憎悪に救われた娘-ゾウオニスクワレタムスメ-
ヴァルターナ大陸の南側から中央部にかけてを領土とする最大規模の国家、セントリア神聖国。
世界中に信徒を持つクエリマ教の中心地。
国土の大半が険しい山岳地帯であり、天然の要害として利用され、他国からの侵入を阻んでいる。
聖域の守護者、脅威の排除者と呼ばれる聖堂騎士団を有し、民と聖地を守り続けている。
その聖地である首都、ベルティフォートの政務施設である宮殿。
エレノア・カリタスは、宮殿内の廊下を急ぎ足で歩いていた。
若くして枢機卿の補佐官を務める彼女は、大理石の床をコツコツと足音を立て、腰の辺りで留めた長い濡羽色の髪を揺らす。
榛色の瞳を持つ凛々しい顔には若干の焦りが滲んでいる。
エレノアの手には伝書鳩で届いた一枚の手紙が握られていた。
「エレノア様、お急ぎのところ申し訳ありません」
途中、呼び止められ足を止める。
「はい。どうなされました?」
心の中で舌打ちをしながらも、笑顔で対応する。
エレノアを呼び止めた人物は別の都市の教会を統治する大司教だった。
「トラディシア公国に新たな支部を設置する件で少々お話が……」
「トラディシアの?それは以前、教皇猊下を交えて議会で結論を出すという事で落ち着いたはずですが?」
「はい。そうなのですが、そのですね……」
次に大司教の口から出る言葉に見当が付く上、もったいぶった話し方にエレノアは尚苛立つ。
「トラディシア支部長に私を任命して戴けるよう、エレノア様の方から教皇猊下に進言していただけませんか?」
ほら案の定、とエレノアは内心で悪態をつく。
「大司教様。まだ支部を新設するという結論も出ていませんし、そもそも私は枢機卿の補佐官です。誰かを推薦したりできるような立場ではありません。申し訳ありませんが急ぎの用がありますので、これで失礼致します」
エレノアは表情を崩すことなくそう答え、頭を下げると早々にその場を後にする。
背後から大司教が「エレノア様!」と呼んだが無視した。
長い廊下を進み、階段を幾つか上り、また廊下を進むと目的の部屋の前へと辿り着く。
息を整え、扉をノックする。
「入りなさい」
穏やかな声で入室を促される。
「失礼します」
扉を開け、中へと入る。
深紅のミトラを被り、金の装飾が施された黒地の祭服に身を包んだ男性がいた。
クエリマ教枢機卿、バルガ・ヴィンデクス。
彼は分厚い本のページを、手袋をした手で捲っているところだった。
「どうしました、エレノア」
バルガは顔を上げ、エレノアと目を合わせ、優しく微笑む。
美しく光を宿す碧眼の瞳を引き立たせる彫刻の様に端麗な顔。
窓から差し込む日差しが、銀色の髪を神々しく輝かせている。
エレノアは一瞬、その姿をずっと眺めていたいなと思いながらも、バルガに手紙の内容を伝える。
「主の住処を発見しました」
そう伝えた矢先、バルガの雰囲気が一変する。
「場所は?」
先程まで優し気な声とは打って変わって、怒気を帯びた低く冷たい声。
バルガと接する機会が少ない人間ならば、この変化に戸惑うだろう。
だが、エレノアは慣れた様子でバルガの問いに答える。
「オーケアス王国、リラ村から北の山間部。亜獣生息地帯です」
「仕掛けは?」
「主によって殺されました」
「そうか」
「斥候からの報告によると、主の住処に人間が二人いるそうです。内一人は子供とのこと」
「人間?」
「はい。近づくことができませんので、遠目に確認したようですが」
「……家族ごっこでも始めたか」
バルガの声に更に怒気が籠る。
バルガと接する機会が多いエレノアでさえ、少し緊張を覚えるほどだ。
エレノアは思わず息を飲む。
「……仕掛けの処理はいかがいたしましょう?」
「後日でいい。王国に潜ませている脅威の排除者から襲撃部隊を編制。周辺に待機させろ」
「よろしいのですか?計画に支障が生じますが」
「主を野放しにしておくほうが面倒だ。俺も奴の元に向かう。斥候には引き続き監視させろ」
「直ちに手配します。私も……」
「お前は俺に代わって政務を引き継げ」
「……はい。かしこまりました」
エレノアは部屋を出ると、扉の前で俯き、小さくため息を吐く。
「私も一緒に……」
小声で呟き、言いかけた言葉を飲み込む。
顔を上げ、気持ちを切り替える。
早急に部隊編成を済ませて、潜入させた脅威の排除者に伝令を送らねば。
その後、バルガ様の支度を手伝って出発を見届けよう。
それから政務を引き継いで……という事は議会には、私が代わりに出席しなければならないのか。
議題は頭に入っているが念のため、もう一度内容を確認しておこう。
そういえば、議会の準備はどこまで進んでいるのだろうか。
進捗状況の報告がまだ届いていない。
直接確認に行くしかないか。
議会といえば、さっきの大司教……。
献金を懐に入れているらしいが、金を集める能力はそれなりに高い。
支部長はあいつでいいか。
それから……
エレノアは山のように抱えた仕事を、頭の中でリストアップしていく。
途中でそれを止めると大きなため息をついてから、少し重たい足取りで歩きだした。