29話(68話) 運命の日は、うんとおめかしをして
迎えた土曜日。
ジニは緊張から、起床予定時刻の一時間前には目が覚めた。
二度寝なんかしている心の余裕はない。
彼はそわそわとベッドから起きて顔を洗い、髪をとかすとクローゼットを開け、セピア色のスリーピーススーツを取り出した。
『男たるもの、社会に出るならスーツの一着ぐらい持っとけ』。これは、そんな言葉と共に就職前に父から贈られたものだった。
仕事では作業着しか着ていないので、今まで着る機会なぞ一回もなかったが、今日という運命の日に、父からの贈りものはついに狭いクローゼットから外界へ飛び出す。
「……少しは、キマッて見えるかな……?」
大人の男とは即ち、スーツを着こなせる者。
今日の自分は、少しだけそちら側に足を踏み込めているような気がした。
「…………」
着替えが終わり、ジニはテーブルに置いたイヤリングの入ったケースを見つめる。
「……落ち着けよ、今日のプランはバッチリ立てただろ……?」
公園や百貨店でのんびり過ごし、ボールルームへ向かう。そしてひとしきり楽しく踊った後は頃合いを見てマーシアと共に港へ行き、夜景を背に彼女に告白をする。
完璧だ。
そして、今日という日が凄く楽しみなのだ。
本当の本当に。
だから今、手を震わす必要なんてどこにもないはずなのだが──。
「……っ、クソ、落ち着けってのに……! だあっ、もう! と、とにかく、準備準備!」
ジニは震えの止まらない自身の手をピシッと叩くと、以前会社からもらった開発試作品の【やや無限収納バッグ】に、あれやこれやと手当たり次第に荷物を突っ込む。
フェリクスに改良してもらった一人オーケストラくんも、とりあえず突っ込む。
『演奏する時、手がそれぞれ本体から離れて浮かぶようにしてみたよ。以前の未確認生物みたいな見た目で演奏されるよりかは、だいぶマシになったんじゃないかな』
『言い方よ……』
先日、そんな感じで生まれ変わった一人オーケストラくん・改は、そのままジニの手に渡っていたのだ。
フェリクスには冗談混じりに「デート時のムード演出にでも使ってくれ」と言われたが、こんなものを使う暇が出てくるかは正直不明である。
だが、とりあえず持っていく。
「……って! 何だかんだ、こんな時間かよ!? あ゛ーーッ!! ネクタイ巻くの忘れてた!!」
早起きがまるで意味を成さず、ジニは大急ぎで残りの支度に取り掛かる。
出発時間に間に合ったのは、ほとんど奇跡と言ってもいいだろう。
****
早くに目覚めてしまったのは、マーシアも同じであった。
目覚めたというよりは、深く寝付けなかったと言ったほうが正しいが。
先日購入した服一式に着替えると、鏡の前にはいつもと違うファッションに身を包んだ自分の姿。
改めて、この日がやってきたのだと実感する。
化粧はやはり慣れないが、それでも今日は、もう少しだけ挑戦をしてもいいような気がした。
マーシアは、化粧台の引き出しを開ける。
そこにはかつて付けることを躊躇い、引き出しの奥にしまいこんだ深紅の口紅があった。
付けすぎないよう薄く口紅を引き、唇を結んで馴染ませる。
(……思っていたより、浮いていないみたい)
ワンピースに赤色が含まれていることもあってか、口元だけ不自然に目立つことはなさそうだ。
マーシアは安堵の息を吐いた。
(…………)
心臓が、トクトクと音を立てる。
きっと日がな一日、彼の出番も多かろう。
気が付けば、そろそろ家を出る時間が迫っていた。
マーシアは最後に鏡を見て髪を整えると、椅子から立ち、玄関に向かった。
****
先にブルスバリー駅に着いたのは、マーシアのほうだった。
待ち合わせは以前と同じ場所だ。
マーシアは時計台の文字盤を一瞥し、ジニを待つ。
「……あっ!」
ほんの数分後、駅の階段を下るジニの姿が見えた。
自ずと笑顔になり、マーシアは彼の元へ向かう。
「エラ様、おはようございます」
「……!? ウォルジー!! おはっ、おっ、おはよ!!」
マーシアを見た途端、ジニはしどろもどろに彼女に挨拶を返した。
「……いつもと、雰囲気違うな……」
「はい。流行りのワンピースを、着てみようと思いまして……」
「ああ、そっか。そういえば、前に俺に聞いてたもんな」
ジニは定まらない視線の拠り所をウロウロと探し、ひとまず地面に着地させる。
「……よく似合ってる。本当に、いや、マジで……」
「……っ、よ、よかったです……」
期待していた言葉がマーシアの心に刺さり、むず痒さを与える。
幸いジニの視線は彼女から外れていたため、火の灯った顔が彼にバレることはなかった。
「さ、さあて……。じゃあ、ちょうど昼時だし、先に昼飯食いに行くか?」
大きく息を吐くとジニはようやく視線を上げ、ふいにマーシアにそう問いかける。
「はい、そうしましょう。ちょうどあちらの通りに、飲食店もあるようです」
「ホントだ、ちょっと行ってみるか。ちなみにウォルジー、何食いたい?」
「ふふっ。お腹ペコペコですので、何でも食べられます」
「そりゃよかった。俺も超ペコペコ」
他愛もない会話で笑い合いながら、二人は飲食店のほうを目指す。
「……あっ!」
すると突然、マーシアが声を上げた。
「エラ様! あちら、デリカッセンがあります!」
「え? ああ、そうだな」
持ち帰りの惣菜などを販売するデリカッセンを、マーシアは好奇の眼差しで見つめる。
「……入ってみるか?」
何かを察したジニは、自分から彼女にそう提案した。
「……! よ、よろしいのですか!?」
「へへっ、いいに決まってんじゃん。何ならここで飯買って、どっか公園で食べようぜ」
「まあ……ありがとうございます!」
マーシアはジニに礼を言うと、楽しげに体を揺らし、デリカッセンへ向かっていく。
その様子を、ジニはすぐ後ろから見守るようにしてついていった。
「──なあ……。ほんっとうに、これでいいのか?」
入店して、しばらく。
マーシアが購入を決めた商品に、ジニは先程とは打って変わってあからさまな苦い顔を示すと、再三彼女に確認する。
それもそのはず、マーシアが選んだのはパストラミビーフがたっぷりと入った、いかにも食べにくそうなパストラミ・サンドウィッチだったからだ。
「はい! 先日エラ様が召し上がっているところを見て、一度いただいてみたかったんです!」
「ええぇ、マジかよおぉ……」
マーシアの瞳はキラキラだ。
まるで、食への興味がそこに凝縮されているかのように。
ジニは溜め息を吐くと、揺るがぬ決意を持ったお嬢様に最後の注意を促す。
「だったらなあ! 食べる時、絶対ソース溢さねぇように気を付けろよ! 手も汚れるからな! 服に付けたらおしまいだぞ! ぜーーったい、溢すなよ!」
「うふふっ、承知しました」
マーシアはジニの警告を嬉しそうに聞くと、商品を購入した。
「美味しい……っ!」
購入後、近くの公園のベンチでマーシアはパストラミ・サンドウィッチを口にすると、たちまち笑顔を浮かべる。
「すっかり、かぶりつく食いもんに慣れたみたいだな」
「はい、豪快にいただくお料理の美味しさに目覚めましたので!」
口に広がる肉が多幸感を呼び寄せ、マーシアの緊張は次第に解れていった。
「……?」
ふと、マーシアはジニの視線に気付き、ハッと彼に顔を向ける。
「エラ様、どうかなさいました?」
「……ううん、何でもねぇよ」
ジニは小さく笑うと、自分が買ったサンドウィッチをむしゃりと少しだけ口に入れた。




