仄命子
わからない、とにかくわからない、なにもしんじれない、かんじない、、、
なにかが、ゆるやかに透けた。
それが開いたことなのか、閉じていったものなのか判別できる感覚はなかった。
視界、というものがあったかどうかも定かでない。
けれど、それに似た何かが、静かに意識の手前を濡らしていった。
目をひらいたつもりだった。
けれど、ひらくという行為自体がただ“そう感じた”だけで、
実際に起こったかどうかは曖昧だった。
そして、それは、そこにあった。
そう、、、イルノ。
色ではない。
光でもない。
感情と呼ぶには遠すぎて、
記憶と呼ぶには近すぎた。
それは
視ようとした瞬間にだけ発生する、知覚の残響のようなもの。
何かが視えた、というよりも、
視たという記憶だけが残っていた。
夢と現実の隙間に、ひそやかに立ちのぼる気配。
誰にも視られていないはずの像が、なぜかすでに“存在していた”。
それが、イルノだった。
空間はどこにもなかった。
けれど、空間に似た広がりが、感覚のなかにあった。
わたし──と呼んでもよいようなものが、
そこに「いた」というより、「いようとしつづけていた」。
何も名づけられていない。
けれど、名づけようとする動きが、どこかでゆっくりと始まっていた。
音も、かすかに聞こえていたような気がする。
だが、音に似た内的な明滅だったのかもしれなかった。
イルノが漂っている。
確かなものはひとつもないが、
それだけは“まだ去っていない”。
居続けるのは、やさしい。
この場所では、選ばなくてもよかった。
沈むとも、浮くとも言えない状態に、ただ滞在できた。
だが──
「ここに居続ければ、なにも傷まない」
「ここに沈んでいれば、なにも変わらない」
その囁きが、心地よくある一方で、どこかで怖ろしかった。
視ようとすることをやめてしまえば、
わたしはもう二度と、「視えてしまったもの」に触れられなくなる。
それだけは、避けなければならない気がしていた。
ほんのわずかに、
まばたきに似た明滅が起こった。
そのあと、空間がすこしだけ揺れた気がした。
イルノがわずかに後退する。
それは拒絶ではなかった。
ただ、わたしの輪郭が、ほんのすこし、戻りかけた。
この感覚に、名前があるとすれば──
仄命子。
かすかに兆し、
命になりきれず、
ただ“視られること”を待ちつづける、未明の存在。
全10話の第1話「仄命子」となります。