聖女であるという自覚は、彼にはなかった。
目を覚ましたルカが最初に感じたのは、違和感だった。
体が軽い。
あれほどまでに痛んでいた足も、胸の奥の息苦しさも、嘘のように消えている。
それなのに――胸の奥だけが、妙に静かだった。
悲しみも、怒りも、消えたわけじゃない。
ただ、暴れ回っていた感情が、厚い布で包まれたように抑え込まれている。
――これ、良いことなのか?
ルカには、判断がつかなかった。
「……起きて、いますか?」
恐る恐る、声がかけられる。
視線を向けると、修道服を着た女性が立っていた。
三十代ほどだろうか。疲れた表情の奥に、必死に穏やかさを保とうとする気配がある。
「ここは……?」
「修道院です。あなたを運び込んだのは、夜明け前でした」
修道女は名を名乗らなかった。
それだけで、彼女がどれほど混乱しているかが分かる。
ルカは、ゆっくりと身を起こした。
「……俺、死んでなかったんですね」
その一言に、修道女の顔が強張った。
「……ええ。奇跡的に」
沈黙が落ちる。
修道女は、意を決したように、ルカの手を取った。
「祈りを……捧げましたか?」
ルカは、少し考えた。
「……祈った、というより……怒鳴った、かもしれません」
修道女の指が、わずかに震えた。
*
修道院の一室では、別の混乱が起きていた。
治療用の聖具が、軒並み反応を示している。
本来なら聖女か、少なくとも神官でなければ反応しないはずのものだ。
「おかしい……」
「聖力の流れが……いや、これは……」
年老いた司祭が、喉を鳴らす。
「……聖女の反応だ」
その言葉に、空気が凍りついた。
「ですが、聖女候補はまだ……」
「分かっている。だからこそ、異常なのだ」
司祭の視線は、扉の向こう――ルカが休んでいる部屋に向けられた。
「性別を、確認したか」
「……はい」
短い沈黙。
「……男児です」
誰かが、息を呑んだ。
否定の声は出なかった。
聖具は嘘をつかない。
*
ルカは、そのことを知らない。
修道女に与えられた温かいスープを、静かに口に運びながら、ぼんやりと考えていた。
――生き延びたのは、運が良かっただけだ。
そう思おうとしても、胸の奥が拒否する。
修道女が、そっと言った。
「……あなたが祈ったとき、礼拝堂で光が満ちました」
「……そう、ですか」
「神が、あなたを見捨てなかったのです」
その言葉に、ルカは目を伏せた。
「……それは、違います」
「え?」
「俺は……救われるようなこと、してません」
修道女は、言葉を失った。
ルカは、淡々と続ける。
「助けられなかった。守れなかった。何もできなかった」
声は静かだった。
だが、その静けさこそが、修道女を震えさせた。
「だから……たぶん、これは罰が遅れてるだけです」
修道女は、思わずルカを抱きしめた。
その瞬間。
彼女の体に溜まっていた疲労と痛みが、ふっと消えた。
「……え?」
修道女は、自分の体を見下ろす。
長年の古傷が、消えている。
関節の痛みが、ない。
ゆっくりと、ルカを見る。
「……あなた、今……」
「……?」
何もしていない。
ただ、触れただけだ。
それだけで――癒えてしまった。
修道女は、理解した。
この少年は、もう隠せない。
そしてルカは、その視線の意味を、まだ知らない。
その日、修道院は静かに決断した。
この少年を、教会に報告する。
それが、世界を揺るがす第一歩になるとも知らずに。




