獣の主-ケモノノヌシ-
一匹の狼が静かな足取りで、何かを探すように山中を歩いていた。
恐ろしく巨大な、成人男性が見上げる程の体躯。
美しい銀色の毛並み。
強者の風格を纏った堂々たる姿。
その巨狼の鋭い碧眼は、広大な縄張りの秩序を乱す存在を確信していた。
巨狼は歩を進める。
山は普段と一変して静かだった。
草木を掻き分けて走る獣の足音どころか鳥の囀りさえ聞こえない。
耳に入るのは風で揺れた草木が擦れ合う音だけ。
生き物が存在しないかのようだった。
実際は避難したり身を潜めているだけなのだろうが、そう感じさせるほどの静けさだ。
気が付けば住処から遠く離れた場所まで来ていた。
ふと、巨狼は歩みを止める。
視線の先には木々が立ち並んでいる。
その内、一本の巨木の根元。
枝葉に光を遮られたその場所に蠢く一体の影。
グチャグチャと音を立てるソレは巨狼の気配を感じて振り返る。
不気味な程に紅い眼。
口には捕食していた獣の肉片。
ソレは巨狼を視界に捉えると、咆哮を上げ巨狼に向かって襲い掛かる。
巨狼は突進してきたソレを軽やかに躱す。
ソレは勢いをそのままに木に顔面から突っ込んでしまうが、すぐさま巨狼に向き直る。
日向に姿を晒したソレの姿はおぞましいものだった。
姿かたちは狼のようだが、その身体を覆う毛は乾いた血でどす黒く染まり、異臭を放っている。
顔は潰れ、めちゃくちゃに生えた牙がより歪さを醸し出していた。
巨狼には遠く及ばないが立派な体格。
しかし、腹が異様に膨れ上がっている。
休むこと無く捕食を続けていたのだろう。
かなりの勢いで木に激突したはずだが、痛がる素振りすら見せないソレは、獰猛な咆哮と共に再び巨狼に向かって突撃する。
巨狼は首に噛みつこうとするソレの頭を、振り上げた右前足で地面に叩き付ける。
ソレは起き上がろうとするが、巨狼は虫でも潰すかのようにソレの頭を踏みつけた。
巨狼からすれば半分の力も出していないが、ソレの頭は地面にめり込むと同時に周囲に血肉を撒き散らす。
頭を潰されたソレの体は痙攣を繰り返し、やがて動かなくなった。
巨狼は首をかしげ死骸を見下ろす。
獣でも亜獣でもないこいつは何なのか。
数十秒程考え、そして止める。
住処を出てから随分時間が経っていた。
結論を出すのは後にして、巨狼は家族がいる住処へ戻ることにした。
先程まで静けさに包まれていた山の中に、鳥の囀りが響いていた。