後編
医務室の隅。
教頭は、記録用の水晶板に映る数値を見下ろしていた。
淡々とした表情のまま、指先で頁を送る。
――そして。
一瞬だけ、動きが止まった。
「……」
それだけだった。
何も言わない。
眉も動かさない。
だが、確かに“間”があった。
校長が気づき、視線を向ける。
「どうした?」
「いえ」
教頭は、すぐに水晶板を伏せた。
「記録を整理していただけです」
その声は、いつも通り冷静だった。
だが――
その場にいた誰よりも長く、
数値を見ていたのは教頭だった。
校長は、それ以上追及しなかった。
問い返さないこと自体が、
互いの理解を示している。
視線は再び、ベッドの方へ。
ルカは、穏やかな寝息を立てている。
何も知らず。
何も疑わず。
アリアは、少し離れた場所で椅子に腰掛けていた。
膝の上で、指先をきゅっと握りしめる。
(……さっき)
あの混乱の中で、
必死に抱きしめたとき。
胸元に伝わった感触が、
どうしても脳裏から離れない。
(……気のせい、よね)
今、こうして見ている限り、
ルカはいつも通りだ。
華奢で、細くて、
女の子みたいな顔をしているけれど――
それ以上でも、それ以下でもない。
それなのに。
(……こんな感触だった、かしら)
答えは出ない。
出してはいけない気がした。
そのとき、教頭が口を開く。
「本日の訓練は、すべて中止します」
淡々とした宣告。
「覚醒段階の初期兆候が見られます。
これ以上の刺激は不要です」
アリアは顔を上げた。
「初期……兆候?」
「詳細は、後ほど説明します」
教頭はそう言って、
それ以上は語らなかった。
水晶板を脇に置く。
その表面には、
すでに表示は消えている。
――だが、
教頭の脳裏には、
先ほど見た“値”が、はっきりと焼き付いていた。
(……一時的とはいえ)
(身体反応が、ここまで寄るとは)
教頭は、眠るルカを見つめる。
感情に引きずられ、
力が形を変え始めている。
それは、失敗ではない。
順序の問題だ。
「……」
再び、教頭は何も言わなかった。
だが、その沈黙は、
この学園が想定していた未来が、
静かにズレ始めたことを示していた。
まだ誰も、
その意味を口にしないまま。




