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婚約者に選んでしまってごめんなさい。おかげさまで百年の恋も冷めましたので、お別れしましょう。

作者: ふまさ

 あなたは、決して叶うことのない恋をしている。そのことを、わたしは知っている。


 叶うことがないのなら、いつか、わたしがあなたの一番になれる日がくるんじゃないか、なんて。


 想っていた。信じていた。


 馬鹿みたいね。





 マリアーノ伯爵家の長女として生まれたエリカには、二人の妹がいる。伯爵家の長女として、厳しくしつけられてきたエリカが甘えられるのは、婚約者のバージル・カステロだけ。


 バージルが他の人を想っていることに気付いたのは、婚約して数年経ってからのこと。けれど、それは決して叶わぬものだったし、バージルは優しかったから、それでもかまわなかった。寂しくもあるし、ふいに泣きたくなることもあったけど、それでも、バージルを愛していたから。


 自分を磨き続ければ、いつかきっと、一番になれるはず。そう信じて、一緒のときを過ごしていた。


 バージルとの出会いは、マリアーノ伯爵が開いた、エリカの誕生日会のとき。十歳になったエリカの婚約者候補として、エリカと近い年頃の長男以外の令息が、何人か招待されていた。バージルはその中の一人だった。


 マリアーノ伯爵家に、男児はいない。つまり、長女のエリカと結婚することができれば、いずれ、爵位が継げる。長男以外の貴族の男は、成人すれば、家を追い出されてしまう。婿養子として爵位を継ぐことができなければ、財産もなく、自力で、しかも貴族令息として相応しい職業につかなければならない。


 だから、どの令息も、エリカへのアプローチは必死だった。むろん、その親も同様に。


 笑顔で対応するも、エリカは少々、うんざりしていた。そんな中、バージルは、とても落ち着いていた。余裕があるというか。エリカにはそれが、とても大人びて見えたのだ。


 いま思えば、そのときすでに、バージルには想い人がいた。だからこその対応だったのだろうが、そのときのエリカに、それがわかるはずもなく。



 バージルと出会ってから五年ほどの月日が経ったが、エリカは、バージルが怒ったり哀しんだりしたところをほとんど見たことがない。いつも、穏やかな笑みをたたえている。


 エリカが男の人と一対一で話していようと、表情を変えない。焦らない。あるいはそれは、信じてくれている証拠なのかもしれないが、少しでもいいから、妬いてほしいという願いはあった。たとえ一番ではなくても、愛されているという証がほしかったから。


 エリカは、バージルが女性と話しているだけで、胸がもやっとするのを感じていたから、同じであってほしかった。



 そんなバージルの感情が、表情が動くのは、唯一、バージルの想い人が目の前に現れたときだ。





「──姉上! 戻られていたのですね」


 王都にある、カステロ伯爵の屋敷。今日はバージルの家族との晩餐の約束があったため、バージルと共に、王立学園から一緒に帰宅してきたエリカ。バージルが応接室の扉を開けると、そこには、バージルの実の姉である、アルマがいた。椅子に座り、にっこりと上品に笑う。


「ふふ。久しぶりね、バージル。エリカも、会えて嬉しいわ」


 三歳年上のアルマは、一年前、メンデス辺境伯に嫁いだ。アルマが住む屋敷は、王都から馬車で十日以上もかかるため、そう頻繁には会えない。アルマがメンデス辺境伯に嫁いでから、顔を合わせたのはこれがはじめてだった。


「はい。わたしも嬉しいです」


 そう返すエリカは、内心、複雑だった。アルマのことは、嫌いではない。どころか、本当の姉のように慕う気持ちすらある。


 ──でも。


「今回は、いつまでこちらに居られるのですか?」


 溢れんばかりの、バージルの笑顔。これで本当に、誰も気付いていないのだろうか。毎回、不思議で仕方がない。


「夫の代わりに、王宮に使いに来ただけだから。それでも久しぶりの実家だろうから、せめて一日はゆっくりしてきなさいとおっしゃってくださったので、明後日の朝、立つつもりよ」


「それは、タイミングが良かったです。明日はちょうど、学園がお休みですから。一日、一緒にいれますね」


「バージルは本当に、甘えん坊さんね。そんなんじゃ、エリカに笑われるわよ?」


 冗談のつもりなのだろうが、エリカは笑えない。他のみなは、ここにいるカステロ伯爵夫人も、使用人も朗らかに笑っているが、エリカの笑顔は引き攣っている。


(……どうして誰も気付かないんだろう)


 バージルの双眸は、アルマを熱っぽく捉えている。それは、異性を見るそれだ。姉に向けるものではない。果たして、バージルにその自覚があるのかは、いまだにわからないが。


「そう言えば、お兄様は?」


「地方にある、婚約者のお屋敷に行っているわ。こちらは、タイミングが悪かったわね」


 向かい合うアルマとカステロ伯爵夫人の会話に、バージルが静かに耳を傾ける。エリカにはそれが、アルマの声を一言も聞きもらすまいとしているように見えて。


(考え、すぎかな……)

 

 いや。そもそもがすべて、エリカの勘違いという可能性も、なくはない。だって、なにも確認していないのだから。バージルはただ純粋に、姉として、アルマを慕っているのかもしれない。


(だとすれば、失礼なのはわたしの方よね)


 どちらにせよ、確かめるつもりはない。意味がないから。答えがどうであれ、バージルと結婚することに、かわりはない。




 だって、アルマはバージルの実の姉で。すでに、別の人と結婚しているのだから。






 仕事から帰宅してきたカステロ伯爵も交え、身内だけの小さな晩餐会が開かれた。久しぶりの家族の再会に、話が盛り上がる。気付けばすっかり外は暗くなっており、エリカはその日、カステロ伯爵の屋敷に泊まることになった。


 勝手知ったる客室で、寝間着に着替えるエリカ。明日は朝から、アルマとバージルと三人で、街に出掛けることになっている。もう寝ようと、寝台に入り、目を閉じた。



「……眠れない」


 一時間。二時間。時間だけが過ぎていく。原因はわかっている。アルマ以外には、決して向けない、バージルの笑顔が脳裏に焼き付いて離れてくれない。はしゃぐバージルの姿が、言葉が、考えないようにしても、勝手に脳内で繰り返され、結果、頭が冴えてしまうからだろう。


「……喉、かわいたな」


 諦めたように呟くと、蝋燭に火をつけ、燭台を持ち、立ち上がった。扉を開け、廊下に出る。


 階段を下ろうと伸ばした足を、エリカはぴたっと止めた。なにか、くぐもった微かな声が背後から聞こえた気がしたからだ。


 ぞくっとし、燭台を後ろに向ける。そこには、誰もいない。ほっとしつつ、そこから一番近くにある部屋に目を向ける。そこは、かつてのアルマの部屋で、今晩、アルマが泊まっている部屋でもあった。


(……気のせいかな)


 思ったと同時に、目線の先の扉が勢いよく開いた。びくっと肩を震わせるエリカの視界に飛び込んできたのは、アルマだった。


「……アルマ様?」


 エリカが思わず呟くと、アルマは、目尻に涙を浮かべながら「逃げて!」と叫んだ。


「ど、どうされたのですか?」


「へ、部屋に、誰かが侵入してきたの……馬乗りにされて、口を塞がれて……あ、あたし……ひいっ」


 アルマがエリカに抱き付く。こつ、こつ。アルマの部屋から、こちらに向かってくる足音が響いてきたからだ。


「だ、誰か……っ」


 ガタガタと震えながら助けを呼ぼうとするが、恐怖から、まともに声が出せない。逃げないと。逃げないと。頭ではわかっているのに、身体が動いてくれない。



「──姉上、僕です。大丈夫ですよ」



 部屋から現れ、エリカの手にある蝋燭の灯りに照らされのは、紛れもなく、バージルだった。その顔は、困ったように眉尻が下がっていた。


「…………え?」


 アルマが、キョトンと目を瞠る。心底不思議そうな顔をするアルマに、バージルが肩を竦める。


「何度も僕だと告げたのに、姉上、ちっとも聞いてくれないから」


「……く、暗闇で、しかも寝ているときに、突然あんなことをされたら、誰だってパニックになるわ……」


「そうですね。配慮が足りませんでした。怖がらせて、申し訳ありません」


「は、配慮って……あなたはいったい、なにがしたかったの……?」


 その問いにはっとしたのは、エリカだった。まさか、いくらなんでも。震えながらも、質問せずにはいられなかった。


「……まさか、夜這いをしようとしていたわけではありません、よね……?」


 ぽつぽつと、掠れた声でエリカが訊ねる。誰よりギョッとしたのは、アルマだった。


「な、なにを言うの、エリカ……あ、エリカとあたしの部屋を間違えたのね、バージル。そうでしょう?」


 いっそ縋るように、アルマがバージルに視線を向ける。バージルは、少し迷ったようだったが、しばらくして、首を左右に振った。


「いいえ。姉上の部屋だとわかったうえで、入りました」


「そ、そう……なら、なにかとても大切なお話があったのね」


「そう、ですね。どうしても、確認したいことがありまして」


「あ、ああ。やっぱりね。けれど、明日じゃ駄目だったの?」


「……姉上と二人きりのときに、確認したかったので」


 バージルはちらっとエリカを見てから、はあ、とため息をついた。


「……どうしてかな。きみのこと、嫌いじゃないのに。やっぱり、どうしても性的対象としては見れないんだ。なのに、姉上のことは、とても魅力的に見えてしまう」


 エリカも。そしてアルマも。静かに目を見開いた。先に口を開いたのは、開けたのは、バージルがアルマに恋愛感情を抱いているのではと疑っていた、エリカだった。


「……それはあなたが、実の姉を、性的対象として見ているということですか?」


 アルマが、信じられないというような目をエリカとバージルに、交互に向けた。


「……エリカ、冗談は止めて。バージルもよ。どうして突然……」


「突然、ではありません。僕はずっと、姉上のことが好きでした。けれど、離れてみて、より実感しました。僕がエリカに対してそういう気持ちになれないのは、エリカに魅力がないから。もしくは、僕に問題があるのか。どちらなのかと悩んでいましたが、答えは、最初から決まっていたのです」


 アルマが震えながら、止めて、と頭を抱える。でも、バージルは吹っ切れたように続ける。


「安心してください、姉上。僕は良識ある人間ですから、姉上とどうこうなろうなんて考えていません。姉上は結婚されていますし……僕も、婚約者がいる身ですからね」


 呟くバージルの声色は、どこか、諦めのようなものが含まれていた。


「エリカの婚約者に選ばれたとき、正直、迷いましたけど……姉上が、あの子は良い子よとおっしゃったので、きっと好きになれるだろうと期待していたのですが……」


 はじめて語られる本音に、エリカの中にあるなにかが、音をたてて崩れていく。


「いや、それはいいのです。貴族の結婚に、愛など必要ないですから。問題は、僕が、エリカに対してなんの魅力も感じられないことなんです」

 

 あまりにも失礼過ぎる物言いに、真っ青な顔をしたアルマが「……な、なんてことを」と、口元を手で覆った。


 エリカがバージルを愛していることは、誰の目にも、明らかだったから。


「いえ、姉上。これはとても重要なことです。いずれ爵位を継ぐ身として、跡継ぎは、絶対につくらなくてはなりません。そうでしょう?」  


「……止めて! 止めて!」


 喚くアルマからエリカに視線を移したバージルは、言い辛そうにしつつ、こう言い放った。


「ねえ、エリカ。どうか、姉上を見習って、少しは自分を磨く努力をしてくれないかな。そうすれば、僕もきっと、きみを異性として見られるようになるから」


「…………」


 黙り込み、俯くエリカ。バージルは、仕方ないなと、肩を竦めてみせた。


「どうしたの? ああ、少しきつく言い過ぎてしまったかな。でも、本当のことだから仕方ないよね。将来のためにも、いずれは言っておかなければならないことだったし。爵位を継ぐことなんてなければ、子どももつくらなくてよかったんだろうけど……きみの家には、男がいないしね」


 それでも反応がないエリカの顔を覗き込み、バージルは、やれやれと両手を広げた。


「子どものきみは、機嫌を損ねてしまったかな。ほら、抱き締めてあげるからおいでよ。それとも、口付けがいいかな。きみは、僕のことが大好きだからね」


「──いい加減にしなさいっっ!!」


 耐えきれなくなったのか。涙を浮かべたアルマが、バージルの頬を平手で叩いた。力の限り、思い切り。


 バージルは、どうして殴られたのかわからないのと同時に、大好きな姉に打たれたことで、ぽかんとしていた。アルマが、はあはあと息を荒くする。


「あ、あなた……自分がどれだけ酷いことを言っているのか、自覚はあるの?!」


「……僕は、エリカとの将来のために、正直に、自分の気持ちを晒しただけです……僕だって、エリカのことを愛したい。その気持ちはあるんです。でも、エリカは僕に甘えてばかりで……女性としての魅力が、なにもなくて」


 ──ああ。そんな風に思われていたのか。


 エリカは胸中で呟くと、前に立つアルマの肩にそっと手を置いた。振り向くアルマに、小さく微笑む。


「よいのです、アルマ様。ありがとうございました」


「……エ、エリカ。あたし、なんて詫びればいいか……っ」


「いいえ。あなたはなにも悪くないのですから、謝罪なんて、必要ありませんよ」


 二人の会話に、バージルは、ぱっと顔を輝かせた。


「やっぱり。姉上が気に入ったきみなら、きっと理解してくれると信じていたよ。話してよかった。僕も頑張るから、きみも努力して、少しでも姉上に近付けるようにしてほしいな。そしたらきっと、夜の営みもできるようになるさ」


 にこにこと、バージルは満足したように、笑みを浮かべた。


「──バージル。わたしはマリアーノ伯爵家の長女として、絶対に、嫡男を産まなければなりません」


 一歩前に出たエリカは、バージルを真っ直ぐに見据えながら、口火を切った。バージルが、わかっているよ、と答える。


「それは僕も、痛いほどよく理解している。だからこそ、きみに本心を打ち明けたんだ」


「はい。結婚する前にそれが聞けて、本当によかったです」


「僕の悩みを理解してくれて、嬉しいよ。これならきっと、きみを女性として見れるようになれるさ」


 いいえ。エリカは、ゆるりと首を左右に振った。


「きっと、という不確かなものでは駄目なんです。言ったでしょう? わたしは、絶対に、嫡男を産まなければならないと」


「? そうだね。だから、きみが努力して、僕の理想に近付けるように……」


 バージル。エリカはバージルの言葉を遮るように、名を呼んだ。


「なんの魅力もないわたしの婚約者に選んでしまって、ごめんなさい。辛かったでしょう」


「え? いや、それは別に……最初は戸惑ったけど。僕は次男だから、爵位も財産も継げないし……婿養子になれることは、僕にとって、とても幸運なことだと思ってる。だからそれは、気にしないでいいよ」


「けれど、婿養子だからこそ。爵位を継ぐからこそ。跡継ぎが絶対に必要になってくるわけですよね? もしあなたが、その立場でなくなれば、子作りもしなくてよくなる。あなたの悩みは消える。でしょう?」


 詰め寄るように、一気に捲し立てられたバージルが、一歩、後退る。


「そ、れはそうかもしれないけど……でも、僕は別に、きみと別れたいわけじゃないんだ。ただ、きみに、もう少し自分を磨く努力をしてほしいだけで」


「努力したところで、あなたがわたしを異性として見れるようになる保証はどこにもありませんよね?」


 思ってもみない方向の流れに、バージルが目線を彷徨わす。


「い、いざとなれば、どうにでもなる。例えば、姉上を想像するとかっ」


「そこまでしてもらわなくても結構です」


「……っ! なら、どうしろと!」


「わたしは、確実に子作りができる方と結婚しますので、どうもしなくていいです」


 バージルは、こんなはずではなかったというように、困惑しながら声を荒げた。


「き、きみは僕が好きなんじゃなかったのか?! そんな簡単に、別の男となんて……っ」


「そうですね。好きでしたよ。でも、おかげさまでその想いも冷めましたので、ご心配なく」


「……僕はっ! きみを信用してすべてを打ち明けたんだ! なのに……あ、あんまりだ!!」


「ええ。そのことにかんしては、本当に感謝しています」


 欲を言えば、婚約する前に打ち明けてほしかったですが。と、エリカは小さく吐き捨てた。





「夜明けと共に、お屋敷に戻り、お父様とまたここに来ます。カステロ伯爵を交え、婚約について、話し合いをしましょう」


 淡々と告げるエリカに、これは本気だと悟ったバージルは慌てて声を上げた。


「わ、わかった。僕が言い過ぎたよ。ありのままのきみを好きになれるように、頑張るから」


「バージル。もう頑張らなくていいのですよ。これまで不快な思いをさせて、申し訳ありませんでした」


「ふ、不快だなんて一言も言ってないだろう?!」


「そうでしたか? どちらにせよ、もうどうでもいい話でしたね」


「……っ。どうでもいいだなんて言うな!」


「こんなに必死なあなたははじめて見ました。異性として見れないわたしと別れられて、あなたもほっとしたのではないですか? それとも、それほどまでに爵位と財産が欲しかったのですか?」


「ち、違う! 言っただろう? 僕は、きみと別れたいわけじゃないんだ!!」


「爵位と財産が目当てで、ですね」


「そ、それだけじゃない!」


「ああ。アルマ様が認めてくれたわたしだから、でしたっけ」


 刺すような視線と、冷たい声色に、バージルの顔からどんどん血の気が引いていく。バージルも、こんなエリカを見るのは、はじめてだった。バージルに悪気はない。ただ、本音を言った。それだけだ。だが、愛されているという自覚があったからこそ、言えたことでもある。


「なにも迷う必要なんかありませんよ。アルマ様以外にも、きっと、魅力的な女性はいます。ただ、わたしがそうでなかっただけ。本当にごめんなさい」


 口角を上げるエリカの双眸は、ちっとも笑っていない。それが余計、恐ろしかった。


「……わ、悪かったよ。謝るから」


「謝罪はいりません。利害が一致しないから、別れる。ただ、それだけのことです。あなたは同じ条件で、魅力的な令嬢と婚約し直せる機会を得たのですよ? もっと喜んでくださいな」


 これ以上なにを言っても無駄だと感じたバージルは、助けを求めるようにアルマに視線を移した。


「あねう──っっ」


 アルマは、見たことのない、汚物を見るかのような目で、バージルを見ていた。


 なぜ。どうして。


 がくっ。崩れ落ちたバージルが、床に膝をつく。


 大丈夫ですか?


 エリカの声が聞こえた気がして、バージルは勢いよく顔を上げた。


 でも、エリカはすでに背を向け、アルマとなにやら言葉を交わしていた。


(…………あ)


 それは、アルマからはじめて向けられた目線と同じぐらい、ショックで。


 エリカを、アルマと同じぐらい愛していたわけではない。


 ただ。


 好意にあぐらをかいていた、かもしれないことと同時に、それを失ってしまったことにはじめて気付いたバージルは、愕然とした。


 



 両家の話し合いの中で、マリアーノ伯爵はむろんのこと、カステロ伯爵夫妻にも、烈火のごとく怒鳴られたバージル。

 

 エリカは、必要なことを告げたあと「これであなたとわたしは他人ですので、お互い、話しかけるのは止めましょう」と言い捨て、さっさとマリアーノ伯爵の屋敷に帰って行った。


 アルマも、深夜に起こった出来事を証言したあと、バージルを振り返ることなく、エリカと共に行ってしまった。


 残されたバージルを庇う者は、誰もいない。散々怒鳴られ続けたあと、バージルはしばらくの間、自室から出ることを禁止された。




 ひと月後。


 半ば追い出されるかたちで、王立学園に登校したバージル。何もかもを失ったうえ、約束されていた将来さえ無くなってしまったバージルは、無気力になっていた。


 エリカと廊下ですれ違うことはあっても、決して目を合わせてくれず、まるで最初から他人だったように、存在を無視された。


 もしかして、という想像をしていたぶん。ずっと、心のダメージは大きかった。


『あなたは同じ条件で、魅力的な令嬢と婚約し直せる機会を得たのですよ?』


 吐き捨てられた言葉が頭をまわる。確かに、それも一理あると思いながらも、気分は塞ぎ込んだまま。


「……本当に、姉上以外の女性を愛せるのかな」


 そもそも。条件が良い令嬢は、とっくに婚約している。学園に通う年齢の令嬢なら、なおさら。


(……父上は、もう、僕の婚約者を探す気はないみたいだし)


 無理だ。覚悟を決め、貴族の令息に相応しい職業につくことを考えなければ。わかってはいるのだが、バージルは勉学がさして得意ではなく、剣の腕もないため、それは限られてくる。


「……もっとよく考えて行動すればよかった」


 いかに自分が恵まれていたか。身をもって知ったバージル。そんなバージルがとある子爵令嬢に告白されたのは、それから半月ほど経った頃のこと。


「——え?」


「あたし、バージル様のこと、ずっといいなって思ってて。そしたら、エリカ様と別れられたって聞いて、居てもたっても居られなくて」


 放課後。校舎裏に呼び出されたと思ったら、初対面の相手に告白をされた。同じ年の彼女は、年よりさらに幼く見え、年上好きのバージルからすれば、好みからは遠くかけ離れていて。


 でも。


「……きみに、男兄弟はいるの?」


「いえ、いません」


「きみは長女、だったりする?」


「はい。ですから、その……もしあたしと結婚すれば、バージル様には、将来、あたしのお父様の後を継いでもらうことにはなってしまうのですが」


 これは、神が与えてくれた最後のチャンスではないか。そう考えたバージルは、それを逃すまいと、その場で告白の返事をした。


「僕でよければ、喜んで」


 バージルが微笑むと、子爵令嬢は、目をキラキラと輝かせた。


「本当ですか?!」


「うん。これから、よろしくね」


「嬉しい!」


 子爵令嬢はバージルに駆け寄ると、勢いよく抱き付き、流れるように口付けをした。バージルは数秒固まってから、はっとしたように、子爵令嬢を無理やり引き剥がした。


「……どうされたのですか?」


 子爵令嬢がキョトンとする。それはこちらの台詞だと、バージルは口を拭った。


「あ、あまりにも突然過ぎる。僕たちは、いま、知り合ったばかりだろう!」


 やだ。子爵令嬢が、いたずらっぽく笑う。


「バージル様ったら。可愛いんだから。はじめての口付けじゃあるまいし、そんなに照れなくてもいいじゃないですか」


「照れているわけじゃない」


 むしろ、怒りすら湧いてきたバージルの手を取った子爵令嬢は、その手を、自分の胸に押し当てた。


 実の姉以外に興味を持てないバージルが、顔と声を引き攣らせる。子爵令嬢はそれを、どう受け取ったのか。


「うふふ。婚約者がいたというのに、こういうことに慣れていないんですね。大丈夫ですよ。あたしが手取り足取り、教えて差し上げますから」


 この時点ではあまり知られていないが、この子爵令嬢は後に、男好きとして学園内で有名になることになる。学園に入学してまだ一年も経っていない現在でも、すでに三人と付き合い、浮気が原因で別れている。


 バージルは背筋がぞっとした。アルマは常に品があり、優雅で、バージルの理想そのものだ。けれどエリカも、奥ゆかしくて、決してこんな下品なことはしなかった。


「…………っっ」


 バージルは子爵令嬢を突き飛ばし、逃げるようにその場から走り去った。後ろで子爵令嬢がなにやら叫んでいたが、振り返るつもりも、止まるつもりもなかった。


(……そうか。そうだったんだ!)


 走りながら、バージルは血が滲むのもかまわず、口を拭い続けた。気持ち悪くて、気持ち悪くて。たまらなかったから。


「エリカに伝えないと……っ」


 校舎内に入り、エリカの教室に向かう。もしいなければ、屋敷に。そう決意しながら足を動かす。


「──失礼しました」


 運命か。というタイミングで、エリカが目の前の職員室から出てきた。バージルは息を切らしながらも、嬉しさを隠しきれないように、エリカに笑顔で駆け寄った。


「──エリカ!!」


 こちらを振り向いたエリカの顔が、歪む。無視して去ろうとするエリカの肩を、バージルは必死に追いかけ、掴んだ。


「待ってくれ。とても大事な話があるんだ」


 不快そうに、エリカがその手を振り払う。


「わたしとあなたはもう、他人なのです。気安く話しかけないでもらえませんか?」


 知り合ってから別れるまで、こんなに冷たい態度を取られたことがないバージルが、怖じ気づく。だが、負けじと食い下がる。


「お、お願いだ。一度だけでいい。話を聞いてくれ。頼む。これで最後にするから」


 エリカは、はあ、と大きくため息をつき、わかりました、と吐き捨てた。


「では、どうぞ。手短にお願いしますね」


「こ、ここではちょっと。どこか、二人になれる場所に……」


「婚約者でもないあなたと二人にはなれません」


「な、なら馬車内はどうだろうか。すぐ外に護衛を待機させてもいい」


「嫌です。ここで話してください」


「……本当に、大事な話なんだ」


 拳を震わせるバージル。エリカは眉をひそめると、五分で終わらせてください、と校舎の出入り口に足を向けた。




「──それで、大事な話とはなんですか」


 学園の外で待機していたマリアーノ伯爵家の馬車に乗るなり、エリカは口火を切った。早くすませたい。そんな思いが、ありありと見てとれた。エリカの正面に腰を落としたばかりのバージルが、それに応えるように急いで口を開いた。


「ついさっき、僕は、とある令嬢に告白をされたんだ」


「はあ、よかったですね」


「ちっともよくない。いずれ爵位を継げるというから、その告白を受けた。そのとたん、口付けをされた。そのうえ、無理やり胸を触らされたんだ」


 くわっと目を剥き、バージルが必死に訴える。酷いだろう。下品だろう。そう捲し立てる。


「そこで、僕は気付いた。あの令嬢との口付けは、心底気持ちが悪かった。でも、きみとの口付けは、ちっとも気持ち悪くなかったんだ」


 なにが言いたいのか。段々と察してきたエリカが、それでもまさかという思いから、引き攣った声で問いかける。


「……だから?」


「僕は、僕も自覚しないまま、きみのことを愛していたんだよ。それが、やっとわかった」


 目を輝かせながら、バージルが両手を広げる。まるで、感激したエリカがその胸に飛び込んでくることを予想しているかのように。


「性的対象として見れないなんて言って、ごめんね。あれは間違いだったよ。自分の気持ちにも気付かないなんて、僕は本当に愚かだった」


 頭痛がしてきたエリカは頭に手を当て、あの、と小さく呟いた。バージルが不思議そうに首を傾げる。


「どうしたの? さあ、抱き締めてあげるから、おいでよ」


「……カステロ伯爵から、なにも聞かされていないのですか?」


「え? いや、父上たちとは、あれからほとんど口をきいてなくて……」


「……そうでしたか。カステロ伯爵も、まさかあなたがこんな行動をするとは予想もできなかったでしょうから、仕方ないですね」


 エリカは、ふう、と息をつき、真っ直ぐにバージルを見据えた。


「わたしには、つい先日交際をはじめたばかりの恋人がいます。ですので、あなたとお付き合いはできません」


 もし恋人の存在がなかったとしても、復縁などあり得なかったが、あえてそれは口にしなかった。そもそもそんなこと、考えなくてもわかりそうなものだが、どうやらバージルはそうではないらしい。


(こんなにも可笑しな男だったなんて、思わなかった……)


 あのまま結婚していたらと思うと、ぞっとする。胸中でぼやきながら、バージルの反応を見る。バージルは、驚愕の表情を浮かべていた。


「女性としての魅力がないわたしに恋人ができるわけない。そう思っていましたか?」


「……ち、ちがっ。そうじゃなくて……だって、僕たちが別れてからそんなに日も経ってないし、きみが男性といるところなんて、見たことなかったから……」


「学園の方ではないですから」


「だ、誰と」


「メンデス辺境伯の弟──クラーク様です」


 バージルは目を見開いた。


「……な、どうしてっ」


「わたしに対し、とても申し訳なく思ったアルマ様が、紹介してくださったのです。クラーク様はとても誠実な方なので、もしよければ一度、会ってみてはどうかと」


「それで交際をはじめたのか? こんなに早く?」


 責めるような口調に怒りを覚えたが、エリカはそれを綺麗に隠した。


「あなたには関係のないことです。それより、わたしからあなたに提案があるのですが……バージル?」


 よほどショックだったのか、バージルは口を半開きにして呆然としていた。どうやら本気で復縁ができると思い込んでいたようだ。


 エリカは心の底から、呆れた。


「あなたは、アルマ様しか愛せない。けれど、あなたの恋が叶うことは決してない。なら、修道院に入ってはいかがでしょうか」


「…………え?」


「むろん、これは一つの提案です。決めるのはあなたですから。ですが、そうした道もあるのだということは、知っておいてもよいのかと思いまして──いえ。それぐらいのこと、あなたも考えていたかもしれませんね。よけいなお世話でした」


「……きみは」


「はい?」


「きみは、僕が修道院に入ってもいいのか……?」


 信じられないという双眸を向けてくるバージルに、エリカは、同じ視線を返したくなった。


 もはや、宇宙人と話しているような感覚さえしてきたエリカはもう、目の前の相手から逃げ出したくなったが、ぐっと堪えた。


 ──駄目だ。この人には、はっきり告げないと。決して通じない。わかってもらえない。


 今日で終わりにする。


 その一心で、エリカは口を開いた。


「バージル。よく聞いてください。わたしはもう、あなたへの好意は一つもありません。こうして顔を付きあわせることすら、苦痛なほどに、あなたのことが嫌いになってしまったからです」


 バージルは一瞬の間のあと、嘘だ、と告げた。エリカが間髪を容れず、嘘ではありません、と答える。


「アルマ様のようになれるように努力しろ。性的対象として見られない。あなたのあの言葉に、わたしがどれほど傷付いたか、あなたには想像もできないのでしょうね。けれど、おかげで目が覚めました。ですので、あなたが誰と付き合おうと、修道院に入ろうと、わたしにはなんの関係もないことなので。どうぞ、お好きに生きてくださいませ」


 ここまで言えば、流石に理解してもらえただろう。けれど、怒り出したりしないかという不安から少し身構えると、バージルは、わかったよ、と呟いた。


 ほっとし、それはよかったです、と返そうとしたエリカに、席を立ち上がり、近付くバージル。ギョッとするエリカの手を取り、バージルは真剣な表情でこう告げた。


「いま、ここで。僕はきみを抱いてみせるよ。そしたら、きみを女性として愛していることの証明になるよね?」


 触れた体温に、言葉に、エリカは気持ちの悪さから、自身でも意図しないところで、絶叫していた。


 二人が乗る馬車のすぐ傍で待機していたエリカの護衛役の男が、扉を壊す勢いで中に入ってきた。


 まさか絶叫されるとは夢にも思っていなかったバージルは、エリカに突き飛ばされた体勢のまま、固まっていた。


 そして。


 自分が嫌われていることに、ようやく気付いたバージルは、唖然としていた。




「──この恥さらしが!!」


 知らせを受けたカステロ伯爵の怒りは、頂点に達していた。未遂とはいえ、元婚約者を、それも自ら傷付けた女性を、襲おうとしたのだから、同情の余地などなく。


 カステロ伯爵家から除籍したうえで、バージルは、修道院送りにされた。





 数年後。


 エリカは日に日に膨らんでいくお腹を、愛おしそうにそっと撫でてから、椅子の背もたれに体重を預け、屋敷の窓から、オレンジ色の空を見上げた。


 ──ああ。もうすぐ、クラーク様が帰ってくるころね。


 クラークは父の跡継ぎとして、日々、忙しい日々を送っている。それでも、愚痴の一つも聞いたことがなく。それどころか。いつも、身籠もっているエリカの体調を気遣ってくれる。


「……あなたはいま、誰を想っているのかしらね」


 満たされているいまだからこそ、思う。バージルは、可哀想な人だったのだと。だって、あの人が満たされることなど、決してないのだから。


 アルマを想い続けている限り、ずっと。


 もっとも、バージルが修道院送りになってからは一度も会ってないので、本当のところはわからないのだが。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 玄関ホールから響く、クラークを出迎える使用人たちの声。ほどなく、居間の扉が開いた。


「いま、戻ったよ。エリカ」


「お帰りなさい、あなた」


「体調はどう?」


「ふふ。今朝と変わらず、元気よ」


「それはよかった」


 そう笑うと、クラークは懐から手紙を取り出した。


「手紙が届いていたよ。近々、義姉上が来るって。子どもたちを連れてね」


「まあ、本当?」


「うん。きみに会えるのを、楽しみにしているってさ」


「わたしもよ。たった一人の、お義姉様ですもの」


 言葉に嘘はない。あのことがあってから、エリカとアルマの距離はむしろ縮まり、いまでは本当の姉妹のように、互いに想い合っている。


 クラークから手紙を受け取り、目を通す。思いやりの言葉の数々に、エリカが目を細める。


 女性としての魅力がないわたしに、子を身篭もれる日が来るのかしら。不安と恐怖の日々は、実のところ、クラークとの初夜を迎えるまで続いていた。人知れず泣いた夜は、数え切れない。


 ──でも。


 わたしにもね、女性として見てくれる人はいたのよ。



 ごめんね、バージル。



 わたし、いま、幸せだわ。



                        ─おわり─ 




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