見られたくない奇跡
教室の後方。
リネット・ハルトは、静かに席に座っていた。
授業が始まる前の、ざわついた時間。
彼女はメガネ越しに、そっと前方を見る。
(……あの人)
ルカ・セリウス。
昨日、
あの不思議な声の持ち主。
動作は控えめ。
姿勢も、視線も、できる限り目立たないようにしている。
(……似てる)
声と、雰囲気が。
そう思った、そのとき。
「……ねえ」
背後から、低い声。
リネットの肩が、びくりと跳ねた。
「……そのメガネ、地味じゃない?」
別の声が、くすっと笑う。
「聖女候補なのに、
視力悪いってどうなの?」
笑い声。
リネットは、何も言えなかった。
(……やめて)
声を出せば、
余計に注目される。
俯いたまま、
耐える――はずだった。
しかし。
「……聞こえてないの?」
机を、軽く叩く音。
限界だった。
リネットは、立ち上がり――
教室を出ようとした。
その瞬間。
――つまずく。
「あ……」
足がもつれ、
前の机に――
ごん、と鈍い音。
額に衝撃。
視界が、白く弾けた。
教室が、静まり返る。
(……見ないで)
床に倒れたまま、
ただそれだけを願った。
そのとき。
「――まぁ!」
場違いなほど、
はっきりした声。
「大丈夫ですの!?」
次の瞬間、
誰かが駆け寄る気配。
リネットは、ぼやけた視界の中で、
差し出された手を見る。
白く、細い指。
「さ、立てましてよ」
(……?)
聞き覚えのある――
丁寧すぎる口調。
その手を取った瞬間。
――熱。
指先から、
じんわりとした温かさが広がる。
「……え?」
ルカは、はっとした。
(しまっ――)
反射的に、
もう一方の手で、
彼女の顔に触れてしまう。
「だ、大丈夫ですわ……
すぐ、治りますから……」
――光は、出なかった。
だが。
リネットの世界が、
ゆっくりと、輪郭を取り戻す。
床の木目。
机の角。
そして――
目の前の人の、顔。
「……」
はっきり、見えた。
整った顔立ち。
驚いたように見開かれた瞳。
――ルカ。
教室が、ざわつく。
「今の……?」
「何したの?」
「治った……?」
ルカは、我に返った。
「……っ!」
ぱっと手を離し、
一歩下がる。
「……あ、あの……」
完全に、
貴族令嬢口調だったことに、
今さら気づく。
「……お怪我がなくて、
なによりですわ……」
(最悪だ……)
注目を浴びたくない。
なのに、
一番目立つ形で動いてしまった。
リネットは、ゆっくりと立ち上がる。
そして。
「……ありがとう、ございます」
はっきりと、
ルカの顔を見て言った。
その視線は、
もう、霞んでいなかった。
教室の奥。
アリアは、
額に手を当てた。
(……やったわね)
校長室で言われた言葉が、
脳裏をよぎる。
――覚醒未満は、一番危険。
ルカは、
何も言わず、席に戻った。
俯いたまま。
だが。
リネットの胸は、
小さく、確かに震えていた。
(……見えて、しまった)
声だけの人。
不思議な人。
そして――
奇跡を、隠そうとする人。
彼女は、
もう、目を逸らせなかった。




