背に触れるもの
きた――
駅のホームが近づくのを、ドアの窓から見ながら、心の中で舌打ちをする。
この時間、この車両には、あの人が乗っている。
わたしは勝手に、彼をダッシュマンと呼んでいる。
リュックを腹の前に抱え、電車を降りるなり走り出す人。
普段ならこの車両は避けているのだけれど、今日は混んでいて、ほかに乗れなかった。
最後に乗り込むことが多いわたしは、つまりドアの前にいる。
そこへやってきた彼の荷物が、いつもわたしの背を軽く掠める。
急いで降りたいのに邪魔だ、と言われているようで。
何度も繰り返されたその「軽さ」が、少しずつ積もっていた。
この後、電車が止まると、最初に降りたわたしは一歩横にずれる。
それを合図にしたかのように、彼は横を走り抜け、改札を誰よりも早く通るのだろう。
わたしはスマホを開き、妄想を綴ったメモを眺める。
それらは、自衛のための小さな物語だ。
たとえば彼はスーパーマンで、毎日誰かを救っているのかもしれない。
仕事終わりに呼び出され、一秒でも遅れれば、何かが壊れてしまうのだ。
あるいは、幼子を迎えに行っているのかもしれない。
保育園で迎えを待つわが子のために、一秒を惜しんで走っているのだ。
そうした、やむを得ない事情があると思えば、少々の不愉快は、我慢できる。
そうやって、いつも自分を納得させていた。
けれど今日は、帰宅後の予定がない。
わたしは気まぐれに、ダッシュマンを追跡してみることにした。
彼がダッシュする理由に、興味が湧いたのだ。
改札を抜けても、彼はスピードを落とさない。
人の流れを縫い、迷いなく、まるで行き先を知っているかのように。
一定の間隔を保ちながら、彼の背中を追って走る。
流れる景色の中で、看板の文字がやたら目につく。
走るわたしの足取りは妙に軽く、まったく息も切れない。
響いているのは、わたしと彼の靴音だけだった。
気づくと、周囲から人も車も消えていた。
何も音がしない。
看板も信号も、ただの背景のように静止している。
少し先で、ダッシュマンが立ち止まった。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
どこかで会ったような、知っているような、知らない顔。
年齢も、表情も、定まらない。
ただ、静かな目だけが、妙に印象深い。
「どうして、いつも急いでいるんですか」
わたしは、そう尋ねた。
彼は少し困ったように笑う。
「急いでいるわけじゃないんです。先を、知りたいだけで」
意味がわからず首をかしげると、彼はわたしの背後を指さした。
振り返る。
そこには、文章があった。
見覚えのある言葉の列。
わたしが今まで、頭の中で並べてきた――小さな物語たち。
「あなたが立ち止まると、ぼくも止まる。
あなたが先を書こうとすると、ぼくは走るんです」
彼は、片手で頭を掻きながら言った。
「いつも当たってすみません。
つい、次のページをめくろうとしてしまって」
その瞬間、すべてが腑に落ちた。
ダッシュマンは、わたしを追い越していたのではない。
いつも、少し先で待っていたのだ。
続きを、求めて。
「楽しみにしています」
軽く会釈をした彼は、もう一度走り出した。
今度は、振り返らずに。
街のざわめきが戻ってくる。
によによと締まらない口元を片手で覆う。
――わたしの背に、また、軽く触れる感触がした。




