紙と一緒に同封されていた「基準サイズの鉄球」を取り出し、日の光にかざして――それから床に叩きつけんばかりに叫んだ。


「この…………この、大馬鹿野郎がぁぁぁぁぁッ!!!!」


 雷鳴のような咆哮が工房に響き渡る。


 モイコは思わず耳を塞いだ。


「俺を誰だと思ってやがる! 至高の魔剣を打ち、伝説に名を刻むはずのこの俺に……!『玉』だと!? ただの、丸っこいだけの鉄の粒を、あの苦労して作った粘り鉄で打てだとぉ!?」


 サンデルは手紙をクシャクシャに握りつぶし、地団駄を踏んだ。


「しかも完全な球体だと!? 400個すべてを、寸分の狂いもなく鏡のように磨き上げた真球にしろだと!? 鍛冶屋を、名匠サンデルを、数珠作りの内職と一緒にすんじゃねえぞ、あのクソガキィッ!!」


 怒りは止まらない。


 あまりに無理難題、しかしそれゆえに職人のプライドを逆なでする最高の挑発だった。


「おい、爺さん……。アーノル君は急ぎだって言ってた。言い値で払うともな。……これを受け取ってくれ」


 モイコが白金貨を差し出そうとしたが、サンデルはそれを手で制した。


「金なんざいらねえ! 汚ねえ金で俺の腕を買おうなんて、百年早いんだよ!」


「……そうか、受け取らないか。あいつの予想通りだ。……でも爺さん、あいつは本気だぜ。俺たちに死ぬ気で走らせるくらいにな」


 モイコが肩をすくめて言うと、サンデルは憤慨しながらも、床に転がったサンプルの鉄球を拾い上げ、じっと見つめていた。


 その目は、怒りの中に、隠しきれない「技術者としての火」を灯している。


「……フン、相変わらず無茶苦茶なことを考えやがった。あの粘り鉄と錆止めをこんなことに使いやがるとは。……おい、野良犬。外で寝てろ。白金貨はあの野郎に返してやれ。代わりに、一番いい炭と酸を、俺のツケで集めてこい」


 サンデルは上半身裸になり、巨大な槌を構えた。


 その背中には、職人の意地が立ち昇っている。


「まずは200だ。二日で仕上げる。その間、俺を邪魔する奴は叩き殺すと思え!」


 工房に、これまで以上に激しい槌音が響き始めた。


 モイコはそれを見届け、倒れ込むようにして工房の軒先で意識を失った。


 信頼と、意地。


 ターマインの熱気が、レーマネで待つアーノルの元へと届こうとしていた。






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